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様式美に満ちた文芸映画:根岸吉太郎監督『ゆきてかへらぬ』レビュー【映画感想文】

 観てきました。初日初回上映、109シネマズ湘南スクリーン9。平日早朝にもかかわらず半分以上の席が埋まる入り。関心高いんですね。
 幕開けは広瀬すず扮する長谷川泰子の朝の目醒め直前の大写し。雨が降ってました。赤い番傘がゆっくり進んでいるところが俯瞰で映し出されます。いきなり根岸吉太郎節でした。ところが物語が動き始めて、あれっと思わされる。これはあの原作の映画化ではない。事前情報を入れなさすぎたかも。エンドロールで納得することになるのだが、これは『ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜』でコンビを組んだ田中陽造のオリジナル脚本で、参考にも献辞としても長谷川泰子も村上護の名はなかった。
 このところ妻から再三言われる(唐突に個人的なことでごめんなさい)、老齢ゆえの感性、受容力の硬直性を反省しないではいられなかった。ずっと長谷川泰子の『ゆきてかへらぬ 中原中也との愛』が原作なのだと思い込んでいた。そうではなく「ゆきてかへらぬ」とは、中原中也が死の三週間前に小林秀雄に清書原稿で託した『在りし日の歌』所収の「永訣の秋」と括られた詩群冒頭にある「京都」と添え書きのある一篇のタイトルだった(らしい)のだ。思い込みはよろしくない。しかし古くからの読者は「ゆきてかへらぬ」で文学史上名高い三角関係が描かれるのなら長谷川泰子の遺した一冊だと思うでしょ。
 そのせいかも知れない。自分の中で形造られている中原中也と小林秀雄、そして長谷川泰子像とがきちんと重ならないまま静かにかつ堅固に作り込まれた破綻のない楷書の場面が続いていくのを追いかけるばかりの128分になってしまった。観終わるまでずっと違和感が消し去れなかった。
 これは観る側のこちらの問題だろう。文学に目覚めた頃からずっと大切にしてきた詩人であり文学者だから、どうしてもそれなりのイメージがある。妙本寺の海棠の花びら舞い散る場面などは、どうしても受け入れることができなかった。「一とひら一とひらと散らすのに、屹度順序も速度も決めているに違いない、何という注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた」(「中原中也の思い出」)と小林秀雄は書いている。その言葉は尊重してほしかった。時系列が違いすぎる。ドキュメンタリーではないこと重々承知である。しかし、少しずつ重なり、少しずつ、時に大きく異なる三人の風景は、監督、脚本家の世界であると分かってはいても、すとんと胸内に落ちてこない。
 木戸大聖の登場で、永年温め続けられていた脚本が陽の目を見た、と観終わったあと購入したパンフレットに記されていた。なるほどイメージはよし。岡田将生の小林秀雄も異存ない。しかしやはり、広瀬すずの長谷川泰子には無理があった。是枝裕和監督の『阿修羅のごとく』の四女咲子の健闘に続いての、「女」役。広瀬すずの経験の積み重ねと、成長の著しさは、一ファンとしては大歓迎である。いつまでも可愛いだけではいられない。根岸監督は広瀬すずの解釈力、表現力を高く評価している。納得である。しかしながら、二人の文学者との絡みのシーンには監督の遠慮が感じられてならない。こと細かに映像化してほしいとまでは言わないが、艶がなさ過ぎはしないか。もっと欲情激烈でなければ、ふたりの天才の地獄が身に迫ってこない。三角関係の「奇怪さ」が色濃く伝わらないのである。
 セットも雰囲気も、若い世代の監督には出せない経験値に裏打ちされた重厚感、様式美に満ちている。それだけに内実の緩さが目立ち、気になる。しっかり作り込んであることは認めるが、もっと深く奥まで行けたのではないか。小林秀雄が評した中原中也を「閉じ込めた得態の知れぬ悲しみ」(前掲同書)を根岸吉太郎、田中陽造のタッグなら炙り出せたはずである。エンドロールに重なるキタニタツヤの主題歌が「ユーモア」というのも残念。いい曲だけど。
 高評価点は出せない。しかし、文学史上名高い三角関係を文芸作品として仕上げてくれたことには感謝。本作終盤で蒲田松竹の若いスタッフが「中原中也」の名を知らないというシーンの意味するところは、今日ではもっと深刻である。本作契機に、中原中也、小林秀雄がこれまで以上に、いや嘗てそうであったごとく当たり前のように読まれるようになれば嬉しい。

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