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老境の普遍化:筒井康隆『敵』レビュー
昨秋の東京国際映画祭で作品、監督、主演男優の三賞に輝いた吉田大八監督長塚京三主演『敵』の全国公開にあわせて、筒井康隆の原作をあらためて精読。先の映画レビューにあたっての再読から間を置くことなく3度目となる読了で去来したいくつかのことを記したく拙稿をあげる。
いま手元にある初版本の奥書発行日は1998年1月30日。本文末には1997年8月4日脱稿と明記されている。当時さかんに出版されていた新潮社の「純文学書下ろし特別作品」の一冊で、箱入、価格は税別2200円である。27年前から書籍の値段は変動がない、と言っていいのだろうか。社会学者エズラ・ヴォーゲルが『ジャパン アズ ナンバーワン』(広中和歌子他訳TBSブリタニカ)でその後の日本経済バブルを予見したのが1979年、一般的に言われる日本経済のバブル期は、その10年後の1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までで、本書はその約10年後の作品ということになる。この後、約30年間日本経済は見るも無惨な非成長期になっているから、そもそも本の値段からしてあまり変わらない。文芸書で箱入なんて今は全くないから、むしろ後退している感すらある。
『敵』の主人公、元大学教授渡邊儀助は、大学退職直後3200万円ほどあった預貯金が10年経って現在2200万円になっている。毎年のかかりに葬式代300万円と想定して、消費税等も加わってくるから預貯金はあと5年ほどで尽きる。そのように計算して、底を着く前に自裁すると決めている。約30年前の作品なのに、金銭の相場がなんら変わらない。読んでいて、その他すべてが実に今日的なのである。映画化にあたり吉田大八監督は、自ら担当した脚本で原作にいささか手を入れて老境を秀逸に具現化したが、そもそもの原作がきわめてリアルで、筒井康隆の先見性に舌を巻くばかり。経済事情ばかりではない。同書に描かれるパソコン通信は、インターネットの普及一般化によりSNSに様変わりしたが、そこでのやり取りは今もほとんど変わらない。描かれる老境諸相が、時代を超えて普遍を獲得しているのである。
筒井康隆は、昨年『敵』より10年前の『残像に口紅を』(1989年中央公論社)がTikTokで盛り上がり、2017年に続いての同作品ブームを招来させ、書店では文庫本がポップ付き平積みとなっていた。『敵』ばかりでなく、その諸作品が時代に押し消されることなく内実凛然と普遍化されて、多くが今を生きる者の胸奥に突き刺さるのである。ためしに長くなるが、『敵』終盤のひときわ圧巻の一節を書き写す。
「神」が死んで何十年になるのだろうか。今度は「善」も死ぬのだとしか儀助には思えないのだ。アリストテレスが「神」の存在を証明しなければならなかったと同様に今までは「善」を否定することができない世の中だった。しかしこれだけ表層的な善が蔓延ったのでは蓄積された闇の力としてのファシズムのような悪が噴出するのは当然だ。(中略)所謂善とは実は悪であったか。考えてみれば真善美の中で一番あいまいなのが善だものなあ。そのうちニーチェみたいな人物が出現して所謂善を叩き殺してくれるのだろう。曽呂曽呂そうなってもいい頃だ。その方が小さな悪を認める世の中になってファシズムなんてものはなくなるかもしれない(285頁)。
こと「ファシズム」に関しては筒井康隆が予見した時代はもう少し先になりそうだが、こうした一字一句が「今」に鋭く重なって、随所でハッとさせられ、ページをめくる指が止まる。
内実古くなるどころかますます今日的となっている筒井康隆『敵』を、映画鑑賞とともに是非とも一読されたい。
映画レビューは以下。参考まで。
filmarks
https://filmarks.com/movies/118660/reviews/185352040