【書評】産声と歌声—『Immoral Baby₋Pink Trap』によせて―
※本稿は、音羽さんの1st歌集『Immoral Baby₋Pink Trap』に対する書評であり、とくに注記がない場合はすべて、この歌集からの引用です。
1.序文:あくまで不道徳な自分語り
中学2-3年生のときの担任の先生は、道徳の授業に力を入れる人だった。自分で用意した豊富な資料やテキストを活用しながら展開されるその授業で、僕たちは〈道徳〉について旺盛に議論させられた。僕はその先生と個人的に折り合いが悪かったけれど、その授業に対する熱意・愛情は受け取っていたから、比較的真面目に指導を受けていた。そのせいか、いつからか、僕は先生に〈哲学者〉というあだ名をつけられて、道徳の授業の最後にかならず意見を聞かれて、総括のようなことをさせられるようになった。
当時から僕はひどくひねくれている上に無駄に語彙力だけはあったため、毎回それっぽい意見をまとめて発表していた。それは授業の内容を空虚な修辞で纏め上げただけのものであったり、逆にまるごと否定するようなものであったりした。先生はそのたびに、満足しているようなしていないような、そんな顔で頷いていた。
別に僕が道徳的で規範的な生徒だったわけではないし、先生がそう勘違いしていたわけでもなかったと思う(その先生とはたびたび揉めていたから)。むしろ、僕が〈道徳〉に関して何の臆面もなく空虚な言葉を並び立てることができたのは、僕が〈道徳〉に余りに無関心であり、それをまるで異世界の決まりごとのように捉えていたからではなかったか。そしてふと、この頃のことを思い返すとき、先生は僕のそんな不道徳な側面を見抜いていて、敢えて僕に〈哲学者〉というあだ名を付けたのではないか、と思えてくることがある。
2.世界の〈転覆〉—道徳と言語―
法律は外部から、道徳は内部からわれわれを縛るものである。この「外部/内部」の束縛から逃れようとするとき、選択肢は二つに絞られる。すなわち「世界=外部」を変えるか、「わたし=内部」を変えるかである。これは古くから繰り返し文学や哲学の主題にされてきた問題であり、代表例は三島由紀夫『金閣寺』における〈行為〉か〈認識〉かの対立である。『金閣寺』では最後、金閣を燃やすという〈行為〉によって、「生きようと思った」という〈認識〉の変化が導出される。そして、作者の三島もまた(『金閣寺』とは正反対であるが)、クーデターという行為によって「世界」を変えようとし、その失敗の末に自殺によって「わたし」を変えた。正直なところ、歴史上「わたし」は「世界」に対して必敗である。
ウィトゲンシュタインの思考を下敷きにすると、言語は常に環境に依存している。周りがそう使っているからそう使うのであり、決定的な根拠を持たない記号が言語である。そしてその言語により導き出されるのが思考であり道徳であり、道徳もまた、周りがそうしているからそうした方がいい、という程度のものでしかない。
道徳は思考に支配されていて、思考は言語に支配されていて、言語は環境に支配されている。環境とは広義の〈他者〉であり、僕たちは常に他者に支配されている。
だからこそ、逆に、言語によって道徳を〈転覆〉させることができる、と思う。その役割を担ってくれているのが、一部の現代詩や詩歌ではないか。こういう回路から、僕は現状世界に追認的な共感性の高い詩を好まず、まだ見ぬ世界を志向(思考)している、〈転覆〉の意思が見て取れる詩を好む。そして、この歌集には、そんな歌ばかりが集められている。
バナナはバナナで、花火は花火であることの根拠は、みんながそう呼んでいるからに過ぎない。別に〈バナナ〉と〈花火〉は交換可能である。プールに対して〈ビーチ〉ではなく〈ピーチ〉が召喚されるのも、直感に反している。
人名に関してはもっとも言語の記号性が顕著であり、深津絵里が〈深津絵里〉であり、蒼井優が〈蒼井優〉であることにも、もちろん何の根拠もない。みんなが呼んでいる(あるいは本人が自称している)からそう認識しているに過ぎない。そして実際、深津絵里は本名で蒼井優は芸名であるが、その差異は僕らにとってどうでもいい。
このようにして、環境に依存している規範的で道徳的な言語をそこから逸脱・脱臼させることで、自分自身も規範的で道徳的な存在ではなくなり、そこを起点に規範的で道徳的な〈世界〉が転覆する、可能性がある。しかも、その思考回路が作品として結晶することで、少なからず他者に影響を与えることもできる。
天動説から地動説への移行は、まさに世界の転覆であった。地球が宇宙の中心的存在ではなくて、太陽の周縁を巡る一惑星に過ぎないという事実は、すぐには人々に受け入れられなかっただろう。
だが、詩の中では天動説を信じ続けていられる、地球が宇宙の中心にある世界を構築できる。そこでは、誰が誰のために詠んだのかもわからない恋歌がきらきらと空から降り、その想いは結晶としてながくながく残る。
3.サド的理性について―所有すること/されること―
この歌集でトップレベルに好きな歌である。「非あの世」とは、これまで書いてきた〈転覆された世界〉に近い概念だと思う。そこで〈彼〉も〈私〉も〈君〉に所有されていて、彼らはその後ずっとずっと幸せに暮らしましたとさ。美しくも恐ろしい一首である。この章では〈所有〉ということを考える。
音羽さんはDom/sub(主従)の関係を公表しており、歌集の末尾にある「Outro」と題された文章でそのことに触れている。
この一文はこの歌集を読む上でかなり重要になる象徴的な表現だと思う。美しく狂っている、というのはこの歌集を貫いている主題であると、強く感じる。そして、僕はここで「サド的理性」のことを想起する。
僕の好きな小説家・西尾維新に関する論考からの引用であるが、彼の小説の登場人物たちもまた、美しく、そして理性的に狂っている。ここでは、『戯言シリーズ』と呼ばれる小説群の「ぼく」(=いーちゃん)はヒロインである玖渚友に〈所有されている〉という記述から、この「サド的理性」が所有の分析に当てはめられる。
〈常識的にいえば、所有されるのはモノであって、人ではない。〉しかし、この歌集はタイトルで既にインモラル(=不道徳=非常識)であることを宣言し終えている。この章の最初に引用した掲歌では、はっきりと〈彼〉と〈私〉を〈物〉だと書いている。
そして、このように〈社会の事実上の標準〉から外れつつ、理性的でありながら狂ってしまうことこそ、前章で見た「世界」VS「わたし」における「わたし」の必敗を防ぎ、不戦勝へと持ち込む唯一にして最強の方法ではないか、と思う。
社会における自己の存在規定の手続きに必要な諸々のこと。性別や血の繋がりや家族関係。われわれがわれわれであることを他者との関係性から手続き上証明するための書類の空欄に、サブミッシブ(従者)と書けばいい、と彼女は囁く。
また、フーコーは『狂気の歴史』で、理性は「狂気を所有することによってしかそれ自体として存在しない」のであり、理性は「自分との無媒介な自己同一性」によっては自己を規定できないとする。つまり、自らの中に他者(=違和=狂気)を取り込み、所有することでしか自己規定ができないのである。サド的理性においても、カントの根本原理である「自分と他人を完全に等しく扱え」を踏まえたとき、自と他の境界線は限りなく曖昧になる。よって、掲歌のように〈続柄〉や〈性別〉という横方向の関係値はほとんど等閑に付されて、〈所有/被所有〉という縦方向の関係値が現前化する。そして、自と他の境が希釈され、「有無をいわさず他者と自己を身体的に関与させてい」った結果、〈彼〉も〈私〉も〈僕〉も〈貴女〉も横断可能な、それでいて自己同一性を担保した存在へと変貌してゆく。
4.産声で歌う―意味からの脱却―
彼女は、産声のように歌う。環境に、道徳に、思考に、言語に汚染されていない、純粋で妖しい歌声。意味や文脈から完全に逸脱・脱臼した喃語を見事に扱い、真っ裸の祝詞を歌い上げる。
嬰児にとっては、世界は違和に満ちた異世界のように感じられるだろう。
千葉がここで「第二の自分」や「玩具」というタームを使ったことは、僕が感じた「産声」という感覚と非常に密接に響き合っていると思う。
大袈裟に言えば、詩で人は生まれ変わることができる。
赤裸々に変身し、新たに自分の世界の言語を習得していくことで、新しい思考、新しい道徳をつくりだすことができる。
僕は二首目の〈ラ・プリマヴェーラ〉をボッティチェリの『春(プリマヴェーラ)』の意で取りたい。
力ずくでゼピュロスのものにされることで、クローリスは花の女神フローラへと姿を変え、「これ以来、世界は様々な色彩であふれるようになった」のである。これは、前章で見た〈所有〉に繋がりはしないだろうか。所有されることで初めて、自分本来の姿へと変身をして、その世界には色彩が溢れる……。この歌集にも色彩が満ちている。それは諸所に鏤められたデザインや装飾もそうであるし、歌の中にもまた然りである。この歌集を読み終える頃には、鮮やかなピンク色に染まった異世界に、あなたは迷い込むことになるだろう。
5.跋文:美しく狂った聖典
今回、歌集『Immoral Baby₋Pink Trap』を「インモラル」と「所有/被所有」という大きく分けてふたつの観点から論じてみた。どちらも煎じ詰めれば「世間の価値基準から離れてみる」ことであり、それは僕が個人的に詩全般に求めているものと通じていた。だが、思えば、文学というものの歴史自体が常に〈道徳〉に対するカウンターであり、正しく生きられないものの歴史ではなかったか。
この世の道徳において、マイナスがプラスに変わることはおそらく、いや、決してない。だからこそ詩の中で世界を構築し、生まれ変わるのだ。そこにはマイナスもプラスもなく、そもそも道徳すらないだろう。
共感全盛・エモ全盛のこの時代だからこそ、僕はこの歌集に見られるようなある種の支離滅裂さ、不道徳さを愛したいと思うし、同じように愛してくれる人々がいることを願いたい。
果たして、あなたはこの歌集を所有することができるだろうか。常識的にいえば、所有されるのはモノであって、人ではない。けれど。一体何が理性で何か道徳なのか揺らぐとき、この現世界が遠い異世界のように思えてくるとき、あなたは気付けば、逆に、所有されているかもしれない。そしてそれこそが、作者がこの美しく狂っている聖典に仕掛けた〈罠〉なのではないか、と僕には思えて仕方がない。