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平泉澄先生『芭蕉の俤』覚書 その三

 いつもお読みいただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。引き続き、平泉澄先生の『芭蕉の俤』(錦正社)について見て行きませう。今回は、「第三 木曾」、「第四 判官」です。少し長くなりますが、最後までお付き合ひいただけたら幸甚です。

木曾義仲

 「第三 木曽」は、木曾義仲を論じてゐます。

 木曾義仲といふ人物は、一般に評判のよくない、いはば粗野粗暴にして、道義も礼節もわきまへない武骨者の標本のやうに思はれてゐる人である。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 冒頭からこのやうに指摘されてゐます。このやうに、義仲はあまり評判の良い人物ではありません。

 木曾と同じ世に生きて、その入京を見、その勢威を見、やがてその滅亡を見つつ、嘲りを以て之に対せず、寧ろ悲劇の主人公として痛ましさを感じ、厳粛なる詠嘆を以て、之を弔つたのは、西行であつた。即ち聞書集に、
「木曾と申す武者、死に侍りけりな」
といふ詞書を附して、
   木曾人は 海のいかりを静めかねて
         死手の山にも 入りにけるかな
といふ歌が載つてゐる。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 しかし、義仲の死に対し哀れんだ者がゐました。それが第一で取り上げた西行でした。

 「木曾と申す武者、死に侍りけりな」
 深刻なる一拶である。強い詠嘆である。この詞書や歌には、必ずしも同情があるとはいへないが、しかし嘲罵があるとは考へられない。むしろ厳粛に一つの悲劇を嗟嘆したものとすべきであらう。
 それより年月を下ること約五百年、木曾に対して寧ろ同情を寄せ、所を選んで木曾塚に近く住み、逝去の後には遂に義仲寺に葬られたのは、芭蕉である。芭蕉は元禄二年の秋、奥の細道の長き旅の終りに、越前の燧が城を望み見て、曾て木曾が破竹の勢を以て京に向つて進撃した昔を回想し、(この句は奥の細道には入れられなかつたが、別の句集には見えてゐる)
   義仲の寝覚の山か月悲し
とよんだ。この句には木曾を悲劇の主人公として、之に同情を惜しまない心持ちがあらはれてゐる。あくれば元禄三年、芭蕉は近江に在つて、幻住庵から木曾塚のある義仲寺の境内の無名庵に移り住んだ。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 そして、西行に続いて義仲に同情した者、それが芭蕉でした。
 では、国史上の評価が低い木曾義仲とはどのやうな人物だつたのでせうか。平泉先生は、義仲をして「美しい人」としてゐます。

 木曾の美しさは、ただ其の姿に見られるのみではない。容儀帯佩も人にすぐれてゐたであらうが、それ以上に美しいのは、主従の情愛こまやかであつて、側近の家来が最後まで木曾を離れず、悲運に際し、逆境に陥つて、更に節をかへなかつた点である。凡そ世運の変転に会し、栄枯盛衰所を易ふるに及んでは、雲となり、雨となる、紛紛たる軽薄は、杜甫のはやく嘆いたところである。されば長田庄司となり、跡部大炊となり、主にそむき、友を売つて、自ら助からうとする者、古今に例を求めて枚挙にいとまが無い。しかるに木曾は、逆境にのぞんで少しも節をかへず、最後までつきそふ家来をもつてゐた。今井四郎兼平といひ、また巴御前といひ、それである。兼平は木曾最後の合戦に、大手なればとて勢田を守つた。ひきゐるところ、わづかに八百余騎、之を以て範頼が三万五千騎に当らうとするのである。志気既に剛なりといはなければならぬ。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 その美しさは、容姿、すなはち外見のみならず、主従の情にあるとしてゐます。私は、この点から戦後になつて転向した者の言説などを思ひ起こすのです。
 戦後、戦前に戦争を賛美し、国体を美化した者のほとんどが転向したことは、心ある人の知るところでせう。そして、転向した者らが戦前と反対の言説を行つてゐたことも心ある人の知るところでせう。

 兼平と巴あるあつて、三十一歳を一期とした木曾の一生は、あたたかい人情と、悲しい運命とに、人の胸をうつものがある。
   義仲の寝覚の山か月悲し
とよんだ芭蕉、木曾塚に近く庵住して、遂に木曾殿と背中合せに永眠した芭蕉、その芭蕉には世間あらゆる讃美の声を惜しまず、而して木曾にただ嘲罵を以て対するところに、矛盾があり、撞着がありはしないか。芭蕉の人柄を真実理解する為には、木曾を見直してくる必要があらう。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 芭蕉は、義仲寺の義仲の墓の隣に葬られました。私は、義仲に敗戦後の我が国を重ねるのです。義仲は義経に負けました。しかし、決して卑怯な真似をした訳でもなければ、兼平や巴御前など、彼を慕ふ人はゐました。我が国もアメリカに七十数年前に負けました。しかし、義仲同様、決して卑怯な真似はしてゐません。国際法に基づき、正々堂々戦ひました。
 平泉澄先生は、「心のあたたかさ」といふことを重要視されてゐました。それは『山彦』(勉誠出版)の「ぬくぬくで」や、『首丘の人 大西郷』(錦正社)の大久保利通の評価にも表れてゐます。先生は、義仲に「あたたかい人情」を見たのでした。私はこの点に、平泉澄先生の学問の眼目を見るのです。

源義経

 続いて「第四 判官」です。判官とは九郎判官義経、いふまでもなく源義経のことです。

 ぬばたまの夢も枯野をかけ廻りつつ、漂泊の旅に病み、旅に逝いた芭蕉を、その奥津城義仲寺に弔つて、
   木曾殿と 背あはする夜寒哉
と詠じたのは、伊勢の久居の人、又玄であつた。その又玄の宅をたづねて、芭蕉がしばらく滞在したのは、元禄二年の事であつたが、主人はいふまでもなく、その妻も同じ心に、まめまめしく歓待してくれるのを喜んで、
   月さびよ 明智が妻の はなしせん
と吟じた。芭蕉の人柄のゆかしさは、此の句に於いても偲ばれる。これは明智日向守がまだ貧しかつた頃、連歌の会を営まうとして、その費用に困つてゐたのを、その妻ひそかに髪をきり、会の料にそなへたといふ話によつたのであるが、明智は本能寺謀叛の一挙よりして、一世の指弾誹謗を受けてゐる男である。しかるに芭蕉は、明智謀叛は弁護の余地が無いものの、その妻の美談は之を美談としなければならぬとして、玉石共に焚かうとはしなかつた。かやうな親切な思ひやりは、世間の受けを考慮に入れ、下手に巻添をくひ、つまらぬかかりあひになるまいとして、保身の警戒をさをさ怠らず、出世の計略余念もない下司根性の輩には、逆立ちしても出来ることではない。たよりなき風雲に身をせめて、しばらく生涯のはかりごととした漂泊の翁を、世外優遊の客として等閑視してはならない。深く物の表裏に徹し、しみじみと人の運命を悲しむ懇切なる情と、敢へて世の俗評を物ともせざる気象とは、此の一句にさへ明瞭にうかがひ知る事が出来るのである。
 明智の妻の美談を美談として憚らず、木曾の悲劇を悲劇として同情ををしまなかつた芭蕉が、九郎判官義経に対して、あたたかい涙を濺ぎ、高館の廃墟に笠をうち敷いて、懐古に時の移るを覚えなかつたのは、当然といはねばならぬ。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 芭蕉の感性は優れた理性と共にありました。すなはち、明智光秀は謀叛を犯したものの、その妻の美談を讃へたのでした。これは理性による判断と、勇気あればこそでせう。世の中の浅い考へを持つ者にはできることではありますまい。

 義経は其の志、父の仇をかへすに在つて、自ら覇権を掌握しようとの野心は、更に持合さなかつた。それが兄頼朝の不興を蒙るのは、頼朝の救ふべからざる猜忌嫉妬に基づくのであり、之を煽動したものは、梶原景時の讒言であつた。景時といふ男は、鎌倉権五郎景政の末葉といふだけあつて、相当勇剛の士でもあり、加ふるに風流を存し文才を具へて居つたので、若し心術さへ正しければ、あつぱれ文武兼備とたたへらるべきであつた。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 平泉澄先生は『少年日本史』(皇學館大学出版)の中でも源氏の欠点として一族で殺し合ふことを挙げ、さらに頼朝の欠点として「猜疑嫉妬」を述べてをられます。頼朝にして義経を受け容れる器量があつたら、と残念に思ひます。さらに、梶原景時といふ人物についても指摘されてゐます。注目に値するところでせう。

 見来れば義経は、幼少の頃厄介になつた人とも、少年の日に知り合つた者とも、大将軍として見知つた者とも、すべて心の深い交りがあつて、其の相許し相結ぶの固き、流離艱難の際といへども背き去る者は無かつた。偶然相会した強盗も服して生命を捧げる。暗夜に山道の案内を命ぜられた小倅が、一生離れずして仕へる。親に使はれた郎党の忘れがたみが、二十余年を隔てて飛んで来て、その身代りに立たうとする。これほど部下に心服せられ敬慕せられた人は、類例を求めて古今に稀であらう。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 義経は、感性的なリーダーでせう。「リーダーのために死にたい」。そこに至ることが主従関係の究極ではないでせうか。日露戦争に於ける乃木将軍もさうだし、我が国に於ける天皇と臣下との関係もさうでせう。

 大勢に順応し、勝者に阿諛し、お流れをいただき、おこぼれにありつかうとするは、古今を通じ東西に亙つて、凡愚下劣の輩の度し難き根性であり、救ひ難き病弊であつて、英傑を論じ、高士を考へる場合に、度外に置いて差支へない。
 さても芭蕉は山家集に親しんで西行を見ぬ世の友とし、実方の墓を遠望してその薄命を悲しみ、木曾の悲運に同情して背中合せに眠るを辞しなかつた。その芭蕉が判官義経の数奇なる運命に心をうたれない筈は無い。されば元禄二年奥の細道を旅しては、先づ佐藤兄弟の遺跡をたづね、兄弟の父佐藤庄司の館址を見て泪を落し、一家の石碑、中にも二人の嫁のしるしを哀れと見、医王寺に伝はる当年の遺物を観て、
   笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟
と吟ずるのである。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 この箇所は、まさに戦後の風潮を言つてゐるやうな感じがあります。少しだけ読み変へてみませう。「アメリカに順応、阿諛」することは、「凡愚下劣の輩の度し難き根性」となります。厳しい言葉ですが、未だにその「救ひ難き病弊」は治つてゐません。

 奥の細道は進んで平泉に至り、文章一段の光彩を発する。曾ては風雲に先んじて西行が吹雪のうちに要害の防備を案じたるところ、今は生ひ茂る夏草の中に立つて、芭蕉は五百年前の悲劇に泣くのである。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 平泉は、西行と義経と芭蕉を結ぶ「地点」でした。平安貴族の東北への憧れ、義経の悲劇、それらが合はさつて、『おくのほそ道』は成り立つてゐるのでせう。

 継信忠信の遺跡をたづねて涙し、二人の嫁のしるしに袂を濡らした芭蕉である。また勇義忠孝の士、泉三郎の遺物を見て、今更の如く「人の道をつとめ、義を守る」尊さに感歎した芭蕉である。されば高館に笠うちしいて、時のうつるまで涙を落としたといふのは、心、判官主従を偲び、その純情を慕ひ、その節義を仰ぎ、而してその悲運を歎くが為であつたに相違ない。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 芭蕉が讃へるのは、義勇の精神を持つ者、そして美しい者でした。それが、義経であり、義経に従つた佐藤継信、忠信兄弟でありました。

 次回は、国史上の人物ではなく、支那人について論じてゐます。まづは私の好きな陶淵明、そして白楽天を見て参りませう(続)

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