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時代の生んだ感性、その目に映るもの。
2024年は、絵本作家の中川李枝子、せなけいこ、詩人の谷川俊太郎…著名文芸家の訃報が続き、あぁ、と思っていたところに先日、いわむらかずお先生、ご逝去の知らせ。
ひとつの時代が終わったのだなぁと、胸がいっぱいになる。誰しもいつかはこの世を去るという当たり前を突きつけられる。彼らが残した功績を思うと、創作という人の営みの尊さに恐れ入る。
作家のことは知らずとも、殆どの日本人が、「ぐりとぐら」や「14ひき」シリーズのキャラクターたち、せなけいこの独特のタッチの画風には見覚えがあるはずだ。
先日テレビで、スラム街・裏社会・紛争地域など「闇の世界」専門のルポライターの番組を放送していた。
そこで現地取材していた場所は「エルサルバドル」。無法者の温床とのこと。
それを見ながらわたしが呟く。
「谷川俊太郎の詩であったよね、エルサルバドルの若者が、って…こんな国なのかぁ」
すかさず夫が、
「【朝のリレー】、でしょ、教科書載ってたやつ」
と返してきた。
実はこの詩にエルサルバドルが出てくるという認識は間違いで、わたしが言っていたのはどうやら「エルサルバドルの少女 へスース」のことだった。恥ずかしながら「カムチャッカの若者」と混同してしまっていた。
結果として勘違いだったとはいえ、こうして誰しもの記憶に残る詩というのは凄いなぁと、改めて名作韻文の威力を感じた出来事。(同時に、国語の教科書の持つ大きな意味も…)
それぞれ全く異なる作風ながら、その根底に、何か通ずるものがあると思えてならない。彼らのつむぐ言葉、物語には、確かな「温もり」がある。
何が原動力だったのだろう。創作の土台に、何があったのだろう。
彼らの生まれ育った時代。戦争、人々の苦しみ、負けた国。幼い眼差しが捉えた世界。続く価値観の大変革、激動のうねり。そんな時代の潮流の中、研ぎ澄まされた感性。
その目に、世界はどう映っていたのだろう。何が彼らの「想像」、そして「創造」の力を育んだのだろうか。
彼らの作品は、心に寄り添ってくれる。読むと心がほっとする。
それは、日本人ならではの「間(ま)」の感覚なのだろうと思う。平たくいえば、親近感。絵柄や語感の生む余白。それらはあくまで抽象的、感覚的なものなのだが。わたし達は恐らくそこに心を落ち着けているのだろう。それはもう遺伝子レベルで、無意識に。
そして、登場するキャラクターたちへの愛情と敬意を感じる。
「ぐりとぐら」の作画担当、山脇百合子氏(同作者・中川先生の実妹)いわく、絵を描いている時は「食事のシーンは配慮する。ごちそうを食べ損ねている子はいないかしら、と」。(雑誌「MOE」の取材より)
いわむらかずお氏のエッセイ「14ひきのアトリエから」では、「ねずみそれぞれに思い入れが強くなりすぎる」というようなことを書いてらっしゃった記憶が。(かなり曖昧だけど、こんなニュアンスにわたしは読み取った)
言わずもがな、読み手である子ども達への深い愛情も感じる。
そんな「愛情やメッセージ」が全て、押し付けがましくない。自然なのだ。溢れ出てしまうものなのだろう。
繰り返すけれど、その目には、世界がどう見えていたのだろう。国の、人々の…この世の辛苦を見てきた彼らが、どうしてこんなにも温もり溢れる作品を描けたのだろう…。
きっと、「だからこそ」なのだろうと思う。あの時代を生きた人間しか知り得ないもの、描けないものがあったのだ。
わたし達、後世の日本人には到底想像の及ばない価値観の中で、必死に生きてきたからこそ育まれた、豊かな心、想像力。
あぁ、ひとつの時代が終わったのだなぁ。
きっとこれから先、名作と呼ばれる児童向け文芸は生まれ続けるだろう。けれど恐らく、そこにある感性の土台は全く違うものだ。良し悪しの話ではない。その時代にしか描けない世界観は、確かにある。
いわむら先生の訃報を聞いたとき、あのねずみたちの姿が頭に浮かんだ。いきいきと逞しい、ねずみらしく、そして誰よりも人間らしい彼らの姿。
生みの親がいなくなったんだよ。あんた達はさぞ悲しかろう。
改めて、絵本のページをめくる。
月並みだけど、作品は永遠である。けっこう本気で、涙ぐんでしまった。
冒頭の重複になるが、創作という人間の営みの尊さと共に、その凄まじさに、ある種の畏敬の念すら感じる。
素晴らしい作品を残した先生方の人生を思い、胸震わせる。凡人のわたしは、ただただ、感謝するだけ。そして、児童文学・絵本をこよなく愛する身として、猛烈に、寂しい。