公務員になったけど、修士論文の続きをnoteに書いてみる。 ーーはてしない修論
3年前の挫折
今から3年前の2019年1月11日(金)21時10分、両面刷りなのに1冊1キログラムを超えてしまった修士論文を4冊持って、大学の前の郵便局に駆け込んで提出した時のことは忘れないと思います。
下記は、私が修論を提出した4日後のFacebookの投稿です。
そして、この時の修論、34万5006字を約1万字にまとめたのが、私の前回のnoteです。
そもそもなぜ論文をnoteで紹介しようと思ったのかというと、3年前の挫折に理由があります。
先ほどのFacebookの投稿にある通り、私は、修士論文において、「メディア・リテラシーで社会を変える」という当初のゴールには到達できずに終わりました。
メディア・リテラシーが広まれば社会は確実に良くなると考えていた私は、「どうやってメディア・リテラシーを広げよう?」という観点から、「教師が自律的にメディア・リテラシー教育を実践でき、学校で持続的にメディア・リテラシー教育が展開していくにはどうすればよいか?」という研究目的に辿り着きました。
しかし、修論を書き上げた結果、現在のメディア環境において、教師が学校でメディア・リテラシー教育を継続するためには、メディア論的な「メディアをとらえるものの見方」が必要であるという仮説が立ち現れました。
そこで、新たに、「"メディアをとらえるものの見方"はどのように形成されるのか?」という問いと向き合うことになったのですが、人の「ものの見方」は一朝一夕で変わるものではなく、そこに変化をもたらそうとするのは途方もない大仕事です。
その問いを明らかにするには修士課程では時間が足りませんでした。
そのため、大学院を修了しても「研究をライフワークとして続けていこう。」と思っていました。
働きながら研究を続け、修士論文で到達できなかったことに向き合っていこうと。
現在、大学院を出て公務員になって3年経ち、修論の研究成果について学会でポスター発表をしたり、投稿論文にしたりとやってきましたが、研究の内容から見れば、修論から一歩たりとも進んでおらず、そろそろ前に進む準備をしたいと思っています。
研究職でもない一公務員が、どのように研究を続けられるか分からないですが、私が修論でできると信じていた「メディアをめぐる知を社会へ還元するルート」は、大学や学会の外にもあるはずです。
もしかすると、社会に還元することが目的なのであれば、逆に、大学や学会の外の場で発表する方が適しているかもしれません。
そんな思いから、私は大学や学会の外における研究を続ける場の1つとして、このnoteを使ってみたいと思っています。
修論のつづきの始め方
まずは、修論で解決できなかった疑問を回収するところから始めたいと思います。
修論を書いている中で、「こっちの分野の知識があればもっと研究結果の解釈が違ってくるのではないか。」「この領域の知識が足りない。」「あれはどうなんだろう。」「これはどうなんだろう。」と疑問に思うことがたくさんありました。
その度に図書館でその関係資料を漁るのですが、毎度調べ始めると新たな疑問が生まれてしまい、さらに調べ、そしてさらに違う疑問が生まれ…という無限ループに陥ることがよくありました。(おそろしいことにその間修論は一文字も進んでいません…。)
調べている中でハッと「こんなことをやっている場合ではない」と我に返り、無限に生まれてくる疑問に「向き合うのは今ではない。とりあえず修論進めないと卒業できない…。」と蓋をして、なんとか修論を書き上げました。
さながら、『はてしない物語』に出てくるお決まりのフレーズ「けれどもこれは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう。」のように、私の修論にはあちらこちらに解決できていない、大小さまざまな問いが残っています。
そこで、このnoteでは、修士論文に散りばめられて、回収できずに終わったたくさんの小さな疑問を回収する旅に出たいと思います。
それが研究と呼べる代物になるかは分かりませんが、小さな疑問の先に大きな疑問を解き明かす糸口があるのではないかと思っています。
始めようとする今からこの研究には終わりが無く、はてしない旅路になるような気がしているので、「はてしない修論」を書くつもりで、これからnoteを綴っていきたいと思います。
研究ログ
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