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好きな短歌3首についてvol.1

この記事では、好きな短歌3首を紹介しつつ、それぞれについて少しずつ自分の解釈や考えを書いてみたいと思います。
これは別に自分のなかのベスト3!というわけでもなくて、最近妙に気になっていたり、気付いたら真似してしまうような歌を集めています。
批評とか歌評にはぜんぜん満たない、感想・鑑賞なのでお手柔らかにお願いします。

毎日が記念日だろう 毎日が命日だろう そう思うろう?

青松輝「弛緩して遅延される」(『ポストシェアハウス 1号』)

僕はもともと青松輝さんの短歌が大好きで、彼をきっかけに短歌を始めたタチです。んで、最近は歌集『4』に所収されていないこういった歌がとても気になってます。
この歌では、短歌で〈良い〉とされているような手法がふんだんに使われています。「毎日」のリフレイン、「ろう」のリフレイン・脚韻、「?」による読者の当事者化。
しかし、これらの〈技術〉はこの短歌を真っ直ぐ良いものとするために用いられているのではなく、むしろ歪曲し、既成の〈秀歌性〉に対して挑発を行うために使われていると僕には感じられます。

「毎日が誰かにとっての記念日で、それと同時に命日だよね」みたいな名言風の台詞ってよく聞くし、ポジティブな面にもネガティブな面にも言及しているから変に否定できなくて個人的にあんまり好きじゃない。でも、普段から詩とかを読まない人って結構これくらいの言葉に胸を打たれたり、座右の銘にしてたりするからびっくりするときもある。
また、短歌で「記念日」といえば『サラダ記念日』で、あれこそ「なんでもない日を特別な記念日に」というポエジーだから、当時の青松氏の頭のなかに『サラダ記念日』が仮想敵としてあった可能性は高いと思う。
上記のポエジーを青松氏が本気で良いと思って書いてるとは思えず、青松氏の定義でいう〈エモい〉ポエジーとして提出されている気がする。つまり、なぞり尽くされて手垢の付きまくった良い表現、みたいなものとして。
そして、その価値観は「そう思うろう?」というダサい問いかけで一気に瓦解する。詩(短歌)をあまり嗜まない人々は「うん、思う!」と思うかもしれない(少々彼らを短絡化しすぎだろうか…)けど、基本的には「ん?」と感じるだろう。これが「そう思うだろ?」であれば、それこそキザな主体像(おそ松さんのカラ松的な)に終始するけれど、あえて「そう思うろう?」とすることで、表面上は肯定しながらもその実、深層では否定する構造になっている。さらにそれが、リフレインや脚韻などの短歌的な〈技術〉の過剰な使用によって行われているのが興味深い。
この歌は、安易な内容を、高度な技術によって否定することで〈エモ〉を〈抒情〉へと変換している点において難解すぎる試みをしているのではないか。

どこか遠くでわたしのメールアドレスが流出しているのを感じてる

鈴木ちはね「失われた時を求めて」

一首目については少し論理っぽい書き振りになりましたが、こっからは感覚的な話ばかりになります。
この歌の内容については、かなり感覚的に分かるというか、最近はもうバレてもいいやみたいなノリで諸々のパスワードを安易なものにしてたりするし、そういう人は案外多いと思う。
また、僕自身、最近Twitterを乗っ取られて、フォロワーさんにスパム的なDMを送ってしまうことがあってめちゃめちゃ焦ったんですが(その節は申し訳ありませんでした)、多くのフォロワーさんが「あれ、乗っ取られちゃいました?」みたいな感じで冷静に対処法を教えてくれて、ネット暦の差を感じました。そういう人たちは、僕なんかよりもっとこの短歌の感覚が分かるんじゃないかな、と思います。
後は、この飄々とした語り口、助詞を省いたり倒置法を用いたりすることなく、完全に散文的につくられた短歌にも興味があって、つい真似しちゃいます。短歌じゃなくて俳句ですが、この前の句会で僕の句について部員から「ここの助詞を省いたら575に収まって良いのに」って指摘があって、そこでも軽い議論になったんですけど、やっぱり助詞を省いて定型に合わしに行くのって定型に敗北した感じがあって僕は極力したくないです。この歌に限らず、最近鈴木さんの短歌にハマってるのはそういう側面の格好良さも関係してると感じます。この歌の入ってる連作は下記のリンクから読めるので、ぜひ。

この街で年を取らずにあたらしいミュージックビデオを撮りましょう

林見年「雷は花に濡れる」(『Authentic Summer Videos』)

最後の一首ですが、なんでここまで惹かれるか一番言語化しづらい歌です。この合同誌自体、タイトルも含め「ビデオ」が強く意識されていて、そのなかの一首ですが、なんでこんなに良いんだろう…。
カタカナ表記も含めた「ミュージックビデオ」の、映画や動画とは違うある種のチープさ(岡崎体育の『MUSIC VIDEO』の影響も大きいと思う)が、「この街」という抽象化されていて閉じられた舞台、「年を取らずに」というモラトリアムの延長的な設定と響き合ってセカイ系的な味わいを出している気がする。
(勝手に本人映像がないカラオケで流れるビデオみたいなものを想像してるんですが、ああいうの見てると僕は結構安心するというか、絶対に発展せずに、過激な展開にもならないからこそ何も考えずに見てられる、みたいな。「年を取らずに」の部分はこの感覚と関係がありそうだと思う。)

それこそ、僕が圧倒的に影響を受けてきたゼロ年代後半~テン年代前半のアニメたちの面影があるというか…。
エヴァではパイロットたちは年を取らないし、世界規模の危機が起きてるのにほぼ第3新東京市から出ない。ハルヒの「エンドレスエイト」をいつまでも見てられて、キョンが解決するときに少し悲しくすらなる感覚。エンジェルビーツでも、登場人物たちは決められた区画の世界で年を取らずに生きて行くことを望むし、そのなかにある8話くらいまでの「日常感」に安心する感じ。
勝手に筆者のカルチャー遍歴に短歌を巻き込んでしまって申し訳ないですが、なんかこういう「セカイ系」と「日常系」のあわいに、僕の性癖があるというか。狭小な世界のなかで、(危機や崩壊の足音は迫っているのに)変わらずに進行する「日常」が好きっていう感覚があって、この歌は自分のそういう癖をくすぐってくれる気がします。
(※追記:この感覚って、共通テスト後の高校の補習期間とかクリアしたゲームのマップをウロウロする感じに似てる気がしてて、最近でいうと『グリッドマン』や『葬送のフリーレン』で摂取しているな、と思い当たった)

これ以上立ち入ると、完全な自分語りになってしまうので、切り上げます。でも、とりあえずこの短歌がとても好きで、ついつい考えてしまいます。
ぜひ、下記のリンクから合同誌を買ってみてください。林見さんの他の短歌や、夢の帷子さんの短歌もとても素敵です。


このくらい軽めの、主観的な短歌鑑賞なら今後もコンスタントに書けると思うので、また投稿していきます!

最後まで読んでいただいてありがとうございます。
それではまた!!

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