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【短編小説】 こえ (2000文字)

 前日に身を投じようと思っていた電車に、青年は乗り込んだ。

 不思議なものだ。あの男に声をかけられなければ、今はなかった。

 昨日、青年はホームの一番端に立っていた。苦しまず、確実に。電車が勢いよく入ってくるタイミングを狙っていた。

 電車が近づいてくるのが見え、数歩、更に際に近づいた。

「痛いですよ。」

 突然背後からかけられた声に、青年は飛び上がって振り返った。

 そこにはフードを目深に被り、口元だけを覗かせた全身黒ずくめの若い男が立っていた。フードからはみ出た銀髪が風に揺れる。

「終わらせるならこんな方法ではなく、これをどうぞ。」

 男は香を青年の前に差し出した。違法性を疑い躊躇する彼を見て、男は不適な笑みを浮かべた。

「違法性はありません。ただし、あなたの方法よりもずっと楽に終わらせられます。」

 普通の精神状態ならこんな疑わしい状況で絶対に手は出さない。しかし、苦痛なく終えることを望んだ青年は、逆に男の不気味さに信憑性を感じてそれを手に取った。

 そのまま家に帰り、香に火をつけた。室内が香の匂いに満たされると、突然頭の中に声が響いた。

「逃げろ。」
「だれ?」
「おまえ。」

 青年は言葉をのんだ。確かに自分の声だ。幻聴だろうか。すぐにその声はもう一度「逃げろ」と繰り返した。

 自分の声が話しかけてくる状況に戸惑いつつも、自分の声はどこに逃げろと言っているか気になった。

「どこへ?」

 突如、フラッシュバックのように映像が頭の中に浮かぶ。北の大地、両親が離婚する二年ほど前、最後に家族で旅行をした牧場だった。

 記憶にある中で一番楽しく幸せだった時の懐かしい場所だ。思い出に浸ったところで、ふと青年は目を開いた。いつの間にか眠っていたようだ。次の日の朝になっていた。

 最後にもう一度行ってみたい。不意にそんな思いが浮かんだ。

「行けよ。」

 再び声が頭に響く。

「でも、学校に…」

 彼の言葉にカラカラとした笑い声が頭に響いた。

「昨日終わってたら、学校なんか行かないだろう?」
「確かに。」

 どうせ終えるなら、もう一度あの場所を見てからでも遅くない。青年は思い立つと、簡単に荷造りをして残金を確かめ、バイト代が振り込まれていることを確認すると家を出た。

 当日のチケットを空港で求め、空席を見つけると、数時間後には目的の牧場に到着していた。

 牧場前のバス停で降車すると、目の前には長い冬からようやく目覚めた草原が広がっていた。

 そこに立つ樹木たちは記憶の通りに枝葉を広げて立っていた。しかし、放牧されている牛の数も馬の数も十年前より少ない。一部、木製の柵が朽ちて佇み、錆びたヘイフォークが無造作に転がっている。かつての活気が失われた姿に寂しさを覚えた。

 その時、斜め前方にある牛舎から軽トラが走ってきて、青年の後ろに停車した。

「旅行ですか?」

 青年が振り返るとそこには穏やかな笑顔でハンドルを握る70歳ぐらいの女性が窓から顔を出していた。青年が自己紹介と簡単な会話を交わすと、女性はニコニコしながら軽トラを降り、荷台に積んでいた牧草を下ろし始めた。

「手伝います。」

 年老いた体で一人でこなそうとしているその姿に、つい言葉が口をついて出た。

「あら、ほんと?じゃ、お言葉に甘えて…」

 彼女は快く彼の申し出を受け入れた。

 老婆は気さくで、話すうちに青年は、自分の話をするようになっていた。人に話を聞いてもらいたかったのかもしれない。青年は久しぶりに心が弾んでいた。

 作業が終わると、老婆は礼を言ってにこやかに青年を見上げた。

「あんた、すごいよ。」

 青年は「なぜ?」と言いたげに不可解な表情で彼女を見た。

「変えるために一歩踏み出してここに来た。よくがんばったもんだ。」

 涙が青年の頬を伝った。

 それを見ると、老婆は優しい笑顔を浮かべて「大人数でも嫌じゃなければ…」と、青年を家に招待すると申し出た。

 宿泊先を決めていなかった青年は、老婆の申し出をありがたく受けることにした。

 牛舎の横で軽トラを降りると、

「色々拾ってくるババちゃんが、ついに人拾ってきたぞ!」

と朗らかな声が響き、老婆の孫が笑顔で迎えた。

「んまぁ、随分可愛いの拾ったねぇ?」

 あちこちから人が姿を現し、和やかな表情で挨拶する。青年もつられて笑顔になった。

 一通り終わると、青年より少しだけ年上の孫が部屋に案内した。

 夕食後、窓の外を見ていると、窓ガラスにフードを被った男が浮かび上がった。青年は振り返ることなく窓越しに彼を見た。

「終わらせることができましたか?」

 その時、青年は初めて男の言葉を理解した。命を終わらせることなく今の環境を終わらせる。そういう意味だったのだ。

「ありがとう…また会える?」
「そうですね。数十年後でしょうか。お迎えにあがります。」

 線香の煙が空気に溶けるように、男は姿を消した。

 翌年、高校を卒業すると、青年はババちゃん達の待つ牧場に帰った。

本文: 2000字

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今回はこちらの企画に参加させていただこうと思いました。素敵な企画、ありがとうございます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

#モノカキングダム2024


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