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火野葦平と松本清張 「反共産党」と「親共産党」

火野、松本、太宰は同世代


火野葦平(1907‐1960)と松本清張(1909‐1992)は、同じ福岡県北九州市出身、芥川賞作家の先輩後輩である。

火野は北九州市の現若松区生まれ、松本は現小倉北区生まれ(松本は広島生まれ説もある)。

火野が「糞尿譚」で芥川賞をとったのが戦中(昭和13年)、松本が「或る「小倉日記」伝」でとったのが戦後しばらくしてから(昭和28年)なので、二人は世代が違うように思われるが、実際には2歳しか違わない(戸籍上はそうだが、火野の生年は本当は1906年とされるから、実際は3歳違い)。


火野葦平


松本清張



以前、火野葦平と太宰治(1909‐1948)が同世代であり、同じころに左翼思想にかぶれたと書いたが、松本清張も同時期(昭和2年ごろ)に「アカ」の嫌疑をかけられている。


1929年3月、仲間がプロレタリア文芸雑誌を購読していたため、「アカの容疑」で小倉刑務所に約2週間留置された。釈放時には、父によって蔵書が燃やされ、読書を禁じられた。(wikipedia「松本清張」)


つまり、火野、太宰、松本は、同世代である。

芥川賞に落選した者(太宰)がいちばん早く自殺し(38歳)、早くに芥川賞を受賞した者(火野)が次に自殺し(53歳)、遅く芥川賞を受賞した者(松本)がいちばん長く生きた(82歳)。


火野と松本の往復書簡


火野葦平は1960(昭和35)年に自殺する。

自殺の理由の一つに、松本清張の登場によって、九州文壇のボスの地位があやうくなったから、というのを挙げる人がいた。

火野と松本の仲は、実際どうだったのか。


戦中に「兵隊作家」として人気だった火野は、戦後「戦犯」疑いで公職追放され、1950年に復帰する。

火野が復帰した翌年の1951年、松本清張は「西郷札」で直木賞候補となった。そして2年後、上記のとおり芥川賞を受賞する。


2014年、北九州市立松本清張記念館で、火野葦平と松本清張の往復書簡が公開された。

ネットに、その展示を見た人の記録があった。


清張と葦平の手紙のやりとりですが、清張が「或る『小倉日記』伝」で芥川賞を取った後に行われたものです (1953年、昭和28年)。同郷で芥川賞受賞の先輩でもある葦平が、賞にしばられずに伸び伸び書くように清張を激励しています。これに対して清張は「気持ちは救われました」「解放された心の自由さを覚えます」などと感謝の意を表しています。どちらも自筆の手紙で、私たちと同じ北九州の地で暮らした二人の作家が一段と身近に感じられました。


その展示を報じる朝日新聞2014年1月18日記事は、


記念館によると、松本清張はこの数年前から、すでに火野葦平に小説の原稿を見てもらうなど交流があった。


としている。

ということは、火野の公職追放解除と同時くらいから、二人は交流があった。おそらく松本の「西郷札」が直木賞候補になるあたりではないか。

火野は手紙の中で「直木賞なら当然と思った」と書いているから、火野にとって、松本の芥川賞受賞は意外だったのかもしれない。

しかし、いまから振り返れば、火野も松本も、芥川賞作家でありながら、どちらも大衆小説向きで、資質が似ていた。


人気の逆転


火野葦平は、戦中は芥川賞選考委員、かつ日本文学報国会の九州リーダーだったが、戦後も「九州文壇の大統領」(佐藤春夫)として君臨していた。

松本としても、作家を志すいじょう、火野に仁義をとおし、「お世話になる」のは、当たり前だったかもしれない。


松本清張が芥川賞をとった1953年、火野葦平の「花と龍」(読売新聞連載)がベストセラーになり、火野の完全復活を印象づけた。

いっぽう、芥川賞をとったとはいえ、松本は新人作家にすぎない。芥川賞自体、石原慎太郎の「太陽の季節」(1956年)以前は地味なイベントで、かつ松本の受賞作も地味であった。

火野は、文壇の先輩、実力者であるとともに、売れっ子作家として、新人・松本清張を圧倒していた。


しかし、松本は1955年から推理小説を書き始め、1957年の「点と線」が大ヒットする。

それを境に、「文運」は松本に傾いた。

その後の「松本清張ブーム」はご承知のとおりだ。

火野は、それをどう眺めていたか。


疎遠な仲


1957年に出版された、火野の『河童曼荼羅』という豪華本がある。

火野の戦前からの「河童もの」を集め、限定1200部で発行された。

その出版にさいし、火野は、知り合いの作家や著名人に寄稿や河童のカットを依頼し、それらが本のあちこちにちりばめられている。

協力したのは、折口信夫、武者小路実篤、佐藤春夫、小林秀雄らの大御所から、宮城まり子、高峰秀子らの当時はまだ若いタレントまで、50数名におよび、壮観である。


『河童曼荼羅』(四季社)の目次の一部。葦平の各作品に、著名人がカットを描いている


劉寒吉など、九州の文学仲間も多く寄稿している。つまり、火野と当時親しかった文人が集大成されているといってよい。この時点で火野がまだ「九州文壇のボス」であるのがわかる。

福岡市出身の「第一次戦後派」代表格、1955年に直木賞をとった梅崎春生の名前もある。

しかし、交流があったならば、当然そこにあるべき松本清張の名前はない。


日本共産党との関係


火野と松本はあまり親しくなれなかっただろう、とわたしが思うのは、政治的指向があまりに違うからだ。

とくに、日本共産党にたいする態度が正反対である。


終戦直後の昭和20年12月12日、日本共産党の機関紙「アカハタ」は、「戦争犯罪人名簿」と題した記事に、火野の名前を挙げた。

それが、火野が戦後「戦犯」あつかいされるきっかけとなった。

火野葦平の研究者である増田周子が以下のように書いている。


戦後に、火野は共産党批判をすることが多い。火野は後に次のような言葉を残している。

 文化戦犯第一号というのが、「アカハタ」に出た直後 CIA が来てね、若松の家に、僕は引き籠って、文学はもうやれまいと思っておったし、そうして逮捕されてもいいと思って、身辺の整理して待っていたんだ。そうしたら僕らみたいな小物を相手にしないのか、なんか知らんけれども、逮捕には来なかったですが、二、三回調査に来た。
 
戦争中、軍の命令にも逆らえず、ただ従軍作家として火野葦平は、任務を遂行していた。いわば、真直ぐで真面目な人間であったのである。そのことが仇になり、価値観が百八十度変った敗戦後は、左翼主義者に糾弾され、苦しめられることになった。戦時中は、ベストセラー作家で英雄扱い、敗戦後はいきなり、「文化戦犯」呼ばわりで、かなり火野も煩悶したであろう。

(増田周子「火野葦平『取りかえばや物語』論」東アジア文化交渉研究第5号)


いっぽうの松本清張は、日本共産党シンパであり、共産党お気に入りの作家であった。

2022年、松本清張没後30年で、「赤旗」は彼を以下のようにたたえた。


(松本清張は)選挙では日本共産党を応援し、1970年代、80年代は国政選挙のたびに党のビラに顔写真入りで期待を寄せてくれました。80年の衆参同時選挙ではビラにこんな談話を▼「私が共産党の人たちに求めるのは、いつまでも清潔さを失わず、誠実に庶民の立場をつらぬくこと、明るく、ロマンチズムを忘れぬことである。現実を重視するのはもちろん大切だが、ロマンのない人では未来を語ることができないからだ。大いに期待している」
(「しんぶん赤旗」2022年8月4日)


上述のとおり、火野と松本は若いころ、同時期に左翼の洗礼を受けている。

その後、火野は転向した。しかも、左翼から転向し、そのあと右翼からも転向した、という話は、以前書いた。

松本には、そうした転向の負い目がなかった。

転向者VS不転向者

戦後は、戦争協力者がおとしめられ、戦争非協力者がたたえられる。左翼不転向者が倫理的優位に立った時代だった。


死の前年の「小説帝銀事件」


こうした松本清張の共産党びいき、左翼志向が、作品のうえで鮮明になったのは、1959年に文藝春秋に連載された「小説帝銀事件」だったといわれている。

この「小説帝銀事件」は、「日本の黒い霧」に発展する松本の陰謀史観の嚆矢であり、現在に続く「文春ジャーナリズム」の原点ともいわれる(wikipedia「日本の黒い霧」)。

それは、ひとことでいえば、日本の権力はたえず暗い陰謀をたくらんでいる、という見方であり、渡部昇一のいう「日本暗黒史観」である。


清張氏が日本共産党のシンパであったことは、よく知られている。戦前、共産主義者たちは、モスクワのコミンテルン本部からの指示で天皇制廃止、私有財産制度転覆などの活動を行ったため、治安維持法による取締りの対象となった。彼らにすれば、国家権力による弾圧が行われた「暗黒時代」ということになり、これに左翼的文化人が同調したのがいわゆる暗黒史観だ。


松本の「小説帝銀事件」は大反響となり、その年の文春読者賞をとった。

火野葦平は、当然、それを読んだだろう。

「小説帝銀事件」が文壇のみならず世間の共感を呼んだのを見て、火野は、自分が決定的に時代遅れになったことを悟っただろう。

戦中、日本の戦争遂行に協力した自分は、「暗黒」側に分類されたことを、火野は自覚したと思う。

自分の味方であるべき、芥川賞の勧進元である文藝春秋が、このように左傾したのも、少なからずショックだったはずだ。

(実際、現在も、文春のみならず、朝日・毎日など主流メディアの基本は、この「反権力」の暗黒史観である。)


火野は、おりしも、「中央公論」に、自分の戦争責任を釈明する小説「革命前後」を執筆中だった。

だが、出版文化と世論の転換を感じ、いかなる釈明も無駄だと分かったのではないか。

松本清張の時代が来て、自分の時代は終わった、と。

そして、翌1960年1月、自殺した。


(遺書)
「死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるしください、さようなら」



現在、「松本清張記念館」が小倉北区城内にある。地下1階、地上2階建て、カフェもある立派な建物で、企画展示も活発だ。

いっぽう、「火野葦平資料館」は、若松市民会館の片隅にひっそりと存在する。



<参考>


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