『身体知性』とソフトゾーン
『身体知性』を読んだ。
著者の佐藤友亮さんは現役のお医者さんで合気道家でもあるそうで、西洋医学的な観点と東洋医学的な観点、両方にしっかり裏付けされた身体論でとてもためになった。
私はどちらかといえば、というか、確実に知識よりも感覚寄りで生きているので、解剖学的な用語とか西洋医学的な分析的な文章を見ると、それだけで、うっ、と苦手意識が出てくるのだけれど(一応ボディーワーカーなのに!)、この本ではそのあたりの話も興味深く読むことができたのは、佐藤さんが武道家で体とつながることを日常的にやっている人であることが大きい気がする。体に根ざした言葉は、すっと体に入ってくる。
巻末の佐藤さんと内田樹さんの対談を読んでいても、それは感じた。武道家同士の対談は、キレがある。
医師とか、教授とか、論理的に物事を見たり、分析したりする仕事の人、多くの人の人生にふれたり発言に力を与えられる立場の人が体とのつながりをしっかりと保っていてくれるって、頼もしいなあ!と、思う。
この本では興味深い話がいろいろ紹介されているのだけれど、印象に残ったもののひとつが、チェスの天才として子どもの頃に有名になって、その後に太極拳をやるようになったジョッシュ・ウェイツキンが、インドでのチェスの試合中に難局を抜けようと必死に考えていたときに地震と停電が起こり、それによって内側から答えが出てきた、という話だ。
こういう状態を、佐藤さんは「ソフトゾーン」と呼んでいて、「自他境界の壁が低く、外部環境と調和して様々な刺激を力(インスピレーション)に変えられる状態」と、説明している。
外からの刺激に抵抗して集中する(そっちは「ハードゾーン」なのだそう)のではなくて、それを取り入れて自分の内にある力が出てくるきっかけとして使うことができるようなあり方だ。
ジョッシュは自然現象だけじゃなく、対戦相手の嫌がらせも同じようにインスピレーションに変えられるらしい。
この、外の世界と自分の内側が呼応するような感覚、境界線がなくなる感覚は、クラニオの施術のときに(しているときも受けているときも)感じることがあるように思う。
ふれている側とふれられている側の境界が薄くなって、自分の内側と外側の境界も薄くなって、外で鳴いている犬の声や、風でカーテンが揺れているところや、外で起こっている工事の音ですら、反応する対象ではなく体験の一部になっていく。
限りなくひらかれていて、同時に最も深いところにもぐっていくような感覚。
その場所にいるときは、世界が自分に、自分が世界に、すべてがすべてに影響を与え合っていることを感じる。
つながっていながら限りなく自由でいる、そのしなやかで柔らかく、けれど強い状態でいるとき、私たちは邪魔をすることなく、「癒し」と呼べるものやインスピレーションが自然にあらわれてくるのをゆるすことができるのだと思う。
そういう状態を常に保っていられたら、自分にも世界にもそんなにいいことはないと思うのだけど、いかんせん、普段の私はぜんぜんしなやかではなく、電車の駅のアナウンスが大きすぎてびくっとしたり、目の前を歩いている人が吸っているタバコの煙が嫌でしかたなかったり、外からの刺激に抵抗しまくり、反応しまくりながら生きている。
ハードだし、ゾーンですらない。
上に書いたチェスの名人ジョッシュは、太極拳の修行を続けるうちに、最終的にひとつ呼吸をするだけで自分を「ソフトゾーン」の状態に持っていくことができるようになったのだそう。
武道の達人でもない私には、呼吸ひとつで切り替えるのはなかなかハードルが高そうだ。
でも、切り替えスイッチみたいに使えるなにかを日々の暮らしのなかで集めて、自分のなかに持っておけたらいいなと思っている。
音楽とか、庭仕事とか、海に行くとか、じょうずに淹れられたコーヒーとか、一杯の美味しいワインとか、しなやかな状態にもどしてくれる、自分を世界にひらかせてくれるなにかを。