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子供は純粋? ー ネタ過多記 ー実話と気付いた記録ー

※自分自身や子育ての経験、経験者からの見聞で模索や考察した呟きです。専門家ではないので、疑問だらけです。
私の疑念・疑問を中心に書いています。
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『子供は純粋だ』というのは大人の願望が見せる幻想ではないか…

そしてそれは、子供の言動の本質を見えづらくしてはいないか…

『子供は純粋』という前提に立つために、『子供だからやるわけはない』という思い込みにつながっていないだろうか…

子供が純粋に見えるのは、大人がそう望むからではないか。

子供は純粋なわけではないかもしれない。
ただ、社会経験が少なく、世界を知らないだけかもしれない。

子供は純粋だと思う人は多い。

それは、成長過程の未熟さや、大人の目には見えにくい部分があるからかもしれない。だが、本当にそうだろうか?

『子供が純粋』という概念は、現実社会を経験した大人が、自分にはもうない“無垢な無知“を無い物ねだりのようにうらやみ、それが理想へ化けることで起こされた“幻想“のようなものではないか。

 まだ何も知らなかった幼少の時期を美化し『あの頃は純粋だった』とするのは、現実逃避に近いものにも思える。子供は純粋であって欲しいという願望にも見える。

そんな願望や理想を押し付けられる子供は気の毒に思う。

もちろん、すべての子供に当てはまるわけではない。

だが、大人社会と共通する社会構造が、就学前の子供の世界であっても、はっきりと見えてくることがある。そこには、純粋とは言い難い側面もある。

もしもそれが見えていないのだとすれば…それは、『子供=純粋』と捉える大人の理想や願望が生み出した幻想の陰に、隠れてしまっているのではないか…。

またはこんな意見もあるかもしれない。

『共通の社会構造があるとはいえ、大人には社会を担う責任があるから、子供社会のような気楽さはない。』

確かに、大人社会には責任が付きまとう。さすがに、社会を支える責任は、子どもには要求されない。

しかし、忘れてはならないのは、子供の社会構造にも大人にはないものがあるという側面だ。

大人社会と何が大きく違うのか。

それは、子供は何があっても、自分で環境を根本から変えるのは難しいということだ。

地域で育てば、保育園から15年間。同じ環境に身を置く場合だってあるだろう。

環境が合わなくても、自分の意思で変えられない。身の危険を感じても移動だってできない。

大人の場合は会社が合わなければ、転職するという選択肢がある。

もちろん、誰もが簡単に転職できるわけではない。だが、自らの意思で変えることができるという権利だけは、少なくとも文面上存在する。『職業選択の自由』というアレだ。

だが、子供は自らの置かれている環境を自分の意思と力で変えるのは大人よりも難しいだろう。大人の理想や期待に応えようと思えばなおのこと、環境を変えるのは難しくなる。

たまたま合う環境なら問題ない。だが、そうじゃないことだってあるはずだ。

最長15年の合わない環境での生活。

大人の社会を知った人間は、この子供の過酷な環境に再び身を投じられるだろうか。

いくら子どもに社会的責任がないとはいえ、自分で環境を変える権利も力もないのは過酷を極める。

『子供は純粋』という理想からの幻想は、こういった子供の現状すら雲隠れさせてはいないだろうか。

就学前の幼児の間でも、生存競争的やりとりは垣間見える。弱者をツマ弾く行為はある。大人が見ていないところを選んでいじめる子供だっている。

情報の波に揉まれ脳の発達の早い子であれば、たとえ幼児でも

「先生に言ったら友達いなくなるよ。」

と、脅して口止めをする術を知っている。

注意されれば、大人の見えないところで、さらにエスカレートした形で続ける子供もいる。

大人の社会で同じようなことをしたなら、逮捕されるような行為をする子供もいる。

物を隠す、陰口を言う、仲間はずれなどは、当然容認できない行為ではある。だが、比較的被害の深刻さや危険度は低いだろう。

『気に入らない子の髪の毛をハサミで切る』『見張りを一人立たせ、いじめられている子を羽交締めにして複数で体罰を加える』『主犯格が手は下さずに他の子を脅して指図して手を下させる』

大人の社会では犯罪にあたるこうした行為を行う幼児は、本当に純粋といえるだろうか。

『子供は純粋だ』という理想からの幻想により、年齢が低いほど見過ごされる。

なぜ幼児教育がこれほど浸透しているのか、考えてみてほしい…。

それは、幼児期の方が吸収がよく、さまざまなことを学習するのに適していると考えられているからではないだろうか。

しかし、その大切な発達の時期に、大人社会なら犯罪に分類されるような行為が見過ごされ、咎められない環境では、子どもは何を学ぶのだろうか。

許容されるものだと学習してしまう可能性はないのか。さらに、見つからなければ問題ない、隠れてやれば咎められない…そんな価値観を身につけることにはならないか。

これは、加害者や被害者だけではなく、それを周りで傍観していた子どもの心にも暗い影を落とすのではないか。

友達がいじめられている姿を見るのはもちろん恐怖だろう。次は自分かも知れない。だが、大人が摘発できなかったり、気づいても加害者の嘘で誤魔化されている姿を目にするのも、同じぐらいショックではないだろうか。

助ける人が誰もいない状況を、目にする恐怖。この状況を物心ついた時から10年も続けて見ていれば、正義がない無力感に苛まれても、不思議ではないのではないだろうか。

そんな状態で、いくら「相談してくれ」と大人に言われたところで、相談できる物だろうか。

虐待は何も、大人が子どもにやるとは限らない。

この状況を見続けることは、心理的虐待に当たらないのか。

次は自分かも知れない。そう思う心は萎縮しないのか。

集団の中に信用できるものが見えなくなることだってありはしないか。

『子供は純粋』という理想から来る幻想や思い込みは、子供の言動の本質を見えなくさせてはいないか。

例え被害者ではなくても、同級生がいじめられるのを何年も見続ければ、不安は増大し、無気力になりはしないのか…。

大人が日常的に罵倒し合う環境が心理的虐待とされるなら、いじめを目撃し続ける環境はどうだろう。心理的な負荷を与えないと言い切れるだろうか。

根本から問題を解決する権限のない子供に、最後に残される手段は何だろうか。

わずかな選択肢の中の一つが、その場に行かないことなのではないか。

この心境は、被害者だけのものではない。見ているだけでも行く気がなくなる。そんな気持ちが現れても不思議ではないのではなかろうか。

『その場に行かない』という選択は、自らの心身を精一杯守ろうとして、子供が必死にもがいて、深層心理が働いて出した結果なのではないか。

『行かない』という選択は、諦めではなく、子どもが自分を守るために選んだ“精一杯の生存戦略”なのかもしれない。

そしてどんなに考えても、子供社会を生きづらくしている大元がここにあるような気がしてならない…。

それは、『子供は純粋』という幻想。大人の理想や希望、願望から生み出された幻想だ。

子供だから、大人だから…そういった分類ではなく、例え幼児だとしても、一人の『人』として捉え直してみる視点が必要ではないか。

その視点があれば、子供が置かれた状況を“純粋”という幻想で見逃さずに済むのではないか。

もちろん、子供は未熟であり、経験が少ないからこそ守られるべき存在だ。だが、それと『純粋』という理想は、同じものではないのではないか?


独り言にお付き合いいただき、ありがとうございました。


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