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はじめの三語 ーネタ過多記ー 実話と気付いた記録ー(約2400字)
「questo, acqua, perfavore この三つでとりあえず空腹凌げるから。」
一人旅で最初に話をした人が教えてくれた。
日本人女性だったが二十年以上前のことで名前まではもう覚えていない。
ヨーロッパ方面、イタリア、一人旅、学生ボランティア…全てが初めてで、更にイタリア語が全く話せない私に彼女は目を丸くする。
「知り合いが一人もいない言葉が全く通じない国に、初めての一人旅でバックパッカーで学生ボランティア?よく行くねぇ…怖くないの?」
「全然…」
苦笑いする私が訳ありと察したのか、それ以上は深入りせず、その人は現金があればとりあえず食いっぱぐれない方法を教えてくれた。
それが冒頭のセリフだ。
イタリアへは直行便ではなく、乗り継ぎでローマに朝到着するシンガポール航空にした。直行便は夜間着しかなく、その後、一人で移動するのは危険だと思ったからだ。
その日本人女性に声をかけられたのは、私がチャンギ空港で深夜発ローマ行きを待ちながら、イタリア語会話の本を読んでいる時だった。
旅慣れない様子の小娘一人旅を気にかけてくれたのだろう。
「もしかして、深夜発のローマ行きに乗ります?」
とてもフレンドリーな雰囲気の彼女に私は笑顔で頷いた。彼女はイタリアの友人宅に行くところだという。出発までの三時間、私は彼女と行動を共にした。
彼女は何度もこのルートでイタリア入りをしているらしく、チャンギ空港に詳しかった。イタリアの基本情報を話しながら、彼女は空港も案内してくれた。
「次、このルートで移動することがあったら、トランジットする人のための無料市内観光を利用するといいよ。二時間ぐらいで、すっごくいい時間潰しになるの。私は今日その観光に参加していたの。」
彼女は心地よい声で優しく色々と教えてくれた。
飛行機が離陸し、規定の高度に達すると、少し後方の通路側に座っていた私のところに彼女がやって来た。
「もしよかったら、私の横にこない?席があいていて、CAさんが飛行中の席移動許可してくれたから。あと、すっごく綺麗な夜景が見られるよ。」
高度10,000メートル以上の場所で夜景とはどういうことなのか。夜だから星のことを言っているのだろうか。まだ見ぬ何かに心が躍る。
彼女の提案をありがたく受けることにして移動した。彼女は私を窓側に座らせるとブランケットを手渡す。
「すっごいから。このブランケット頭から被って、窓の淵にブランケットの端をあてて覆ってね。電気の光を遮って真っ暗にして窓の外見てごらん。」
勧められるまま、窓の外を見る。私は息を飲んだ。しばらく言葉が出なかった。その時の光景は二十年以上経った今でも鮮明だ。
おそらく、砂漠の上を飛行していたのだろう。雲一つない澄んだ空間が目の前に広がる。眼下には、金色の筋が蜘蛛の巣状に中心から外に向かって放射状に張り巡る様子が、地上のあちこちに点在し、上方はそれを見下ろすかのような満点の星空だった。
「どう?」
背後から彼女の声がする。
「すごい…きれい…」
どの言葉も当てはまらない気がして、月並みな言葉だけが口をついて出る。
豪華絢爛な美しい表現も、繊細な美しさを表現する言葉も、目の前の光の世界の価値に値しない。
下手に言葉を口にすればその価値さえ損なわれそうで、私は視界に広がる光の世界をただただ見つめるだけだった。
「今日は月が出ていなくてラッキーだよ。私は何回も見てるから、よかったらずっと見てていいからね。」
世間知らずの小娘の初めての一人旅に、いい思い出を作ってくれようとしたのかもしれない。
彼女は窓際を私に譲り、隣のあいている席でアイマスクをしてシートに沈んだ。
私は礼を言うと、窓に視線を戻す。その夜、空が薄ら明るくなるまで、私は時が経つのも忘れ、光が散りばめられた世界を見つめていた。
やがて着陸が迫り、私は自席へ。着陸態勢に入り、徐々に高度が下がり始める。
感情表現豊かなイタリア人が多く搭乗する機内の空気が一気に張り詰める。皆緊張の面持ちで着陸のその時を固唾を飲んで見守っていた。先程まで賑やかだった機内は水を打ったような静けさだ。
そして、車輪がいつ地面に着いたのかわからない程、滑るように着陸。陸を感じたのは、車輪が転がる音と、ほんの少し摩擦の振動が小刻みにお尻に伝わる程度。
『機長すごい!』と心の中で思った途端、機内はまるで、カラヤン指揮するベートヴェンの第九終演直後のような大歓喜に満たされる。
「BRAAAVOOOO!」
「BRAVISSIMOOOO!」
機長を称える声があちこちから上がり拍手大喝采のもとそのフライトは幕を閉じた。
何度も飛行機に乗った経験はあるが、これほど盛り上がった体験は今の所、後にも先にもこれ一回だけだ。
シートベルトがなかったら、スタンディングオーベーションだったはずだ。
一夜限りの一大イリュージョンを見た後のような興奮状態と言ったところか。刺激的なフライトで、すっかり気持ちが高揚した私は、徹夜に近い状態にも関わらず、頭も体も疲れを全く感じていなかった。
飛行機を降りてコンコースへ。面倒見のいい彼女と途中で合流すると「どうせ私も中心に行くから」と、テルミニ駅まで一緒に来てくれた。
「じゃ、私はここまで。元気でね。気をつけてね。でも、何より楽しんで!」
私は感謝を伝え、挨拶を交わし、私たちは別れた。
直後、道中の食料調達のためキオスクへ。彼女から教わった三つの言葉を頭の中で復唱してイメトレ。そして本番へ。
食べたいパニーノを指差す。
「Queseto、acqua、perfavore」
無事にパニーノと水を手に入れる。
私の人生第二章「私のための人生」は、親切な日本人女性がくれた、この三つの言葉から始まった。
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最後までお読みいただきありがとうございました。