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花虹源氏覚書~第二帖帚木(四)

昔々その昔、帝の御子に光る君と呼ばれるお方がおられました。
源の姓を賜り臣下となられましたが、三人のお子様は、お一人は帝に お一人は皇后に お一人は人臣の位を極められたそうな。
そのお血筋の末の末、千年を経た世のとある姫さまに教育係の女房が語る光源氏の君の物語

帚木(その一)はこちら

帚木その四

むかしがたりをいたしましょう

降り続いた雨が上がり、宿直の夜も明けました
帝の御物忌を口実に内裏に居続けた光る君も、さすがに左大臣に憚って退出し、三条の大殿を訪れました

光る君の妻、左大臣の姫君である葵上は、いつものごとく凛と気高い雰囲気をまとわせておいでです

部屋は、隅々まで洗練されて格調高く整えられ、居並ぶ女房達は、教養も美貌も兼ね備えたものばかり。
これらの主たる葵上こそ誰もがうらやむ「頼りになる嫡妻」でございましょう

しかし、葵上の端正な美貌は常に冷ややかで、光る君はいまだに気詰まりな息苦しさを感じておられます。

葵上を避けて 若く魅力的な女房達を相手に冗談を言い交し戯れかかり、暑さのあまりお召し物も着崩して、くつろいでお過ごしでございました。

―——二人がうまくいかないのは、きっとお互い様なのね。
   光る君は、せっかく葵上を訪ねてきたのだから、にっこりと笑って優しく迎えてほしいと思っているのかもしれない。
   だけど、葵上にとってみれば自分を敬遠して家には寄り付かない、久しぶりに来たと思ったら女房達とばかり和気藹々とふざけあっているなんて、面白くないわよね。怒りや悲しみを顔に出さないだけで精一杯かも。

人と人は合わせ鏡のようなもの。
こちらが心に隔てを置けば相手も隔てを置きましょう。
傍目にはお似合のお二人でしたが、歩み寄りのできなかったことは残念なことでございました。

さて、暗くなるころ、光る君へ「方違えすべし」と進言がございました。
内裏から左大臣邸への方角が、中神の通り道で塞がっていたとのことでございます。

―——「方違え」は、陰陽師が占ったその日の凶方位に目的地があるとき、まず別の方角に移動して一泊して、翌日、改めて目的地に向かうことで災厄を避けようとすることだったかしら。
   今では、廃れていてよかったわ。面倒だもの。

光る君も、面倒だと御思いでございました。
周囲の者が凶兆にざわめいて、どこに行けばよいか、と算段を始めたのに「今さら、どこにも行きようがないではないか、眠いのに」などと投げやりなことを言ってそのまま休んでしまおうとなさいます。
皆が、それでは縁起が悪い、と慌てふためいているのを面白がっておられたのかもしれません。

人々があれこれという中に「まあ大変、光る君が日ごろから三条殿においでにならないのは、忌むべき方角だからなのですね」などと嫌味も聞こえてまいりました。

ある者が「近頃、紀伊守が、中川あたりの家に水を庭に引き入れて洒落た造りにしているようです」と申し上げますと、ようやく興味を惹かれたようで起き上がり、「涼し気で良いな。疲れているから、牛車でそのまま入れるところにせよ」とのご希望でした。

すぐさま紀伊守を呼びつけて申し付けました。
紀伊守は、承って御前を下りましたが、その実、たいそう困っておりました。
父である伊予介の家に触りがあって、女たちが紀伊守の邸に滞在していて、自慢の邸宅もあいにく手狭になっているのです。

高貴な方をお迎えして無礼があっては、と従者を相手に嘆いているのを光る君が聞きつけて「女人が近くにいるというのはうれしいね。女人のいない旅寝は寒々しいものだよ。」などと言うので、お断りすることもならず観念してお迎えする支度に奔走するのでございました。

―――紀伊守は、紀伊の国の国司で、お父さんも伊予介だから、いわゆる受領階級ね。なんでこんなこと言いつけられているの?

紀伊守は、左大臣家の家司としてお仕えしているのでございます。
受領階級のものたちは、身分の高い貴族に伺候して財を貢いだり、様々な御用を承ったりしておりました。
その見返りとして、除目で有利な国の国司に任命されることを期待してのことでございます。
左大臣の引き立てのおかげなのか、紀伊国も、伊予国も交通の便が良く自然環境も穏やかで資源も豊かな「上国」でございました。

光る君は、あまり大げさにならぬように、とお供に御自身の腹心のみを連れてお出かけになりました。

紀伊守の家の人々は、急なことに困惑しているのですが、光る君たち一行は彼らの事情など頓着せず、寝殿の東面をあけさせて、光る君の滞在のための設えをいたしました。

田舎家風の柴垣に手入れの行き届いた前栽
さらさらと流れゆく遣水
涼しい風
かすかなる虫の声
飛び違う蛍

紀伊守が自慢するだけのことはある美しい庭園です。
従者たちは、早速、涼し気な遣水が足元を流れる縁に座して酒を飲み始めました。

邸の主たる紀伊守が酒肴の準備に奔走しているのをよそ眼に、光る君はのんびりと、昨晩、話をきいた「中の品の家」とやらは、こんな感じのところだろうか、などと思っています
「中の品の女」も見てみたいものだ、とあたりを探ると西側に人の気配がしました。

格子は人目をはばかって下ろしてあります。
襖障子も締め切られていますが、上から明かりが漏れているので近寄ってみました。
向こうから衣擦れの音がして、若い女がひそひそと声を落として語り合い、くすくすと笑う声が聞こえてきます。
女たちのささめきあっているのに耳を傾けると、光る君の噂話に興じているのでした。

「大層まじめにしていらっしゃるそうよ。ごくお若いうちに尊い姫様とのご縁が定まってしまったのですって」
「それでも、軽くお相手をする適当なお忍び先はたくさんお持ちだと聞きましたけれど」
「秘密の恋もなさっているはずよ、式部卿の姫宮に朝顔を贈ったときの御歌は素敵でしたもの」
などと、間違って覚えた歌を得意げに披露している女たちを軽々しいと不快にお思いになりました。

もし、愛しくて恋しくてならない藤壺の宮とのことが、このような下賤なうわさ話となったなら、と想像すると胸がつぶれそうに苦しいのです。
しかし、女たちの話は、結局、たいした内容ではなく、ほっと一安心なさったことでしょう。

外はかなり暗くなりました。
紀伊守が挨拶に参上し、燈篭を掛けて明かりをともします。

光る君は「「帷帳(とばりちょう)」とやらは、どうなった?それがなければ、行き届いたもてなしとはいえないだろう?」などと冗談めかして言いつけます。
紀伊守は、「アワビもサザエもあいにく用意がなくて。せめてこちらを。」などと真面目くさって果物などをお出しいたしました。

――― 待って。よく分からないわ。光る君と紀伊守は、なんのなぞかけをしているの?

この頃に流行っていたとある催馬楽がありました。
俗歌、と申しますか、猥歌と申しますか。
「婿君を迎えるために、帷帳(とばりちょう)を下ろして夜の寝間の支度をして女性が待っていますよ、アワビやサザエなどの御馳走も準備しました。さあ、早く来てください」という色めいた誘い掛けの歌になぞらえて、「夜伽の女人はいないの?」と求めたのでございます。
それに対して、紀伊守は、光る君は「アワビやサザエなどの御馳走を要求している」と思ったふりをして、はぐらかしたのでございますよ。

―—— え、光る君ってそんなことを言う方だったの?嫌だわ。

姫様、またお口がへの字でございますよ。
光る君の物言いは、まことに聞き苦しいものでございます。
この時代、千歳の昔において、このような無礼がまかり通るほど受領階級とは身分の差があったということでございましょう。
一応、擁護しておきますと、古き世において主筋にあたる方をお迎えした家では、恭順の意を示し、かつ主従の結びつきを強固にするためにその家の娘を一夜妻として差し上げることが習わしとしてございました。

―——そうなのね。まあ、いいわ。続けて。

紀伊守は、光る君へお目通りを願って一族の子供たちを連れてきておりました。
その中で、ひときわ目立って上品な十二、三才の子がありました。
素性を問うと、亡き衛門督の末子で、紀伊守の父・伊予介の後妻となった姉の縁で、こちらで暮らしているとのことでした。

光る君は、故・衛門督が、娘を入内させたいと望んでいたことを思い出しました。
なるほど、その娘が父の早世によって入内の望みを絶たれたばかりか、頼るべき寄る辺を失くして、老いた受領の後妻に身を落としたのか、気の毒なことだ。
世の中は移ろいやすいものというが、中でも女人の宿命というのは、水の上に浮かび漂っているようなもので頼りなくあわれなものだ、とお思いになりました。

「この子の姉がそなたの義理の母か。若く身分のある姫を妻に迎えて、伊予介は大事にしているだろうな」
と問うと
「仰る通りです。まるで主であるかのようにかしづいておりますよ。年寄りにもかかわらず好き好きしいことで」と、苦笑して答えました。

―—— 衛門督は、内裏の門の護衛や帝の行幸の供奉を司る衛門府の長官。従四位相当だったかしら。姫が入内していたら、光る君の母君と同じ更衣ね。
   きさきになって、桐壺の更衣のように苦労するのと、受領の後妻でも大事にされるのとどちらが幸せか分からないわ。でも結婚相手が、麗しい帝とお年寄りの受領では、やはり大違いかしら。
   教えて、衛門督の姫は、お幸せに暮らしていたの?
   この夜は、紀伊守の御邸に来ていたのでしょう?

夜も更けました。
光る君のために、御座に床が設えられております。
お供のものたちも皆、もてなしに酔い、それぞれに臥して寝てしまい、辺りは静かになりました。

光る君は、仮の宿の独り寝のむなしさに、寝付けずにおられました。
北の障子の向こうに人の気配がするのを「件の零落した姫だろうか」と心にかかり、起き上がって耳をすましていると、暗闇の中で小さな声が「姉上、どちらにいらっしゃいますか」と問いかけるのが聞こえました。
先ほど目に留まった少年の声でございます。
「ここにおりますよ。」と気だるく答える声の様子は少年に似ていて、まさに求める女人だと、光る君は胸が高まりました。

「お客様はもうお休みかしら。あまり近すぎるのでは、と思ったけれどそうでもないわ」と女君が言い、弟は「廂の間にお休みですよ。噂に聞いた通りのまばゆいようなすばらしいお姿を拝見いたしました」と声をひそめて答えます。
「お昼間なら私もお顔をみられたのにね」と言いながら、寝具に顔をうずめたのか、ややくぐもった声が眠たそうです。
光る君は、女君が御自分にあまり興味を持っていないようなのが面白くありません。何しろ女人はすべからく御自分に関心があると思っておられるのですから。

少年は「私は、こちらの外の方に休みます」と声をかけて下がりました。
「中将の君はどこにいるの?人の気配が少なくて恐ろしい気がするわ」と女君が自分付きの女房を呼ばわるのに侍女たちが「下屋にお湯を使いに行っています。まもなく参上いたしますでしょう」と答えました。

やがて、障子の向こうはしんと静かになりました。
光る君が、掛け金を試みに引き上げてみると、向こうからは掛け金は閉ざされておらず、障子はするりと開きました。

暗い部屋に唐櫃などが雑然とおかれていて納戸のようです。
光る君はその中を分け入って進み、ひとの気配のする方へといくと、ただひとり、たいそう小柄な感じの女人が臥せておりました。

女君は、誰かが側に寄って来たのを女房だと思っていて、身体の上にかけた衣を押しやられるまで異変に気付きませんでした。

「中将をお召しになりましたので、参りましたよ」

女君が女房の「中将の君」を探していたのにかこつけて、「近衛中将」が来ましたよ、などいう戯言は全く耳に入らず、どうにもこうにもわけがわからず、何やら怪しげなもののけに襲いかかられたようで、恐怖の声も満足に上げられません。

「突然のことで驚くでしょうが、長く貴女をお慕いしていました。このような機会を待って会いにきたことでも、私の心が深いのがお判りでしょう」
とおびえている女君にやわらかく語り聞かせます。
「人違いでございましょう」と困り切って、かぼそく絶え入りそうな声で申し上げますが、あまりにも戸惑っているさまが可愛らしくて「人違いなどではありません。この恋心に導かれて参ったのです。さあ、私の真心を少し聞いてください」と、小柄な女君を抱き上げて障子をあけて出たところに、女房の「中将の君」が参りました。

「おや」と男の声がしたのを、いぶかしく思いますが、大層、高貴な香りがするので、相手の見当がつきました。
奥様が連れ去られようとしていることに気づき、ああ、なんてこと、と青ざめますがどうしようもありません。

並みの相手ではありませんから、つかみかかったりひっぱったりすることも憚られます。
また、仮に騒ぎになってこのようなことが多くの人に知られてしまったら、どれほど奥様の恥になるか、と助けを呼ぶこともできず、中将の君は、気が動転し、おろおろと追いかけましたが、光る君は動じることもなく奥の御座所にそのままお入りになりました。

「明け方に迎えに参れ」

中将の君に一言告げると、その鼻先で障子を閉めてしまわれました。

女君は、中将の君に自分がどのように思われているか、と思うと恥ずかしくて情けなくて、汗と涙がはらはらと流れおちてきます。
たかが受領の妻と侮られてのことか、とあまりにもみじめでなりません。

光る君は、女君が、このような無理強いを辛いと深く嘆いている様子をかわいそうだと思い、そのような中でも気位を高く持ち、心強くふるまおうとしているご様子が立派だとお思いになります。

光る君は、このようなとき、とめどなく優しい愛を告げる言葉を降りやまぬ雨のように女君に注ぎ続けるのでございます。

貴女を前からお慕いしていた
会う機会をずっと伺っていた
こんなに強引なことをするのは、貴女への思いが深い故だ
思いがけない逢瀬は前世からの約束なのだ
貴女が愛しい…

一体このようなかりそめの言葉がどこから湧き出てくるのか、不思議なことでございます。
光る君は己の語る言葉に騙られて、うそからまことが転び出て、本心から女君を愛おしくなり、ますます愛の言葉を語るのです。

多くの女人は、当代一の貴公子、光る君がまことの心を込めて捧げる愛の言葉に絡めとられてしまいます。
しかし、この女君は、なよ竹の柔らかくしなって折れぬがごとく、光る君の口説に抗い、つれなく振る舞い続けました。
元々はたおやかで優しい人柄なのに、無理に強情を張っているようなところに無性に惹かれ、光る君は、この女君に出逢ったことを大いなる喜びと思っておられます。

慰めても慰めても女君が泣きやまないので、さらに愛を語り、靡かぬ情の強さを嘆じ、さらには未来を誓う言葉をたくさんお伝えになりました。

女君は、まだ娘の頃にこのような出逢いがあったのであればどんなにか心ときめいただろう、と思いつつ、今の身の上で水鳥の一夜の仮寝のような頼りない関係を結んでしまったことを嘆いて千々に心が乱れます。
この逢瀬について人に知られないようにしてほしい、望むのはただそれだけなのでした

鶏が鳴きました。
人が起きました
「ああ、寝過ごした」「さあ、お帰りの車の用意をせよ」などと邸も目を覚まします。
紀伊守も出てきてあれこれと指図をしているようです。

光る君は、再び逢瀬を持つのも難しかろうと思うと、女君を放したくありません。
しかし、中将の君がお迎えに参上したので、しぶしぶ退出を許しましたが、引き留めて、
「どうやって文を使わしたらよいか。あなたの強情なつれなさも、交わした情も、忘れられない。このまま浅い縁で終わらせたくない」
と涙ながらに伝え歌を詠みかけます。

鳴きかわす鳥たちが朝の時間が刻々と過ぎゆくことを伝えています。

女君は、年老いた受領の妻、という自分の身の上を思い知らされずにはいられません。
今は任地にいる生真面目で雅なところなどひとつもない夫の伊予守のことが思いやられて恐ろしいのです。
「身の憂いを嘆き続けて夜が明け、鳥の鳴く声に重ねて私も泣いております」
とこれ以上の関りは持ちたくないことを伝え、障子は女君をのみこんでぴしゃりと閉められました。
光る君は、その障子がまるで二人を隔てる関所のようだ、と黙って見つめておられました。

・・・・・姫様、そのようにお口をぽかんと開けておられると、餌をねだる燕の子と間違われますよ。

――― 嘘でしょう?光る君ってこんなひどいことする方だったの?警察、いえ、この頃は検非違使かしら、罪にはならないの?

正史には、かような非道は書かれませぬな。
光源氏の君は、この日の本の国の礎を築き、千年続く平らかな世、民草の安らう安寧の世を作られた偉大なる君子と伝えられております。

だからこそ、むかしがたりをいたすのでございます。
光も影も、功績の陰にある失敗も、慈悲の裏にある冷酷も、すべて語りつくすのでございますよ。

さて、罪と罰でございますが、この頃にも姦通罪はありましたが、高位貴族のご身分の方に実際に適用されることはまずありませぬ。
相手が帝の后妃や神仏に仕えるものであれば別の定めがございますが、それ以外の色恋沙汰で公に咎められることはなかったようでございます。

―—— 本当にひどいわ。光る君は、私の遠いご先祖さまよ。きっと素晴らしい方だったに違いないと思って、子孫であることをずっとそれを誇りに思ってきたのに。
   大切な宝物にべっとりと墨がかけられたような気持ちだわ。

姫様、どんな偉大な方も、神でも仏でもない、ひとりの人間でございますよ。
ですが、もし、お辛いようでしたらむかしがたりは、しばしお休みして、もう少し大人になられてからにいたしましょうか。

―—— いいえ。ここで辞められたらかえって落ち着かないわ。
   幻想が崩れ落ちて、いっそさっぱりしたの。
   続きを聞かせて。
   気の毒な女君のその後のことも気になるし。

かしこまりました。
姫様はまことに語り甲斐のあるお方でございます。

ですが、夜も更けました。
続きはまたの機会にいたしましょう

続く

岩波文庫源氏物語(一) 64ページから73ページ
見出し画像は「週刊絵巻で楽しむ源氏物語」より

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