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黒塚 8/8(短編小説)

 

 突然、車ががたんと傾いた。
「⁉」
 危うく前の座席にぶつかりそうになった。
 車は下降していた。
 窓の外を覗くと、まるで見えない下り坂がそこにあるかのように、車は闇の中を下へ下へと下りていく。加速しながら。
 静子の中を、冷たいものが走り抜けていった。
 運転手は、前方の闇を見つめたままハンドルを握っている。ロングコートの女は祈るように手を合わせている。
「何よ、これっ! 一体どこに行こうとしてるの‼」
 静子は叫んだ。「大丈夫ですよ」と運転手が言った。
「何が大丈夫なの! いや、私は行かない!」
「お客さん、もう観念して」
「いやっ‼」
 叫びながら、包丁を持っていないほうの手で窓をバンバン叩いた。すると向こうにバスが走っているのが見えた。頭を割られた職場のみんなが乗っている、あのバスだ。バスは、静子の乗っている車とは反対に、闇の中を上へ上へと上がっていく。その先には光があった。みんな、頭から血を滴らせながら笑っている。高谷と花嫁も。
 静子は怒った。
「ずるいじゃない! 何でみんなは上で、私は下なのよ‼」
 運転手の無表情な顔が、バックミラーからのぞいた。
「しょうがないじゃないですか。だってあなたは…………だから」
「何がしょうがないの! 何で私が……」
「大丈夫ですよ。ちゃあんと時期が来れば、あなただって上に行けるんですから。そっちの人は、ようやく心を決めたんですよ。最もあなたの場合は人数が多いので、ちょっと時間がかかるかもしれませんが……」
「いやよ、そんなのいやあっ」
 静子は、闇をつんざくような悲鳴を上げると、無理やり車のドアを押し開いた。そして、運転手の制止を無視して車から飛び降りた。
 闇の中を、めちゃくちゃに身体が転げていく。あちこちに痛みが走る。混乱して、何が何だかわからない。だが静子は叫び続けた。
「いやよ‼ 私は絶対に行かない‼」
 そんな中、脳理に一つの画が浮かんだ。
 卓の上には、倒れたコップや皿が散乱している。その周りには職場のみんなが倒れている。頭から血を流し、目を見開いて、恨めしそうにこちらを見ながら。誰もぴくりとも動かない。死んでいる。
 静子は、黙ってそれらを見下ろしていた。右手に、握った包丁の柄の硬さと、そこから滴るぬらぬらした血を感じながら。
 だって、こうするしかないじゃない……高谷が、私に黙って結婚するなんて言うんだもの。
 
 やがて身体が止まった。だがすぐには目を開けられなかった。
 辺りは静まりかえっている。自分の息づかい以外、何も聞こえない。
 恐る恐る目を開いた。そこは暗闇だった。
 だけどたった今消えたばかりの蛍光灯の残滓によって、かろうじてその文字を読み取ることができた。
「M駅」
 確認すると、文字はそれを待っていたかのように消えた。静子はほうっと息をついた。
 なんだ……M駅じゃない。道に迷って歩き回っているうちに、いつの間にか元のところに戻っていたのね。
 立ち上がり、身体のあちこちを動かしてみた。足は少し疲れていたが、痛みを感じるところはない。
 右手には包丁を握っていた。刃には血糊がべっとりとついている。手の中のそれをじっと見つめた。それからバッグに入れた。
 早く、家に帰りたい。
 静子は再び、暗闇の中を歩き出した。
  
                    

                       了                                                        

                               

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