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【追悼】楳図かずおと少年愛

このテーマは、漫画評論では語り尽くされているかもしれないが、自分は漫画評論とか読まないので、自分の体験として書く。


私にとっての楳図かずおは、1965年の「半魚人」に尽きる。

この漫画を読んだ時、私は小学校低学年だった。

私はその漫画を、古賀新一と同様の「怖い漫画」を読みたくて手に取ったはずである。

しかし、「半魚人」に私が感じたのは、「怖さ」よりも「エロさ」、間違いなくエロチックな吸引力だった。

少年を裸にして、切りきざみ、「半魚人」に改造していく、という物語は、少年愛にSMがくわわり、ホラーというより、ポルノにしか思えなかった。

そのころ、そういう言葉を知っていたわけではないが、とにかく小学校低学年の私は、はっきりと「性的に」興奮したのである。


心理学はよく知らないが、男児は、そういう「同性愛」的な一時期を通過するものではないだろうか。

私は、楳図の「半魚人」に出会い、それに興奮する自分を発見して、自分の同性愛傾向に気づいたのである。

それから、同時期のテレビ「マグマ大使」(こちらは手塚治虫原作)で、江木俊夫ら演じる半ズボンの少年たちにも、「性的な」魅力を感じるようになった。

それは、子供ながらに、自分でも、場ちがいの感情で、変なことだと思い、多少の罪悪感をともなった。

「マグマ大使」の子役たち


私の同性愛傾向は、創作物にしか向かわず、その短期間だけで過ぎていった。

小学校の中学年になると、私の漫画の趣味も変わり、望月三起也が「ワイルド7」(1969)で描くような「男らしい男」に自己同一化するようになった。まあ普通の「男性性」「異性愛」を獲得するコースに乗って、現在にいたっている。

楳図かずおについては、「猫目小僧」(1967)の頃にはもうあまりピンと来ず、評判になった「まことちゃん」(1971)、「漂流教室」(1972)の頃、私は漫画自体をあまり読まなくなっていた。


だから、やはり楳図かずおと言えば、私には、あの60年前の「半魚人」の衝撃である。

何かで読んだが、「半魚人」は、少女まんが専門だった楳図の、少年誌デビュー作ではなかったろうか。

楳図にとっても、あの作品で何かが始まったのだと思う。


ちなみに、楳図かずおも、望月三起也も、貸本屋で借りて読んでいた。懐かしい思い出だ。



その後、東京に出てきて、楳図氏とは何度も街ですれ違った。

例の「少年風」の格好で「漂流」している彼である。

楳図かずおは、ずっと少年の心で生きているのだなあ、と思った。

話題になった「まことちゃんハウス」の写真を見て、私はマイケル・ジャクソンの「ネバーランド」を連想した。

いかにも少年を誘っているように見えたから。


トレードマークが横縞(ボーダー)のセーターということで、「エルム街」のフレディー・クルーガーを連想してしまう。

フレディーが映画のなかで少女たちに与える「恐怖」も、何か少年のいたずらめいている。

考えてみれば、「13金」のジェイソンも、「ハロウィン」のマイケルも、仮面の下に、成長を止めた少年の心を隠している。あれらは、怪物化した「少年」である。

「少年」の、幼稚ゆえの大胆さや残酷さを誇張して表現している。

ということで、ここでもマイケル・ジャクソンの「スリラー」を思い出す。そういえばクインシー・ジョーンズも亡くなったねえ。


いっぽう、楳図氏が、編集者の言葉に傷ついて創作をやめたことがある、といった話を聞くと、少年の心の繊細さ、傷つきやすさを感じる。


少年愛というと、私の世代は稲垣足穂を思い出すが、彼が少年愛について何を書いていたか、もう忘れてしまった。


以上はべつに、楳図かずお氏の性指向について、何か当てこすったり推測したりするものではありません。彼の個人史や私生活について私は知りません。

ただ、彼の作品が、子供時代の私にもたらした異常な興奮を正直に記して、彼の天才の一端を示し、彼の死を悼みたかったのです。


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