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毎日新聞は「ファシズム礼賛」の堂々たる「御用新聞」だった

毎日新聞の戦争責任


年の初めに、三品純さんと喜多野土竜さんが、そろってnoteで、毎日新聞について書いてました。


今年も迷走する毎日新聞(喜多野土竜 2025/1/6)

毎日新聞が放つ断末魔のドグマ記事(三品純 2025/1/6)


私も、なんか書こうと思ってたのですが、忘れてました。

まあ、今さら毎日新聞について書いても、という思いがあります。

なんか、最近の毎日新聞はヒドすぎて、可哀想な「できない子」みたいになっている。触れるのも気の毒な気がするんですね。


ただ、喜多野土竜さんが、毎日新聞の戦争責任について書いていて、それにはちょっと違和感を覚えました。

喜多野さんは、こう書いています。


「昭和天皇の戦争責任が~」と言うリベラル派は多いですが、戦争責任を取っていないのは、朝日新聞や毎日新聞ら、主要マスコミです。読売新聞の正力松太郎は、公職追放を受けていますが、それぐらい。ちなみに、軍部は大手マスコミに協力的で、戦時中に統廃合されて日本の地方紙は極端に減り、これが朝日新聞や毎日新聞の部数増にも、貢献しています。戦争のことを語るなら、まずは自社の汚点から語ればいいのに。


いや、言ってることは、基本的に、まったく正しいのですが。


毎日新聞の戦争責任は、全マスコミの中で最大だろうと思います。

毎日新聞の姿勢は、「戦争協力」などははるかに超えて、前のめりで戦争を推進し、政府の尻を叩き、国民の意気を煽り、軍と共に、戦争を主体となって担ったと言っていいです。

朝日と毎日は、戦争末期にはほぼ見分けがつかなくなりますが、初期から熱心だったのは明らかに毎日のほうです。

(読売は、当時は東京ローカル新聞で、朝日・毎日にくらべて影響力はありません)


ただ、それを「汚点」とだけ言ってしまうのはどうか。

とくに今さら、毎日新聞に、もう変えることができない過去を言い立てて、過去を否定させて、何かいいことがあるのか。

そんなふうにも思います。


毎日新聞は、むしろ開き直って、戦争大好きだった過去を肯定してみてはどうか。

もう落ちるところまで落ちた毎日新聞には、それしかないのではないか。

最近、そう思っていて、その思いつきを書きたいんですね。


「東日七十年史」を読む


ただ、その前に、毎日新聞の記者ですら、毎日の戦争責任について知らないようですから、ちょっと事実を確認しておきましょう。


私は、「東日七十年史」という本を持っています。

東日というのは、東京日日新聞。毎日新聞の前身です。

「東日七十年史」は、昭和16年(1941年)に作られた、毎日新聞の社史です。

昔、古本屋で普通に買いました。


奥付を見ると、昭和16年5月15日発行。太平洋戦争が始まる半年前の発行、非売品です


当時、毎日新聞は、東京で「東京日日新聞」、大阪で「大阪毎日新聞」を発行していました。経営の実体は同じです。

当時は、二つをあわせて、「東日・大毎」あるいは「大毎・東日」と呼ばれていました。たとえば都市対抗野球は「東日大毎主催」と表記されました。


経緯を言えば、羽振りのよかった大阪毎日新聞が、経営不振の東京日日新聞を買収したのでした。それは明治44年(1911年)のことで、社史では一応「合併」となっています。

その「合併」を主導したのが本山彦一という人物で、その後20年以上社長を務め、毎日新聞の繁栄を築いた中興の祖と言われます。彼が昭和7年(1932年)に亡くなった後、東日大毎はしばらく社長を置きませんでした。

彼については、また後ほど触れます。


「東日」と「大毎」をくらべたら、東京日日新聞のほうが古い新聞です。

日本最古の日本語新聞は横浜で創刊されていますが、初の東京発行の新聞で、曲がりなりにも今に続いている新聞の中では最古です。明治5年(1872年)の創刊から、昭和16年が、ちょうど70年目に当たったのですね。

部数は、この社史の時点で「東日が百五十万、大毎が二百五十万という紙数を発行して日本の新聞界に独歩している」(奥村信太郎社長の序文)としています。

戦争の末期に、「東日」と「大毎」は、題字を「毎日新聞」に統一します。


注目してほしいのは、本を開くと劈頭にある、東日・大毎の会長、高石真五郎の序文です。



ここで高石は、東日初代社長の福地桜痴(源一郎)の「主権在君論」を持ち上げます。(以下、現代かなづかいで引用)


福地の思想は主権在君論の立場に立って、その頃一般に普遍していた主権在民論に対抗し、新聞によって政府援護の任に当り、政府の意思を代弁し、政府の企図を天下に表明しようというにあった。
(「東日七十年史」p1)


もう冒頭から、毎日新聞の当時の「戦争協力」姿勢が鮮明にされているのがわかるでしょう。

東日の出発点は「主権在民」ではなく、「主権在君」だ、と。

また、東京日日新聞が明治の代表的な「御用新聞」とされたことは、上の喜多野土竜さんの記事にも出てきますが、それを悪いこととも思っていません。


だから世間が彼を目して御用記者といっても、彼は少しもこれを恥とせず、むしろ公然、自らそれを名乗っていたほどで、その堂々たる態度は、彼自ら、あるいは当時の宣伝大臣、もしくは情報局長をもって任じてたのではないかとさえ思われる。
(同上)


この「宣伝大臣」というのは、日本にはいないから、ナチのゲッべルスを意識した言葉でしょう。

ここで高石は、福地を再評価しつつ、自分たちはナチスと同じように国民精神を統合しないといけない、その先頭に立たなければならない、と言っているのです。


彼の主権在君論は、当時八方から攻撃されて、孤軍奮闘の状態に陥ったものであったが、しかしそれはわが国建国の精神でもあり、万古に通ずる国民的信念でもあったのである。それを明快に表明して、一代の風潮となっていた欧米思想に対抗した敢闘ぶりは、時代を指導する新聞人の天職に極めて忠実であったといわねばならぬ。
(同p2)


この本が、社員向けの社史であることから、あけすけに、自分たち毎日新聞の「使命」を語っています。


徳富蘇峰の存在感


戦時中の毎日新聞を担った責任者は、以下の4人です。口絵の最初に写真が載っています。


右ページが毎日新聞中興の祖と言われた「本社前社長 本山彦一」(この時点では亡くなっている)、左ページ上に、「本社取締役会長 高石真五郎」と、「本社取締役社長 奥村信太郎」、ページ下に「「近世日本国民史」執筆中の本社社賓 徳富蘇峰」


ここに、「徳富蘇峰」が載っていることは、非常に重要ですね。

その肩書の「社賓」とは、「重役待遇の特別論説委員」くらいの役職で、蘇峰のために特別に設けたものでした。


徳富猪一郎(蘇峰)は、日本の帝国主義の鼓吹者であるとともに、当時「新聞記者の代表」のような大物言論人でしたが、自ら創刊した国民新聞が経営難で、同新聞の経営権を奪われて放逐された状態でした。

その蘇峰を、昭和4年(1929年)に東日大毎に入社させたのも、本山彦一でした。東日大毎は、その入社を一面社告で報じました。入社にあたり、蘇峰と同社は、「皇室を中心とするデモクラシーを両者の主義とするに於て一致したこと」という契約書を交わしています。

このように戦時中重用していた徳富蘇峰のことを、毎日新聞は戦後、ほぼ社史から消してしまいます。


これは「東日七十年史」ではなく、その後の真珠湾攻撃の2日後、1941年12月10日に、後楽園球場で開かれた在京新聞社主催「米英撃滅国民大会」の写真。下の式次第で、朝日の緒方竹虎、読売の正力松太郎、報知の三木武吉らに先立ち、東京日日新聞の代表として徳富猪一郎(蘇峰)が登壇したことがわかる。彼は「大東亜戦争は義戦である」と高らかに宣言した


上の喜多野さんの文章にも、


読売新聞の正力松太郎は、公職追放を受けていますが


とありますが、毎日新聞の徳富蘇峰を忘れているんじゃないか、と。

徳富蘇峰も戦後、公職追放になりました。彼は戦時中、大日本言論報国会会長を務めました。その影響力の大きさは、正力松太郎の比ではありませんでした。

でも、蘇峰は、終戦の日に、毎日新聞に辞表を出しました。

それをいいことに、毎日新聞は、戦後、蘇峰と関係ないように振る舞い、蘇峰の言論を戦中売り物にしていた事実を、国民に隠しています。


ただ、そのことは以前にも書いたので、詳しくはそちらをご覧ください。


満州事変を全力支持


毎日新聞が、戦争遂行を主体的に担い、そのことを誇りに思っていたことは、本書の随所に現れますが、きりがないので、代表的なところだけを紹介します。

以下は、満州事変のさいに、毎日新聞がそれを大歓迎し、事変拡大を推進したことを誇る部分です。



我が外交政策は、いわゆる幣原外交の軟弱外交の下にあり、しかも国内においては党争本位の政党と、左翼的思想運動の横行に患わされ、強力なる満蒙国策の確立遂行などということは及びもつかぬ状態であった。
 ここにおいて、日日新聞は、この情勢を黙視し得ず、全機構、全能力を挙げて、先ず満蒙に対する認識の徹底と、その特殊権益の擁護とのために動員した。報道に論説にひたすら国論統一を期し、新聞本来の使命に邁進した。

(同p228)


口絵には、満州事変当時の紙面も載っています。

キャプションに、

(見出しの)「守れ満蒙・帝国の生命線」の文句はその後スローガンとして盛んに民間で使用された

と自慢げに記しています。



「ファシスト展」を開催


毎日新聞が際立つのは、誌面での論説・報道と同時に、さまざまな国威発揚のための事業に熱心だったことです。

こういうのはもちろん、国から強いられてやっているのではなく、国に先んじるように、率先してやってるんです。


たとえば昭和15年は「皇紀2600年」に当たったため、記念事業として、5000円の懸賞で、民間人から「皇国2600年史」を募集しました。

274編の応募があり、これを辻善之助や幸田露伴、徳富蘇峰や菊池寛に選考させて、藤谷みさをの作品が選ばれました。

それは出版されて、何十万部か売れました。

戦中に毎日新聞(東日大毎)出版局が発行した、時局便乗の多数のプロパガンダ本は、戦後GHQにより「焚書」となりました。

この本も、同じ毎日新聞出版局が出した徳富蘇峰「宣戦の大詔謹解」などとともに焚書になっていますが、すでに販売された本は回収されなかったので、ひところ、古本屋にけっこう出ていました。私も持っています。



以下は奥付け部分ですが、見開きの本文最終ページを読むだけでも、その熱量がわかるでしょう。




「東日七十年史」には、「大獨逸(ドイツ)国展覧会」が昭和13年に上野で開かれたことが記されています。

そこには、


世界大戦の運命時代及び総統ヒットラーによる第三帝国勃興等(中略)凡ゆる暴力に抵抗して己れの国家を建設した歴史・


と、ヒトラーの第三帝国を讃えるドイツ大使の言葉が引用されています。(ヒトラーが「暴力に抵抗した」側になっている)


「東日七十年史」p313


そして、三国同盟のもう一国、イタリアについても、昭和14年に「ファシスト伊太利展覧会」を上野東京美術館で開いています。

当時は、「ファシスト」が美称であったことがわかります。


同p314



本当にキリがないので、もうやめますが、毎日新聞の戦中の姿勢は、以上だけでもよくわかったろうと思います。


「無思想」に戻れ


毎日新聞は、約150年の歴史を持ちますが、前半の約75年は「御用新聞」「主権在君」「皇室中心主義」「ファシスト」として生き、後半(戦後)の約80年は「反権力」「主権在民」「民主主義」「反ファシスト」で生きているわけです。

こういう分裂したアイデンティティを持った存在は、まともな自我を持ち得ません。精神分析家なら、そう言うでしょう。


そういう「存在の不安」が、最近の毎日新聞には露わだと思うんですね。

朝日や読売は、毎日よりは、統一したアイデンティティを持っています。


で、最初に記した私の問題意識に戻るのですが。

毎日新聞は、戦前の過去を「汚点」として否定するよりも、それと融和した新たな「自我」を作るべきだと思うんです。


「東日七十年史」に依拠して、福地の「主権在君」などを紹介しましたが、経営の主体である「大阪毎日新聞」というのは、本来、思想がない新聞なんです。

もともと、大阪財界の後ろ盾でできた新聞でした。中興の祖の本山彦一も、言論人ではなく、慶應義塾出身の実業家です。


その本山の持論は「新聞は結局、新聞に過ぎない」ということ、新聞は一商品に過ぎない、ということでした。

言論なんて、大袈裟なことを言うな。人々が知りたい事象をいち早く知らせよ。それを売るだけの商売、というのが基本です。

だから、本山は新聞社の組織を変えて、営業部を編集部と同格にしたんですね。


長らく毎日の編集指針となった本山の「新聞記者座右の銘」は、「東日七十年史」にも載っている。その第1条は「新聞は新聞なり」。第5条の「富者、強者、貧者、弱者に媚びるな」もいいね



実際、毎日新聞の150年の歴史から、大した言論人は生まれていません。

だから、戦中も、国民新聞の徳富蘇峰を持ってきて、「言論」があるかのように振る舞うしかなかったわけです。


毎日新聞の、そういう「無思想」性、「商売第一」の特性こそが、毎日新聞の個性だと思うんですね。


戦前は、「朝日はイギリス的、毎日はアメリカ的」と言われました。

当時の「アメリカ」は、ビジネスのために何をするかわからん新興国で、秩序はないが革新性がある、というイメージです。

実際、東日大毎は、大正時代に摂政だった、後の昭和天皇の洋行を独占「動画撮影」して、映画館で「動く皇族」を見せる、というような興行をやっていました。そういうのも営業部の主導です。そういう大胆な企画力が、毎日新聞の取り柄でした。


戦中の「戦争協力」だって、思想があったから、というより、それが儲かるから、というのが大きかったはずです。


新聞は売れればいいーー毎日新聞は、そのDNAを自覚して、原点に戻ればいいと思うんです。

記者の「言いたいこと」など言わせない。売れる記事を載せる。儲かる事業をやる。それが毎日新聞の本来です。


それで、儲かって、社員の給料が上がれば、自然にいい記者が集まってきて、紙面も充実してくる。商品の品質がよくなる。

毎日新聞は、そういう経緯で大きくなったわけですから。


今は、慣れない「言論」を、朝日新聞の真似をしてやって、それでますます貧しくなっている状態ですね。

戦前の自分を肯定する、というのは、「御用新聞」や「ファシスト」に戻れというのではなく、「商売としての新聞」という毎日新聞の原点に戻れということです。


それに、私は、戦中の毎日新聞の「戦争協力」を、戦後の後知恵で責める立場には立ちません。

私は、徳富蘇峰も好きだし。

日本が戦争している時に、それに協力し、勝たせるように努力する、というのは、日本人としては当然だと思います。


共産党員の「獄中不転向」も、それはそれで尊敬するけれど。

でも、

「戦争に協力するのは日本人として当然だし、会社としてはそのほうが儲かるからそうした」

と言うなら、私は毎日新聞を許しますよ。


「毎日新聞は、とくに主義主張はないんです。その都度テキトーなことを言ってますが、商売でやってるんで、よろしくお願いします」

と言われても、驚かない。そういう商品だと国民が納得すればいい。


「東日七十年史」の口絵には、「必勝の日章旗と共に進む本社旗と特派員」という写真が載っています。


そういう姿勢は、悪くないと思うんです。

「七十年史」で、当時の毎日新聞・高石会長が、初代社長、福地の「堂々たる態度」を称賛してたでしょう。

それは、言い方を変えれば、「堂々たる開き直り」ですよ。それがいまの毎日新聞に必要です。


そして、そういう「思想」のない、フラットな新聞を、時代が求めていると思う。


「うちは朝日新聞のように、国民より賢いふりはいたしません。読者と同程度なんで、買い被らないでください」

という姿勢で、商売第一の原点に戻るのが、いま毎日新聞の唯一の活路だと思います。

(手始めに、本社役員の半分を営業プロパー部員=販売・広告部出身者=にすればどうか。いまはどうせ、編集記者出身者ばかりだろう。社長もできれば営業出身者にして、営業主体の新聞社に変われば、それだけで他社とはちがう個性が出るはず。「社説」をやめて、論説委員とか編集委員とかの働かない高給とりをクビにして、その分若手の人件費を上げるとか)



<参考>


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