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黒塚 4/8(短編小説)
青年の気配が消え去り、辺りは再び静かになった。
「……そうね、彼の言うとおり、私はきっとこっちだわ……」
静子は青年とは逆の方向に歩き出した。
しばらく歩くと、向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。
あ、あの人に道を聞けるかしら。
逡巡しながら進むうちに、相手が近づいてきた。どうやら女らしい。
女の前に、何か大きな影が見えた。
何だろう。
目を凝らした。すぐにわかった。ベビーカーだ。女はベビーカーを押しているのだった。
赤ちゃん……。
静子はさっきの飲み会を思い出した。
「早く子どもが欲しいんです」
と、若い花嫁が言った。誰かが「高谷くん、がんばんなきゃ」と言った。 高谷は照れたように頭をかき、座が湧いた。
ベビーカーを押す女と静子はすれ違った。
「……え?」
すれ違いざま、女が何か言ったような気がした。
静子は振り返った。だが振り返っても、遠ざかっていく女の後ろ姿が見えるばかりだった。
……道、聞けなかったな。
静子は前を向いた。
そういえば、高谷にはいやな噂があった。以前に女性を妊娠させて堕ろさせたことがある、というものだ。根も葉もない噂だと思って信じなかった。
あの若い花嫁は、そのことを知っているのだろうか。
静子はふと気づいた。
……さっきの女の人、こんな時間に、赤ちゃんを連れて散歩?
もう一度後ろを振り返った。女の姿は消えていた。
静子は闇の中を歩き続けた。等間隔に置かれた街灯のおかげで、真っ暗闇にはならない。だが白い光の輪の外は、どうなっているのかよく見えない。今が何時なのかもわからない。
暗闇の中、単調に歩を進めていると、自然と今日の飲み会のことが思い出された。
静子は、高谷と一度だけデートをしたことがあった。映画を見て、食事をした。
それだけだった。
あの後、自分からもっと誘っていれば良かったのだろうか……。
だが内気な静子は、それができなかった。ただ、高谷がまた声をかけてくれるのを待った。だがその後、声がかかることはなかった。二人の関係はそれで終わった。
そのうちに、高谷が新入社員の若い女の子と一緒にいるのを、よく見かけるようになった。そうして今日、二人の婚約のことを知ったのだった。
唐突に、さっきのベビーカーの女性が何を言ったのか思い出した。ありがとう、と言ったのだ。
「ありがとう、って……何で私が、お礼を言われるのかしら。知らない人、よね?」
静子は首を振った。くだらない回想にふけるより、早く家に帰りたい。
「帰ったら、熱いシャワーを浴びて、ハーブティーを入れて、ゆっくり休んで……」
~ つづく ~