山陰の旅 上 〜山口県編〜
武漢熱の流行る前、令和二年二月に山陰を旅しました。その時のことを思ひ出して書きましたので、ご一読いただけたら幸甚です。
たのしみは 北へ南へ 行く旅の 行く先々を 思ひ計るとき 可奈子
旅の始まりは東京駅。のぞみに乗り新山口駅まで行き、こだまを乗り継いで新下関駅に至り、さらに山陽本線に乗り継ぎ下関駅に来ました。駅近くのホテルにチェックイン後、すぐに寝ました。旅の本番は明日からです。
下関駅のうどん
翌朝は、七時前に下関駅に向かひました。駅のおそば屋さんに行くためです。旅先では、おそばやうどんを駅で食べることが多く、例へば青春18きっぷの時期には姫路駅の中華麺を用ゐたそばをよく食べました。
快速ムーンライトながら号で大垣に行き、米原で新快速に乗り換へ、姫路で降りる。岡山方面に行く前のわづかな時間で、食糧調達をし、遅めの朝食をいただいてゐました。また、一度、姫路城の近くまで歩いてみたこともあります。
閑話休題。そのやうなことで各地の駅のおそばやうどんを食べてゐますが、下関駅のうどんは絶品です。私は国内最高と評価してゐます。特に肉うどんが美味しい。海鮮系?の出汁に肉のつゆが混ざつて、程よい濃さになります。さらにふく天(山口ではフグをふくといひます)をトッピングすると完璧です。幼少の頃から食べてゐるからでせうか。この味をとても懐かしく感じます。
山陰本線のカンカン部隊
さて、最高の朝食をいただいたら山陰本線を北上します。まづは滝部駅に向かひます。車内はガラガラですが、しばらく走ると学生さんで賑やかになります。車窓左手には、響灘が広がります。幼少期から何度も見た景色ですが、この年になつてから見ても目を奪はれます。途中の川棚温泉は瓦そばで有名です。また、温泉はアルカリ度の高いクセのない湯です。
山陰本線といへば、カンカン部隊を乗せた列車と福知山行きの824列車を忘れてはならないでせう。
前者は、ブリキで作つた箱(カンカン)に朝獲れた魚を入れ、売りに行く人(おばさん)たちが行商に出掛けるための列車です。長門市を四時半頃に出発します。宮脇俊三の『旅の終わりは個室寝台車』(河出文庫)にわづかながらの記述があります。
かうした列車に直に触れてきた人(母)に聞いてみると、やはり車内は魚臭く、カンカンを抱へて下関や小倉方面に行くおばさんと学生で満員だつたさうです。おばさん連中は宮脇俊三の著書の通りにしてゐたと言つてゐました。
私の手元に平成十三年十二月のJR時刻表が残されてゐますが、そこにはまだこの行商列車と思しき列車のダイヤが残されてゐます。
他にも昭和五十年三月のJTB時刻表を見てみると、滝部駅3時29分発、下関駅4時22分着の831Dと長門市駅4時27分発、門司駅6時51分着の651列車があります。これらがまさにさうでせう。
カンカン部隊については、山本志乃氏の『行商列車』にその状況が書かれてゐますが、山口県のそれについては触れられてゐません。
また後者は門司駅を五時二十分頃に出て、福知山駅に二十四時前に着くといふ超長距離列車です。一度乗り遠してみたかつたのですが、今は細切れになつてしまつてゐます。上記の宮脇俊三の書では、この列車に乗つたことが書かれてをります。上記のJTB時刻表では、門司駅を5時23分に出発して、終点福知山駅に23時50分に到着する824列車を確認することができます。
八幡人丸神社
滝部駅で降りたら、代行バスに乗り換へます。非常に珍しい経験といへませう。そして、車内は私一人でした。
途中、難読駅で知られる特牛駅を通ります。「こっとい」と読みます。特牛駅は、角島の近くです。角島といへば、その風光明媚な写真を目にした方も多いでせう。私はまだ行つたことはありません。しかし、角島といへば『万葉集』の次の歌を思ひ出します。
角島の 瀬戸のわかめは 人のむた 荒らかりしかど 我とはにきめ (巻十六・三八七一)
(角島の海のわかめは波に揺れて荒れてゐるやうで人には靡かないけれど、私にはにきめだよ)
誰が作つたのかわからない歌です。わかめを女性に例へ、他の男にはツンケンしてゐるけれども私にはデレデレなのだよ、と男女の理想ともいふべき関係を詠んでゐるのです。私もかういふ関係にとても憧れますが、残念なことに相手に恵まれてません。奈良時代の木簡に「角島のわかめ」の記載があり、当時から名産品として知られてゐたのでせう。
長門粟野駅で二人の乗車がありました。バスの車窓左手には油谷湾が見えます。よく透き通つた綺麗な海です。わかめを干す人の姿も見えました。かつて、反対側の久津の方から渡船が出てゐました。江の島丸といふ船です。江の島丸は昭和五十一年に営業を開始し、平成七年七月三十一日に廃止されました。それ以前にも定期船は出てをりました。帝国海軍の軍艦も、湯谷湾に停泊してゐたといふ話を現地の人から伺つたことがあります。絵葉書も見せていただきました。
私は次の次の人丸駅で降りました。今回の旅の目的である、八幡人丸神社参拝のためです。この辺りから、よく知られてゐる元乃隅神社へ行くことができるさうですが、私はまだ行つたことがありません。
八幡人丸神社は、駅から歩いて十分ほどのところにあります。かつて、柿本人麻呂がこの地を訪ね、
向津具の 奥の入江の さざ波に 海苔かくあまの 袖は濡れつつ
と詠んだと言はれてゐます。各地に残る人麻呂伝説の一つでせう。
油谷町の景色は、谷村新司さんの「風の暦」がよく似合ひます。JR西日本のCMにも使はれ、とても良い曲です。
「空と海が交わるところへ」…万葉の、天地のより合ひの極みといふ言葉が思ひ出されます。
垂乳根の 母の生れたる ふるさとは 長門の国の 果てにしありけり 可奈子
金子みすゞ
八幡人丸神社を参拝後、駅に戻りました。ちなみに、列車は当分来ません。ここから、タクシーで長門市駅まで向かひます。約五千円の出費ですが、背に腹はかへられません。先を急ぎます。すぐに長門市駅に着きました。かつて正明市と呼ばれた駅です。ここから、仙崎へ向かふ支線が出てゐます。漁業で大変賑はつてゐましたが、今ではだいぶさびれてしまひ、列車本数も少ないです。
また、仙崎といへば、鯨漁が思ひ出されます。向岸寺には鯨の過去帳を残してをり、鯨に対するわが国民の考へを知ることができませう。シー・シェパードのやうなイカれた連中に見せてあげたいものです。
そして何よりも金子みすゞのことを忘れてはなりません。彼女は私の憧れであり、悲劇の天才です。彼女の残した詩に、何度も救はれました。真に天才といふべき人であり、可愛いらしい顔をしてをられます。しかし、異性運があまりにもありませんでした。
その詩の一部を見てみませう。
どの表現もとても私にはできません。彼女のことを知るために仙崎や青海島にも行きたいのですが、先を急ぎます。長門市駅からバスに乗り、萩を目指します。
青海島 妙なる詩を 世間に 残して過ぎし 君がかなしさ 可奈子
山陰本線の長門市から益田間は、通勤通学客専用にダイヤが組まれてゐるためか、乗り継ぎが困難です。なので、バスに乗りました。いつもと違ふ景色もまた趣があつて良いものです。
萩と松陰神社
やがて、東萩駅に着きました。萩は面白い地形をしてをり、玉江駅、萩駅、東萩が中心を囲ふやうに線路が敷かれてゐます。地盤が弱かつたと聞いたことがあります。萩の中心へは東萩駅が便利で、駅前で自転車を借りました。最初の目的地は松陰神社です。なほ、わが母校(中学・高校)の近くにも松陰神社は鎮座してをり、校歌(正しくは舘歌)の中にもそのことが歌はれてゐます。
松下村塾を見、松陰神社を参拝し、近年新しくできた至誠館を見学しました。松陰神社は幼い頃から来てゐますが、御祭神の吉田松陰先生を深く学んでから来ると、背筋が伸びる思ひです。
なほ、松陰先生については、山口県教育委員会が編纂した『松陰読本』がわかりやすくて便利です。いきなり、『講孟劄記』(講談社学術文庫)を読んだりすると、チンプンカンプンなことこの上ないでせう。しかしながら、萩の人たちは松陰先生が水戸学(会沢正志斎ら)の影響を受けたことについて非常に淡白です。また、最近出たちくま新書の『吉田松陰 「日本」を発見した思想家』を見ると水戸学ではなく国学の影響の方が大きいと書かれてゐます。もちろん、国学的な影響もあつたでせうが、松陰先生はどう考へても水戸学の影響を大なりとしなくてはなりません。
ちなみに、水戸学とは何かといふことを平泉澄先生が端的に述べてをられます。
松陰神社の後は萩城を見に行きました。通称、指月城です。城内の指月神社も参拝しました。幼い頃は、萩城近くにある花の江といふお土産屋さんによく立ち寄りました。懐かしく感じます。
萩城から、萩博物館を見学し、明倫小学校の前を通つて東萩駅に帰りました。
博物館のミュージアムショップには、くらぬきしんさんの『さんかく山にえんそく』といふ作品がありました。とても素敵な作品であり、購入して帰りました。大人も子供も、みんながみんな心の中ぬくぬくになるやうな作品です。多くの人に読んでいただきたいものです。そして、もし私に子供がゐたら、読み聞かせてあげたい、そのやうな本当に素敵な作品です。
東萩駅から、キハ47に乗り益田駅を目指します。この区間はとにかく列車本数は少ないですが、車窓はとても素敵です。
長門なる 菊の浜辺の 夕暮れは いよよ清けく なりにけるかも 可奈子
益田駅に到着後、近くの宿に一泊します。明日は、人麻呂に関係する万葉故地を巡ります。
お読みいただきありがたうございました。次回もどうかよろしくお願ひいたします。(続)