【実況・インスタ断ち】5日目〜今は亡き友人への「誕生日おめでとう」メッセージ〜
結論部:
SNSは、年賀状。
そう捉えたら、毎日同窓会してるうちに友人というものの距離感を誤っていったのだと思った。
「承認欲求」「共感への欲求」「所属欲求」「自己顕示欲」これらがお化けのように膨れたのは、「友人」のコミュニティに重きを置き過ぎたから。
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本文部:
同年代で、ある程度打ち解けてるから会えば仲良く話せる自信があるけど、今はもう特別に会う機会も無い「知人」っているじゃない?
SNSがなかったらとっくのとうに消息も分からなくなってるようなタイプのご縁だと思うけども、波長は合うから緩やかに繋がってても良いタイプの人。
共通の友人もいたりで、またどこかで会うかもしれないし。
そういう友人を何人か亡くしている。
きっと40代も半ばになればみんなそんな感じだと思うんだけど。
ふと、「そういえばFacebookってどうなってるん??」と思い、
Facebookにログインしてみた。
過疎ってて、今やなんの魅力もないタイムラインになっているから依存のしようもないFacebook。(^^;
フォロワーって誰だったかな…と思い見てみたら、まぁなんとこちらも二桁台で、少ないことこの上ない笑
私は20歳前後の時の知り合いしかSNSに入れてないから、まぁそういう理由なんだけども。
その中で、すでに亡くなってる友人のアカウントを見つけた。
同い年で誕生日が数日違い。
そんなご縁もあって、この友人の死は私にとって少し意味が重い。
アイコンをタップしてみる。
「誕生日おめでとう!!健康に気をつけて今年も楽しい一年になりますように♪」
そんな誕生日メッセージだけがいくつも並んでいる。
よく見たら、今年の分、去年の分、一昨年の分…
知らないんだ。
何年も投稿していない、その理由を知らないんだ。
逆にいうと、すごく失礼な事を言ってしまうけど、その程度の繋がりでしかないということ。
何だろうこの気持ちは。
やり切れない。
何年も投稿してないし、他人の投稿へリアクションする事も絶対無い。
当然のことながら、誕生日メッセージへの返信やリアクションもない。
何かしらの理由で何年もアクティブユーザーではない事が分かるのに、歴年の誕生日メッセージだけが並んでいる。
これがSNSの薄い繋がりの正体なのかしら。
年賀状みたいだな。
人を想い、その人にメッセージを寄せる事は何も悪くはないのだろう。
優しい人なんだろう。
一方的な関係性だな…という感想は禁じ得ないけれど。
薄い繋がりのSNSは、現代人が「無駄だ」と馬鹿にしてる年賀状とまるっきり一緒なのかもしれない。
一緒だからこそ物質的な年賀状が淘汰されただけで、メンタリティは1ミリも変わっていない。
私は数年前に年賀状をやめた。
数年間は罪悪感があったけど、今はこれで良かったと思う。
会う気のない人への年賀状は私にとってストレスだったから。
薄い繋がりもほっこりするものなんだけどね。
人は、今いる場で会う人と付き合っていくのだ。
だからこそ、今ここを共にする人と今この瞬間を思いっきり楽しもうと思う。
「リアル」を大切にしたい。
面と向かって、顔を見て、会話する。
そういうコミュニケーションの比重を上げる。
逆説的に、自分の中で得体の知れない「寂しさ」や「繋がりへの欲求」が解けていってるのを感じる。
画面に向かって「私も繋がらせて!」と縋るような気持ちが少しでもあれば、それは人間にとって苦しみなのだ。
私は「ひとりで生きていくから大丈夫」なんて思っちゃいない。
だって人が大好きだもの。
近所に行きつけのバーを持つのが直近の目標だ。
だから、ちゃんと周囲には人がいる。
家族がいて、仕事ではお客様がいて、友人がいる。
その「友人」のことで、SNSとの距離の取り方を間違えて苦悩しているに過ぎない。
SNSは、年賀状。
そう捉えたら、毎日同窓会してるうちに友人というものの距離感を誤っていったのだと思った。
「承認欲求」「共感への欲求」「自己顕示欲」がお化けのように膨れたのは、「友人」のコミュニティに重きを置き過ぎたから。
そういうことか。。
だんだん分かってきた気がする。