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「絶望」から始まったサブカル 栗本薫と唐沢俊一

唐沢俊一さんが9月24日に亡くなったことで、「サブカル」に関して、新たな議論が起こりました。

とくに反響が大きかったのは、こんなXのポストでした。

唐沢俊一とかいう世代内でも最低レベルのカスみたいな人物を取り上げてこういうこと言うのもアンフェアかもしらんけども、いわゆる「80年代サブカル」が日本の戦後文化史上最も無価値なだけでなく、社会にとっての大きな害悪であったという歴史的評価については今後もしっかり共有していきたいですね。


この投稿は「炎上」気味となり、サブカルの「価値」をめぐる議論はもちろん、その歴史についても、

「唐沢俊一はどちらかというと90年代以降の人だと思うよ。」

とか、

「80年代といってもプラザ合意前と後のいわゆるバブル期では全く違う時代ですよ」

とか、

「1980年代サブカルは、私の好きなイカ天・ナゴム・アスキー系雑誌・ゲーム・宝島などがサブカル系だったので、みうらじゅんとかカーツ佐藤とかいとうせいこうの世代です。唐沢俊一や村崎百郎とか「鬼畜系」のサブカルは1990年代末期のniftyとかロフトプラスワンの世代と思われるので混同はやめてね。」

とか、異論が続出していました。

まとめサイト↓

京大のアニメ批評サークルが唐沢俊一を引用し「80年代サブカルは日本の戦後文化史上、最も無価値であり、社会にとって大きな害悪であった」との発言に対する反応まとめ(※賛否の否寄り)(togetter 2024/10/3)


それらを読みながら、私も、サブカルというものについて、いろいろ思い出していました。

1960年代に生まれた私は、サブカルの勃興を、最初から見ているはずです。

それはいつから始まったのか?

改めて考えて、一つの解答を得ました。

それについて書かせていただきます。


栗本薫に嫉妬した唐沢俊一


サブカルの起源について、私に気づかせてくれたのは、推理作家・芦辺拓さんの一連のポストでした。

私は芦辺さんの本格もののファンですが、彼の唐沢俊一についての投稿は、同い年(1958年生まれ)ならではの、唐沢さんへの「情」を感じさせるものでした。

その芦辺さんのポストに、こんなものがありました。


唐沢俊一氏で印象的なのは栗本薫氏の追悼文で、検証班氏はツッコミを入れていたし、栗本氏に愛憎半ばするらしきファンサイトではボロクソだったが、僕には唐沢氏の言葉が腑に落ちた。文芸メディアに居場所を見つけてはしゃぎまくる彼女が、たった5歳下ながら世に出るすべもない若者からどう見えたか。


座談会では「あたしね! あたしね!」と発言しまくり、あとがきなど、あらゆる機会をとらえて自分が小説の申し子であることをアピールする姿は、相当に僕らをみじめにした。その当時の鬱屈と羨望をとらえた文章だったように記憶している。


私は、唐沢俊一さんの「栗本薫への思い」というものを知りませんでした。

芦辺さんのいう「栗本薫追悼文」は、栗本の死(2009年5月26日)の翌日、日記に書かれた、以下のものではないかと思われます。


栗本薫死去の報、26日、すい臓ガン。56歳。
もっと生きていて欲しい人だった。
……と言っても、その意味は通常のそれとは少し違う。
もちろん、人の死を願うものではないが、癌との闘病の情報が耳に入って、ある種の予期はしていた。
生きていて欲しかったというのは、彼女の死により、私は“あの頃”の自分と向き合わねばならないからである。
彼女がデビューした頃の自分と。
せめて、もう十年か十五年、それは先延ばししたかった。
私にとり彼女を語ることは私のSFや小説や評論や“文筆業”として立っていくことや何やかやに対する、全てのコンプレックスを語ることに通じる。
(中略)

自分の中の中島梓への嫌悪感の由って来るところがジェラシーであること、それは確実であった。
いや、私以外の人にもそういう人は多かったのではないか。
在学中から評論・創作活動で注目され、卒業論文を恩師に激賞されて文壇デビュー。やつぎばやに群像新人文学賞、江戸川乱歩賞、吉川英治賞等を受賞して一躍時の人となり、音楽に演劇にラジオDJにと進出、マスコミの寵児となる……といった、ある意味若い作家志望者があこがれるパターン、下手をすると妄想と言われかねないほどの理想のパターンをここまで現実化した人も滅多になく、いよいよそういう奴が同世代から出てきたか、と、実は背中に冷汗がつたうような思いをした人は多かったはずだ。
(中略)

彼女の出現は、あきらかに当時の文壇を大きく変えただけの衝撃があった。文壇に、ほぼ初めて、サブカルチャーを堂々と持ち込んだ人でもあった。
今、私含め、サブカルと文壇の間をうろちょろしているような人間は、全てがあのとき彼女が切り開いた地で生計を営んでいる、といって過言ではない。
死去の報を見て驚いた。56才。5つも離れていたのか。同年齢か、離れても2つ3つだとばかり思っていた。
それだけ当時の私が背伸びしていたということなのだろう。
またひとつ、青春の思い出だった存在がこの世を去った。


唐沢さんや芦辺さんが、栗本薫に嫉妬していたなんて。

栗本薫が「僕たちをみじめにした」(芦辺)というのは、私には意外でした。


私は編集者時代、残念ながら唐沢さんとも、芦辺さんとも、直接の付き合いがありませんでしたが、栗本薫さんとは、少し付き合いがありました。

私も、栗本さんの八面六臂の活躍を見ていましたが、その少し下の世代から「若い作家志望者があこがれる理想のパターン」(唐沢)と思われていたとは、想像外でした。


というのも、栗本さんの出発点については、ある了解があったからです。

「彼女は、大作家になることを、最初から諦めている」

という。

私には、彼女の華やかな「タレント活動」は、その諦めの代償のように思えていました。


出発点としての「文学の輪郭」


栗本薫のデビュー作は、「中島梓」名で書いた評論「文学の輪郭」(1977)で、これは彼女の早稲田大学文学部の卒論「想像力の構造」(1975)を発展させたものです。

「文学の輪郭」は1977年の「群像」新人評論部門を受賞し、その翌年から「栗本薫」名で小説を発表し始めます。


私は、単行本になった『文学の輪郭』(1978)を、高校生の時に読みました。(今もそれは私の書棚にあります)

そして、栗本の言いたいことが、非常によくわかったんですね。


そこには、

「われわれは、もう『大文学』も『大傑作』も書けないのではないか」

という諦めと絶望がありました。

それが、彼女の出発点です。


私たちの立っているところは、「絶望」という砂地の上である。それは、応えない「絶対性」への絶望だ。また、何億分の一である自らの、他の存在にはたらきかけようとすることの無力さへの絶望だ。そしてまた、それは、そこにとどまり、そこを自らの時代と呼ばなければならない絶望である。

実際、現在だれが、自らの価値観を信じることができるだろう。私たちはあらゆる思想と宗教と、単なる生活信条のたぐいまでとり揃えるが、そのどれを選ぶというだけが私たちに可能な「行動」であるというのに、一体どうして私たちが、幸福な狂気や盲目や偽装によることなしに、その自らの選択は、「唯一の絶対性」への委託であり献身である、というような幻影で目をふさぐことができるだろう。

いま熱心で真面目な読者のだれが、印刷され、全国に溢れているベスト・セラーズのなかに、奇蹟を予知してそれを買い求めるだろう。それは思想や宗教の選択よりずっとお手軽な、一刻の色彩の選択にすぎない。また編集者や批評家のだれが、新しい巨人と、ドストエフスキーと、若きニーチェと出会うことを期待して本を手にとるだろう。

『文学の輪郭』p11


いま振り返ると、この「文学の輪郭」は、栗本の出発点というのみならず、日本のサブカルの出発点と見ていいのではないでしょうか。

もう「ドストエフスキー」とか「ニーチェ」のようなものは、出てこないのだ、という。

能力・才能の点で「書けない」というより、そいうものが「出てこない」時代になったのだ、という認識。そういう時代になったから、「書けない」という諦め。

そういう、意識的な「ハイカルチャー」との訣別、そういう(本来は)苦い認識が、「サブカル」の出発点にあったのではないでしょうか。


その「絶望」の上に立っている、という前提で、私は栗本さんの仕事を見ていました。

だから、唐沢さんや芦辺さんの「嫉妬」が意外でした。

「絶望」から発した栗本さんの仕事を見て、「栗本さんのようにはなれない」という「絶望」から唐沢さんの仕事が始まったとすれば、何か皮肉な感じがします。


栗本さんは、創作の上で「やおい」や「BL」の先駆者で、そういう意味でも「サブカルの祖」であります。

唐沢さんの栗本さんへの評価は、より大きなものでした。再度、上記の「日記」から引用するとーー


彼女の出現は、あきらかに当時の文壇を大きく変えただけの衝撃があった。文壇に、ほぼ初めて、サブカルチャーを堂々と持ち込んだ人でもあった。

今、私含め、サブカルと文壇の間をうろちょろしているような人間は、全てがあのとき彼女が切り開いた地で生計を営んでいる、といって過言ではない。


しかし、栗本薫は、もう少し根本的な、文学的な、哲学的な認識の上で、「サブカルの祖」と位置づけられると思います。

唐沢さんの死と、それに対する芦辺さんの反応から、サブカルの起源について、以上のような私の再発見に至りました。

サブカルは、1970年代の栗本の「絶望」から始まったのだ、と。


栗本薫の闇


なお、唐沢さんは、栗本薫の「凋落」についても、以下のように書いています。


彼女の才気のきらめきは、まさに“急激に”衰えはじめ、彼女の周辺には彼女を女王とも女神とも讚える熱烈なファンたちだけが彼女をかばうように壁を作り、真実の姿を見せなくなった。ときおり目にする彼女の文章は、目を覆いたくなるほどの劣化を見せていた。
(唐沢 同上)


それについては、彼女の病気、借金、差別問題のトラブルなど、さまざまな背後の事情があるでしょう。

栗本薫には、3歳のときに日本脳炎のために意識もないままに寝たきりとなった弟がおり、その弟への痛苦の意識と、その弟を介護するお手伝いさんとの確執が、彼女の人生の「裏テーマ」として存在しました。

彼女はそのテーマを「物語」にできなかった。その反動として、たぐい稀な物語作家になった、ということもできます。

一見、華やかな彼女の活躍には、重い「裏面」があります。その全体像と、膨大な仕事の評価は、だれか別の人に任せるしかありません。


50年後の検証


栗本薫への現在の評価はともかく、彼女が約50年前に「文学の輪郭」で述べたことは、正しかったのではないでしょうか。

やはり「ドストエフスキー」や「ニーチェ」は、生まれなかったのではないでしょうか。


なるほど出版界やマスコミは、毎年のように傑作や名作が生まれているように宣伝する。そうして煽られた期待感から、人びとは、たとえば(いまさら)「百年の孤独」に殺到するのかもしれません。

しかし、私のこの間の印象を率直にいえば、絶え間ない「一時の流行」があるだけで、「ドストエフスキー」「ニーチェ」のように定着するものはありませんでした。


いっぽう、サブカル業界は隆盛で、いまや日本を代表する産業、文化資産になっています。

では、サブカルがハイカルチャーに取って替わったかといえば、そういうことでもないと思います。


話は変わりますが、同時代人としていえば、私は栗本薫と浅田彰は似ていると思います。

どちらも、若い時にきらびやかな才能を見せながら、本当の「傑作」を残せなかった。

栗本は多作で、浅田は寡作でしたが、どちらも同じような「絶望」が出発点にあったと感じます。

このテーマは、またおいおい書いていこうと思います。


今回、調べていて、栗本薫さんの夫だった今岡清さんがまだご存命で(失礼!)、さかんにSNSで発信していることを知りました。

今岡さんは、9月20日の福田和也さんの死にさいして、福田と栗本薫の縁を書いていました。


文芸評論家の福田和也氏が9月20日亡くなられた。1992年に早川書房を退社してか出版界から離れ文芸書を読むこともなくなっていた私はこの方について殆ど知ることはない。しかし「作家の値打ち」という本で福田氏が栗本薫のグイン・サーガを高く評価していると奥さんが喜んでいたことを訃報を知って思い出した。


残念ながら、唐沢俊一さんの死についての言及はありません。



<参考>


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