田舎のいちばん長い日。本が本屋にないというお話。
※三体のネタバレはないです
ある外国のSF小説の完結篇ということでその発売日を心待ちにしていたのだけど、本というのはどうやらその他のモノたちと違って田舎には一日遅れで届くのが普通らしい。
実は出版業界のいう発売日という言葉は問屋に卸される日のことを指し、実際に店先に本が並ぶ日は各書店の裁量によるものらしいのである。
恐るべき悪習だ。
一刻も早くやめるか、せめて言葉を変えるべきだと思った。
そんな業界の常識も知らずに、仕事帰りに意気揚々と向かった蔦屋で絶望の淵に叩き落された僕による、街中の本屋が閉まるまでの、N県のいちばん長い日が始まった。
ー 1〜3軒目
ケータイの顔文字のように困った顔をした店員が言うには、明日入荷するのは予約した方の分だけで、いまから取り寄せると早くても2〜3日はかかるという。
そもそも店頭には並べないらしい。
そこにおいてある詐欺師まがいの胡散臭いお笑い芸人や、足を広げて骨盤を広げなさいとか言ってる女性や、笑顔でこちらを見つめるアンパンマンよりも価値が低いということだ。
無慈悲な資本主義。
ハードコアやヘヴィメタルに傾倒していた頃の記憶が蘇る。
マイナーなジャンルに居ると徐々に世間の常識とずれてくるが、たまにそのズレを強制的に修正されるうるう年のような事件が、そういえば東京に住んでいた頃でもたしかに起きていた。
いくらヒューゴー賞受賞作、オバマ大統領絶賛と言ったところで、所詮は外国の小説。しかも中国で、SFである。
冷静さを取り戻した僕は、他店舗に電話を掛ける。
みっつのからだと書いて三体というのですが。サンタイ。
それの3(スリー)です。はいサンです。三冊目なんで。
リュウジキンというのですが。はい外国人です。中国人です。
ハヤカワなのですが、いえ、文庫ではなく
はい。はい。そうですか。
そうなんですね。
わかりました。
はい。
ありがとうございます…大統領。
ー 4軒目
近場の蔦屋の全滅を確認したので、別の書店で行くことにした。俺はガンダムで行く。
事前に電話を掛けてもよかったが、良くわかっていないかもしれない店員相手にまた細かく説明したあと、エリーゼの為にを聞くだけで想像上の10円玉が次々と消滅していく罰ゲームにこれ以上付き合うつもりは無いので、大した距離でもないし、さっさと車で見に行ったたほうが得だと判断した。
果たして店には、無かった。
しかし、さすがその書店は声を掛けた瞬間あーあれですねと言った風で判ってくれて、確か明日だったと思うのですがなにせ田舎ですからねと申し訳なさそうにキーボードを叩き、予約は何冊か入っていて、店頭に置く分も余分に来るので明日だったら確実に買えますよと教えてくれた。
念のため取り置きもできますし、入ったら電話もさしあげますとも。
なんて親切なのだろう。
なんてやさしいのだろう。
巨大資本のチェーン店とは違う人間の温かみ。
もうここであきらめてこの人間のあたたかさに甘えてしまっても良かった。
むしろそうしたかった。
ここで眠りたかった。
だが、それじゃあだめなのだ。
実はTポイントが貯まっている。
TSUTAYAならただで買えるのだ。
どんな言い訳をしたところで僕は薄汚い堕落した資本主義の奴隷である。
上下あわせて4,000円は大金だ。労働の対価、すなわち切り売りした僕の人生そのものだ。
だから、それでもなお金を払うなら
今日手に入らないとダメなのだ。
自分のモラル、理性、倫理観と戦い、妙齢の親切な女性に別れを告げ、僕は店外で再びgooglemapに書店と入力した。
自分の律に反することの罪悪感に苛まれながら。
ー 5軒目
この街にはさらにもうひとつ、経営母体の異なる大きな書店チェーンがある。
以前特殊な図鑑を探したときにお世話になったお店で、郊外型パチンコ店並の大型店舗を構えており、蔦屋と違って品揃えは多様だった。
電話を掛けるため地図からタップしようとして、一瞬ためらう。
少し、距離が離れているのだ。
N市の中でもベッドタウンにむかう道。もう18時を廻っている。
帰宅ラッシュに重なる。ラジオで毎日流れる夕方の交通情報を思い出す。
今日買えたとして
今日読み始めなければ
今日買った意味が無くなる。
時間が経てば経つほど、見えざる悪の蔦屋書店が悪魔的に微笑む。角と羽が生えている。
Tポイントは数千円分もあるのだ。今日をあきらめれば2セット買ってもまだ無料だ。
金を払って、苦労して、はたして今日読めるのか。
今日は休んで、無料で手に入れてから、週末にゆっくり読めばいいだろう。
とはいえ蔦屋にも今日予約しなければ2〜3日は確実に3日になってしまう。
明日は水曜日。週末など簡単に来てしまう。
蔦屋に電話を入れるということは、それ以外の未来を捨てるということだ。
もうあきらめて金を選ぶのもよいのかも知れない。
4,000円あれば、ちょっとした贅沢もお酒も買える。
映画みたいにすぐにネット上にネタバレが溢れることも無い。無理して今日読む必要も無い。
メリットとデメリットを天秤に掛ける、思考のループに陥った僕の脳は、止めたはずの煙草を求めていた。
あたりは暗くなっていた。
ー 6軒目(最終章)
N駅前には田舎では珍しくジュンク堂がある。
駐車場代がかかるので(といっても定期圏外の駅に往復で数百円払っていた頃となにが違うのか自分でも理解できないが)目的がなければ余り行くことのないその巨大書店は、近くにN大学のサテライトもあるからか専門書や特殊な品揃えに強い。
少し離れた所に紀伊国屋もあるし、さらに街の中には中堅の専門的な書店がいくつかある。
こんなことでもないと忘れそうになるが、文化的には恵まれているほうだと思う。
これまで仕事で、蔦屋とブックオフしかない地方都市を腐るほど見てきた。
そこではカルチュアコンビニエンスクラブが売れると睨んだ本だけが並び、それは僅か6chしかないテレビから垂れ流される電波達と同じように、その町の人々の知性と文化と生活の多様性を奪う。
最後は、いかにも「トーキョー的」なものの搾りかすだけがただただ寄せては反す、腐った潮溜まりになる。
実際、今まさに目の前で売れる見込みのないSFが入ってこないこと目の当たりにしている。
だから、そんな文化の破壊者、悪の組織を打倒するため。
なかば義務感と使命感の為にジュンク堂に電話を掛けた。
これはもはや僕だけの問題ではない。正義の戦争なのだ。
不正義は打倒されなければならない。
どんなに売れないSFであってもそれを欲している人間がこの街にも確かにいる。
そのことを誰かがアピールしなければならない。
幻ではないこの街を生きる子供達の未来の為に、文化的多様性は守られなければならない。
たとえ今日手に入らなくてもいい、
この街の文化は、この街の未来は
いや、この街は
俺が守る。
「では上下巻ともに一冊づつお取り置きしておきますね。何時頃いらっしゃいますか。念のためお名前と電話番号を…」
ええ、近くまで来ていますので、はい、もう10分くらいですぐ、ええ。
予約とかではなくて、あの、普通に置いてるんですか。へえ。お店に?へえ。
ああ、ありがとうございます。○○と申します。はい。090〜・・・
こうしてN県のいちばん長い日は終わった。
果たして、僕の行動が無意味だったと笑うのはたやすい。
だが、本当に無意味だったのかどうかは後の歴史が判断するだけである。
これからも、本は本屋で買うつもりだ。
もしかしたら10年前のだれかのおかげで、僕が今この本を手にしているのかも知れないのだから。
おしまい。
ありがとうジュンク堂書店。