いつもお読みいただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。引き続き、平泉澄先生の『芭蕉の俤』(錦正社)について見て行きませう。今回は、「第三 木曾」、「第四 判官」です。少し長くなりますが、最後までお付き合ひいただけたら幸甚です。
木曾義仲
「第三 木曽」は、木曾義仲を論じてゐます。
冒頭からこのやうに指摘されてゐます。このやうに、義仲はあまり評判の良い人物ではありません。
しかし、義仲の死に対し哀れんだ者がゐました。それが第一で取り上げた西行でした。
そして、西行に続いて義仲に同情した者、それが芭蕉でした。
では、国史上の評価が低い木曾義仲とはどのやうな人物だつたのでせうか。平泉先生は、義仲をして「美しい人」としてゐます。
その美しさは、容姿、すなはち外見のみならず、主従の情にあるとしてゐます。私は、この点から戦後になつて転向した者の言説などを思ひ起こすのです。
戦後、戦前に戦争を賛美し、国体を美化した者のほとんどが転向したことは、心ある人の知るところでせう。そして、転向した者らが戦前と反対の言説を行つてゐたことも心ある人の知るところでせう。
芭蕉は、義仲寺の義仲の墓の隣に葬られました。私は、義仲に敗戦後の我が国を重ねるのです。義仲は義経に負けました。しかし、決して卑怯な真似をした訳でもなければ、兼平や巴御前など、彼を慕ふ人はゐました。我が国もアメリカに七十数年前に負けました。しかし、義仲同様、決して卑怯な真似はしてゐません。国際法に基づき、正々堂々戦ひました。
平泉澄先生は、「心のあたたかさ」といふことを重要視されてゐました。それは『山彦』(勉誠出版)の「ぬくぬくで」や、『首丘の人 大西郷』(錦正社)の大久保利通の評価にも表れてゐます。先生は、義仲に「あたたかい人情」を見たのでした。私はこの点に、平泉澄先生の学問の眼目を見るのです。
源義経
続いて「第四 判官」です。判官とは九郎判官義経、いふまでもなく源義経のことです。
芭蕉の感性は優れた理性と共にありました。すなはち、明智光秀は謀叛を犯したものの、その妻の美談を讃へたのでした。これは理性による判断と、勇気あればこそでせう。世の中の浅い考へを持つ者にはできることではありますまい。
平泉澄先生は『少年日本史』(皇學館大学出版)の中でも源氏の欠点として一族で殺し合ふことを挙げ、さらに頼朝の欠点として「猜疑嫉妬」を述べてをられます。頼朝にして義経を受け容れる器量があつたら、と残念に思ひます。さらに、梶原景時といふ人物についても指摘されてゐます。注目に値するところでせう。
義経は、感性的なリーダーでせう。「リーダーのために死にたい」。そこに至ることが主従関係の究極ではないでせうか。日露戦争に於ける乃木将軍もさうだし、我が国に於ける天皇と臣下との関係もさうでせう。
この箇所は、まさに戦後の風潮を言つてゐるやうな感じがあります。少しだけ読み変へてみませう。「アメリカに順応、阿諛」することは、「凡愚下劣の輩の度し難き根性」となります。厳しい言葉ですが、未だにその「救ひ難き病弊」は治つてゐません。
平泉は、西行と義経と芭蕉を結ぶ「地点」でした。平安貴族の東北への憧れ、義経の悲劇、それらが合はさつて、『おくのほそ道』は成り立つてゐるのでせう。
芭蕉が讃へるのは、義勇の精神を持つ者、そして美しい者でした。それが、義経であり、義経に従つた佐藤継信、忠信兄弟でありました。
次回は、国史上の人物ではなく、支那人について論じてゐます。まづは私の好きな陶淵明、そして白楽天を見て参りませう(続)
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