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学歴の曖昧さ 小池百合子と岸田秀

きょう発売の文藝春秋が、また小池百合子の学歴詐称問題を蒸し返している。エジプトのカイロ大学卒業は嘘ではないか、という例の疑惑だ。


小池百合子都知事 元側近の爆弾告発 「私は学歴詐称工作に加担してしまった」


この件で、私は岸田秀の「学歴詐称」騒ぎを思い出した。



岸田を、今の人は知らないかもしれないが、和光大学教授で、1980年代にたいへん有名な心理学者だった。


フロイトの精神分析をもとに、「すべては幻想だ」という唯幻論を説いた。『ものぐさ精神分析』というベストセラーで知られていた。

立川談志や伊丹十三が「師」とあおいだ人だ。談志は「岸田秀と小室直樹だけ読めば世界がわかる」みたいなことを言っていた。

ポストモダンブームの当時、柄谷行人などと並び称された「思想家」だった。


彼は「ものぐさ」を自認し、学界には属さず、学術論文も書かなかったが、「現代思想」や「ユリイカ」の常連だった。

彼の権威をささえていたのは、早稲田の大学院を出たあと、フランスのストラスブール大学で博士号とったという経歴だった。

語学がよく出来たのは本当で、マスコミで知られる前から英・仏・独の翻訳書があったが、訳者紹介では精神分析の「ph.D(哲学博士)」だと記されていた。



だが、この「博士号」は嘘だった。

本人は「取ったつもり」だったが、1990年代の中ごろ、当時の文部省の調べで、その事実がないことが発覚した。


岸田自身が信じられなかったようで、ストラスブール大学まで「博士号を探しに行く」記事を読んだことがある。

でも、岸田自身が調べても、やはり博士号を取ってはいなかった。


その後の著書では、こう説明していた。

「(フランスの大学に提出した“博士論文”は) 指導教授の口頭審査で合格の判定を受けたので Doctorat du Troisieme Cycle の学位を得たと思っていたところ、 指導教授が届けるのを忘れたのか、ストラスブール大学にはそのようなことは記録されていないらしい」
(『二十世紀を精神分析する』1996)


当時、私は、

「そんなことがありうるのだろうか」

と思ったものだ。

学位は、もっとちゃんとしたものだと思っていた。なにか証明書のような「形」で残るものだろう。

それに、曲がりなりにも大学教授なのだから、就職のさいに大学側が確認しないのだろうか、とも思った。



小池百合子は博士号ではなく、大学を卒業したかどうかの「学士号」をめぐって争われているが、学歴詐称疑惑という点では同じだ。

不思議なことに、当時は有名学者であったにもかかわらず、この岸田の「学歴詐称」は、あまり大きなスキャンダルにならなかった。


小池百合子の学歴については、文春はご執心だが、岸田のときは騒がなかった。

岸田は文春からもたくさん本を出していた。だから「著者タブー」が働いたのかもしれない。

和光大学をクビになることもなく、2000年代の初めに定年退職したあとは、ちゃんと「名誉教授」になっていた。(まだ存命である)


世の権威は「すべて幻想」というのが彼の主張だったから、博士号があろうがなかろうが、彼自身の考えに基づいて「関係ない」ということだったのだろうか。

でも、彼自身がその権威を利用していたのは事実だ。

それに、彼のフランス留学はたしか国費留学だった。本人に責任がないわけはないだろう。



だが、たしかに岸田は、善意の「学歴詐称」であった可能性が高いと思う。

つまり、本人に騙す意図はなかった。

むしろ、大学側に問題があった可能性が高いのではないか。


当時の海外の大学は、外国からの留学生のあつかいに、いい加減なところがあったのかもしれない。

いや、いまの日本の大学だって、最近は経営的理由から、多くの留学生を(とくにアジアや第三世界から)受け入れている。

うちの近所の「日本映画大学」なんて、学生の4割は留学生、そのほとんどが中国人だ。


日本映画大学がそうだと言いたいわけではないが、なかには、留学生をいい加減にあつかったところもあったかもしれない。

「どうせ留学という実績づくりで来ているだけだから」と。


たしかに、私の世代の、昔の感覚だと、「学位」よりも、「海外留学」そのものが珍しかったから、それだけで感心されたところがある。

人びとは、留学という「体験」を尊敬したのであり、学位という「学業成績」への関心は薄かった。


本人も、大学側も、留学中の「学位」をまじめに考えていないならば、お互い適当な認識で済ませ、曖昧なまま留学期間が終わったのかもしれない。

グローバル化以前、外国は遠かった。外国の大学に、本国から「学位を取ったか」と問い合わせが来るなんてことは、想定していなかっただろう。留学期間が終われば、二度と会わない前提だったろう。


いまは「学位」にたいする認識は変わった。

でも小池の例は昔の話であり、岸田の場合と同じ、

「本人は卒業したと思っていたが、大学の方がいい加減で、ちゃんとした手続きをしていなかった」

のではないか、と思う。



だが、岸田は少なくとも、博士号がないことが確認されたら、その点についてはいさぎよく認めた。

小池は、引っ込みがつかなくなって、嘘に嘘を重ねた疑惑がある。


岸田のとき、彼を批判する声は、博士号をもっている学者のなかで大きかったように感じた。

小池の学歴疑惑についても、同じアラビア語分野で、東大で博士号をとった日本保守党の飯山陽の追及が厳しい。


しかし、一般人は、いまだって学位そのもののありがたみは、あまりよくわからない。

医師免状のようなものは別として、テレビに出ている評論家や学者が「学位」をもっているかなど、気にすることはないだろう。本を読むときも、著者の学位を気にする人は、そんなにおるまい。


それに、これからキャリアを築く人にとっては学歴は重要でも、すでにキャリアのある人に、改めて学歴を問題にする意味は薄い。

もちろん学歴詐称は公職選挙法違反だが、時効は3年なので、かりに経歴に嘘があっても、4年前に都知事に当選した小池を罪に問えないと言われている。


一般人は、嘘は嫌いだ。

だが学位は、「そんなものは幻想だ」と言われれば、そうかもしれないと思う程度のものなのかもしれない。

小池が次の選挙に出ないのであれば、彼女の学歴疑惑は、今回も曖昧なまま終わるだろう。



<参考>


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