今日は「葦平忌」 悲しき兵隊作家・火野葦平を偲んで
1960(昭和35)年1月24日、芥川賞作家の火野葦平が自殺した。
その命日の直前の日曜日に、毎年、「葦平忌」がいとなまれる。
今日、1月21日がその日だ。
葦平の故郷、北九州市若松区で午後2時から、第64回葦平忌がおこなわれる。
日時 : 令和6年1月21日(日) 14:00~15:00
場所 : 若松市民会館 小ホール
主催者 葦平忌実行委員会
https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/001069997.pdf
火野葦平の三男、玉井史太郎氏が、若松区にある旧宅を利用した記念館「河伯洞」の館長を務めていたが、2021年に病没した。いまは元小学校教諭の藤本久子さんという人が管理人だという。
葦平の妹の息子、つまり葦平の甥が、2019年にアフガニスタンで銃撃され死亡した医師、ペシャワール会の中村哲だ。中村の命日12月4日に、自宅があった大牟田市などで「しのぶ会」がおこなわれている。
若松の「河伯洞」にも中村哲コーナーが増設された。
火野葦平と中村哲に共通するのは、まっすぐな庶民の正義感情だ。
火野葦平の「戦争は悪だが、兵隊は善だ」も、中村哲の「憲法9条は善だ」も、方向は逆に見えて、庶民的心情を信じ、それに殉じる姿勢が共通する。
水木しげると火野葦平
間違ってたらゴメンだけど、ずっとむかし、わたしが子供のころ、葦平の命日供養は、「葦平忌」ではなく、「河童忌」と言っていた気がする。
葦平は、河童を愛し、河童を題材に多数の作品を書き、色紙にはかならず河童の絵を描いた、河童の作家だからだ。
しかし、「河童忌」だと、芥川龍之介とカブるので、「葦平忌」という名前で定着したのだろうか。
カブっているのは、それだけではない。
芥川賞作家で、芥川と同じように自殺したのは、火野葦平くらいかもしれない。
自殺した太宰治も、三島由紀夫も、川端康成も、芥川賞はとっていない。田中英光も。
芥川は35歳で、火野葦平は52歳で自殺した。
芥川が遺書に使った「不安(唯ぼんやりした不安)」という言葉を、葦平も遺書で使っている。
「死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるしください、さようなら」
河童を題材としたのも、芥川の「河童」の影響と思われるかもしれないが、葦平の河童にはべつのルーツがある。
それについては、増田周子・関西大学教授が、「火野葦平『蕎麦の花』論 北九州の河童伝説を踏まえて」で論じている。
簡単に言えば、故郷・若松の高塔山に河童伝説があり、葦平は、その伝説を父母から聞いて育ったのだ。
本当は、「河童忌」は葦平のほうにこそふさわしい、とどうしても思える。
かつては、その高塔山の「河童封じの地蔵尊」の前で、葦平の命日供養がいとなまれていた。いつの間にか、その風習も変わったのだろうか。
増田によれば、火野葦平は河童小説の中で、たとえば戦前の軍隊の横暴と、それと対比される庶民の誠実さを描いた。
水木しげるは、葦平の河童小説に共感し、それを原作にして、1969年から翌年にかけ、15作の河童漫画を連作している。
それらの作品は、部分的に「河童膏」「河童千一夜」などの題で単行本になったが、15作が完全収録されたのは、2016年の水木しげる漫画大全集が初めてだという。
昨秋、「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」というアニメ映画が公開されていた。
戦争体験を抱えて戦後を生きた水木しげるの世界観が描かれていたそうだ。
水木しげるの戦争体験や作品は、一般に「反戦」の文脈で語られる。
いっぽう、火野葦平は、「赤旗」で「戦犯作家」の筆頭に挙げられた作家であり、死ぬまで、左翼からの攻撃に苦しんだ。
しかし、火野と水木は、兵隊として戦った者だけがわかる戦争のリアリティを共有し、共感しあっていた。
火野と水木は、心が通じ合っていたのだが、戦後の思想は、いっぽうを「反戦」、いっぽうを「戦犯」ーーいっぽうを被害者、いっぽうを加害者のように扱った。
このように評価が分かれたところに、端的に作家・火野葦平の、そして(大きく言えば)戦後日本の悲劇がある。
なお、火野葦平が自殺した1960年1月24日は、日米新安保条約調印の5日後だった。そこに意味があるかどうかは(たぶん永久に)わからない。
日本人の遺産「悲しき兵隊」
戦中、「麦と兵隊」などの兵隊小説で人気を博した火野葦平は、1945年8月15日の敗戦で打ちのめされ、筆を折ることを覚悟して、「最後の文章」を書いた。
それが、同年9月11日の朝日新聞に掲載された「悲しき兵隊」だ。
この一文は、もし20世紀の日本人の文章を100選ぶとすれば、必ず入らなけれならない。敗戦直後の日本人の精神を刻印した、一種の文化遺産であり、ある意味で火野葦平の代表作だと思う。
しかし、今日、よく知られているとは言えない。
火野には、その一文とはべつに、「悲しき兵隊」という小説(傷痍軍人の戦後を描いた痛切な傑作)がある。
そして1959年、死の直前に書き上げた最後の小説「革命前後」に、1945年に書いたものとして引用した「悲しき兵隊」がある。
つまり、3つの「悲しき兵隊」がある。
いま比較的知られているのは、最後の「革命前後」に引用された「悲しき兵隊」かもしれない。
しかし、「革命前後」に引用された「悲しき兵隊」は、オリジナルの「悲しき兵隊」の重要な部分が火野自身によって改変されていた。
そのことを、田中艸太郎が「火野葦平論」(1971)で暴いている。
ここでは、その詳細に立ち入らないが、田中が要約した「悲しき兵隊」オリジナルの要旨を(さらに要約して)、以下に掲げておく。
「悲しき兵隊」の要旨(の一部)
・昨日まで米英撃滅を叫んでいた者が民主主義者に急変し、戦争指導者が今日は外人相手のダンスホール経営に夢中になり、戦争非協力者が得意顔でまかり通るありさまに唖然としている。
・8・15以降の兵隊の運命の激変ほど痛ましく見えるものはない。歓呼の声に送られて故郷を離れ、敵撃滅の一念で出征した兵隊たちが、戦いに敗れて冷たい国民の視線の目に悄然と帰郷する様は、慰めるべきすべのない気持ちである。
・国軍はポツダム宣言によって解消される運命にあるが、兵隊は長い間国民の花であり希望であった。いまは悲しき兵隊の複雑な表情の中にこそ、日本の当面する苦悩の最大の表現が見られるが、軍人勅諭の精神こそ、国民的規範としていささかも誤りでないという信念をもつ。
・日本の兵隊は平和を愛して戦ったものであり、戦死した兵隊を犬死というがごときに対しては憤怒を感ぜずにおれない。彼らの死こそ日本再建の礎とならねばならない。
・日本が苦悩の道を歩いてゆくためには、兵隊の精神を永久に生かしてゆかねばならない。兵隊精神こそ秩序の精神であり、節操の精神であり、道義の精神である。
火野葦平は、これを書いて筆を折るつもりだったが、公職追放解除後、作家として復帰する。
そのあとの流行作家としての活躍、そして52歳での自殺については、これまでにいくつかnoteで記事を書いてきた。
興味ある方は、ご参照いただきたい。
火野葦平について、わたしはもっとまとまった評論を書きたいと思い、果たせていないのが残念だ。
火野の兵隊小説全作品を解説したいし、映画「糞尿譚」や「花と龍」についても論じたい。
だが、時間はあるのに、わたしの怠惰と能力不足で進まない。
火野葦平の著作権はもう切れているのだが、青空文庫で読めるのは、「糞尿譚」「花と龍」など、ごく一部だけだ。
少なくとも、戦中の「麦と兵隊」ふくむ兵隊3部作、戦後の「青春と泥濘」や「革命前後」などの代表作が電子化され、もっと読まれないといけない。
数多い「兵隊小説」も、もっとふつうに読まれるようにしなければならないだろう。
もちろん、河童ものも、それ以外の多くの作品、詩も、ルポルタージュも。
「葦平忌」を主宰する人たちや、北九州市には、葦平の文業を世に広めるよう、がんばってほしい。
ここでは、火野葦平自身の作品から、彼の思想がよくわかると思える部分を引用して、供養としたい。
<小説から>
僕はいま捕虜だ。(中略)
僕がつねに希望し信じて来たのは、人間の最後の結合の問題だった。戦争を超える人間の完成、虚偽と罪悪と、そして殺戮を超えた場所にある人間の結合、人間の青春ーー人間の救いは若々しいその人間の青春以外にはないのではないだろうか?
僕は日本人だ。日本の兵隊として、祖国の危急に際して戦った。それを恥じない。僕は最後まで日本人としてありたい。病院に運ばれ、いくらか健康を恢復してから、若干の訊問を受けたけれども、僕は必要以外のことは喋らなかった。僕は裏切り者とはなりたくない。ならない。英軍将校も深くは僕を追及しなかった。
しかし、日本人、民族、人種、言語、その結いめぐらされた垣が、人間の不幸をつくること、戦争の因となることは明瞭だ。僕は日本人として祖国を愛する。陛下のために、命を棄てることも悔いなかった。しかし、なにかで読んで憶えているが、トーマス・マンのいったように、国家などといっている間は、人間に不幸は絶えぬという言葉にもはげしく共感する。これこそが、人間の青春を破壊している真の泥濘かもしれない。
(「青春と泥濘」1947~49)
<詩から>
小者の賦
苔むした石段から見えるのは
銭もうけのためのコンクリート観音
そのなかの階段式遺霊は
太平洋戦争の雑兵たち
護国寺の裏手から
つめたい比叡山のいただきをのぞんで
昔の雑兵のあとをたずねる。
殺伐の風は死んでしまい
ひいやりとした羊歯のそよぎ
池田屋は十津川につづいて
蛤御門の砲声がきこえ
ブルジョア革命のために
命を捨てたプロレタリアートの
よごれた顔が美しい。
英雄たちの墓と同じ大きさの
昭平の墓
吉太郎の墓
千代松の墓
市蔵の墓
そして、坊主どもの墓。
ビルマやインパール戦野に、
白骨の塔がきずかれたと人はいうが
亡霊は歴史の裏街道から
わたしたちの背後にたって
雑兵小者の悲しさと強さを告げる。
遺骨でもうける人たちを
とりころそう。
(私家版詩集「詩」1959)
<参考>
YouTube【癒しの女優朗読】人魚/火野葦平
*河童小説の一つ「人魚」を朗読してくれる動画。年をとると、むかしの本の細かい活字を追うのは疲れるので、最近はこういうのが助かる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?