まさかの映画化、「奇怪な三角関係」：長谷川泰子『ゆきてかへらぬ　中原中也との愛』（村上護編）レビュー［読書感想文］

　大岡昇平の名著『中原中也』（1974年）刊行後、同年の野間文芸賞受賞に寄せて出版されたのではないかと勝手に思い込み、しかし興味あって入手通読した長谷川泰子の『ゆきてかへらぬ　中原中也との愛』（村上護編）は、当時若くウブだった（笑）自分には、敬愛する文学者たちを翻弄する多情な謎の女性の側からの弁明書でしかなかった。
　しかも、どう読んでも、中原中也から小林秀雄のもとに走り、その関係が破綻したのち、別の男性との間に子をなし、その後、資産家の妻の座に収まり、そうした生き方をしつつ、ずっと中原中也との関係を続けていたというあたりの本当のところが全く理解できなかった。肝心のところは何も語ってないじゃないか、と呆れるばかりだったように記憶に刻んだままになっていた一書で、どこにしまったのかさえ、すっかり忘れていた。
　昨年、根岸吉太郎監督が、2009年の『ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜』で松たか子を主演にモントリオール世界映画祭最優秀監督賞を得た一本以来、実に15年ぶりにメガフォンをとるとの報に、タイトルが『ゆきてかへらぬ』と聞いて、ビックリ。『ゆきてかへらぬ』って、中原中也と小林秀雄とを弄んだ長谷川泰子の本じゃないか、太宰の次は、こんなに間を置いて中原と小林秀雄なの。しかもふたりを翻弄する長谷川泰子に「広瀬すず」と知って二度ビックリ。すずちゃんで大丈夫なの？
　慌てて若い頃、放ってそのままにしていたはずの『ゆきてかへらぬ　中原中也との愛』を探したが全く見つからず、どうしたかなぁ、とやや慌てて、メルカリで古書をポチとしてしまおうかなとしていたところ、いつ購入したかまるで覚えのない文庫本、角川ソフィア文庫が、偶然、別の本を探していた時に目につき、なんとタイトルはなぜか前うしろになっていて『中原中也との愛　ゆきてかへらぬ』、なんで？　急いで通読した。約50年ぶりの再読。老齢の読書力で読み返してみても、やはり緩い内容ではあるが、様々に経験値を積んだからこその面白みが十分にあった。
　そもそも、数えで70になる歳に自分がまさか鎌倉に住んでいるなどとは、東京に生まれ育っていた10代の頃の文学少年は想像すらしていなかった。30歳直前から諸経緯あって鎌倉に住まいしたことで、中原が住んだ鎌倉五山第三位寿福寺や小林と永年の不仲を溶解させた海棠が美しい妙本寺と個人的に深くご縁を頂戴することになって、この本を読み返すことなるなどとは思ってもみなかった。同書の内容より、そうした感慨の方が深く湧き起こる読書時間となってしまった。しかも登場する文学者、演劇人等々の名前への親近感をどう表現すればいいだろう。この人とも、この人とも関係していたのか、と自分自身の文化遍歴（そんな言葉あるかな）をしみじみ振り返るばかりの温かな瞬間の連続だった。
　小林秀雄は中原中也と長谷川泰子との関係を個人的に深い思い入れある名文「中原中也の思ひ出」で「奇怪」と書いた。文庫本にエッセイを寄せている川上弘美はこれを「不思議な三人の関係」と呼んでいる。誰もが知る詩人と評論家となる若いふたりの激情に比して、なんと淡々とした泰子の心情か。強烈な個があるようでいながら立ち現れる現況に流されるばかりのノンシャランな女性に、ただただ入れ上げ、夢中になる欲情ばかりが先走る青春の無分別。しかし、そうした若気の至りが、ふたりの偉大な文学者を文学史に刻む「核」というか「根っこ」になったのなら、それはそれで意味深いことだったのか。大岡昇平や河上徹太郎といった愛読したふたりのそばにいて泰子のことも既知の一流の文学者たちがあまりよく言わないことを真に受けて長谷川泰子像を思い描いていた自分自身の若気の至りも、なにやら微笑ましく思い出されたことだった。
　しかし、まさかこのエピソードが映画になるなんて。監督は根岸吉太郎。本来なら、原作通読を経ての映画鑑賞でレビューをあげるべきところだが、記憶の片隅にしまってあったような一冊との懐かしい再会に、映画鑑賞前に読書感想文として「心にうつりゆくよしなしごとを」記した次第である。
　どんな映画になっているのかな。すずちゃん、頑張ったかな(失礼)。いよいよ明日（令和7年2月21日）から全国公開です。映画レビューは、あらためて。

参考
根岸吉太郎『ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜』レビュー
(2009年10月21日　JANJAN)
https://drive.google.com/file/d/0B7jbZGy0RNr8U0tvaXZOTU1FNGc/view?usp=sharing&resourcekey=0-MtGmQPksTb_DBO-OCKcOiQ