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もっとわがままに本を読もう! オススメ「自分軸読書術」
昔から読書が好きでした。
この場合の「昔」とは、具体的には40年以上前を指しています。ほとんど物心つかない頃からひたすら本ばかり読んでいる子供だったわけです。
もちろん、そのころ読んだり、読んでもらったりしていたのはシンプルな絵本の類だったでしょうが、しだいにその内容は複雑、高度になり、いまに至っています。
で、いま、ネットでほかの人の「本の読みかた」に関する話を見ると、少なからず違和感を覚えることがあるわけです。「え、そんなふうに本を読んでいるの?」「それはもったいなくない?」と感じることが少なくない。
もちろん、本の読みかたにただひとつの「正解」があるわけではなく、どのように読もうがその人のかってであるわけですが、余計なお世話を承知でいわせてもらうなら、より深く、より楽しく読めた方が読書の習慣は続いてゆくことでしょう。
そこで、この記事ではぼくの「読書に関する考えかた」を記しておこうと思います。ご一読いただければ幸いです。
「主観」と「客観」を区別することから始めよう
さて、ネットにはいろいろな「本の感想」があふれています。出版不況が叫ばれて久しいにもかかわらず、たくさんの人が「あの本は面白かった」とか「この本はサイテーだ!」といった意見を並べています。
そのクオリティはじつにさまざまなのですが、そういった「感想」や「レビュー」の類を見ているとひとつ思うことがあります。それはわりと多くの人が本の「客観的価値」と「主観的価値」を区別できていないのだな、ということです。
世の中にはいわゆる「名著」とか「名作」といわれる本があります。その素晴らしい内容で歴史に名をのこしているような本です。
そういった本は一般的にいって多大な「客観的価値」をそなえています。そうでなければたくさんの人に支持されることはありえないわけですから。
しかし、そういった「名著」がその本を手に取った「わたし」や「あなた」にとって価値があるかというと、それはまたべつの話です。
あたりまえのこと? しかし、その「当然」がわかっていないとしか思えない人が意外に多いように思えるんですね。
そしてこれは「逆もまた真なり」です。つまり、一般的に評価が高くない、価値が低いと見られている本でも、自分にとって価値があることはありえる。
ひとは客観的に見たときの「名著」ではなく、「自分にとって価値がある本」を読むべきなのです。
本の「客観的価値」はあなたにとって関係がない
こう書いても、おそらくまだ常識的な話だと思われる方が大半でしょう。ですが、ひとが「一般的、客観的な価値がある本」と「主観的に価値がある本」の区別をなかなかつけられないことは、Amazonのレビューなどを見るとあきらかであるように思えます。
Amazonには、まさに玉石混交のブックレビューが大量に載っているわけですが、それらを読んでいると、「主観」と「客観」がごちゃ混ぜになった話をしている人がけっこうな割合なんですね。
いうまでもなく、「主観」と「客観」を明確に区別して語ることは簡単なことではありませんから、これは不思議なことではないでしょう。
ただ、それにしても、あまりに「主観的な価値」と「客観的な価値」を混ぜて語っている人が多い。おそらく、それを区別するべきだと考えてもいないのかもしれません。
そういう人は、たとえば自分にとっての「好き/嫌い」とか「面白い/つまらない」とか「役に立った/役に立たなかった」ということでその本の「客観的価値」を決めつけてします。
そういった「自分の事情にもとづく主観」はレビューを読む人には関係ないはずなのに。
「良い本」を探すことをやめよう
くりかえしますが、そうはいっても専門家の文芸批評ならともかく、一般読者のレビューから「とても面白かった」とか「どうにも好きになれなかった」といった、いわゆる「感想」を排除することはむずかしいものです。
ぼくもべつにあくまで「客観的に意味がある情報」だけを書け、といいたいわけではありません。
そうではなく、そういった事情は本来、その本の「一般的」な値打ちとはべつなのだと自覚しているべきだ、と主張したいわけです。
たとえば、極端な例として、あなたが甘いものが大嫌いだとしましょう。そのとき、「美味しいケーキのつくり方」の本を読んでもしかたありません。
その本はまさに「あなたのための本」ではないのです。その本に、どんなにていねいにおいしいケーキを作る方法を書かれてあっても、まったく意味がないとしかいいようがない。
つまり、そこでの「大いなる客観的価値」はあなたにとってはまったく無意味なわけです。
だから、本を選ぶときは「名著=客観的に見て価値が高い本」ではなく、「あなたにとって意味がある本」を選ばなければなりません。
いってしまえば、その本が一般的に見て「良い本」なのかどうかはあなたの選択とはまったく関係がないのです!
たとえ「ひどい本」であってさえ
さらに極端な例を挙げましょう。
ここに「内容的にまったくまちがいだらけ」で信用ができない本があるとしましょう。一般常識で考えるなら、この本は「価値が低い本」です。
しかし、だからといって「あなたにとって」価値が低いとは、じつは限らないのです。
たとえば、あなたがその分野について博識で、その本のまちがいをちゃんと認識できるなら、それが「まちがいだらけ」であることは問題にならないかもしれない。
あるいは逆に「正しいこと」がちゃんと羅列してある本であっても、「自分が知っていること」ばかりしか書いていなかったらあなたにとってはなんら値打ちがないかもしれない。
そう、あなたにとってある本が読む意味があるかどうかということは、その本の「客観的価値」とはほんとうに何も関係がないのです。
だから、ひとはあくまで「自分にとって読む意味があるかどうか」を基準にして本を選ぶべきだと思うんですよ。
一般的に見たとき、どんなに価値が高い本であっても、自分にとって読む意味がないのなら、手に取るべきではありません。逆に、自分にとって価値があるなら駄作、駄本のたぐいであっても読んでみて良い。
あくまで優先するべきは「自分の軸」です。読書はもっと奔放にわがままであって良いのです!
ぼくから見ると、あまりに「良い本」を求めて本を読んでいる人が多すぎるように思えます。
本は「鵜呑み」にするべきものじゃない
それでは、なぜ、ひとは「名著」を、つまり「正しいこと」が書かれた「立派な本」を求めてしまいがちなのか。
そのような本が自分にとっても価値があるものだと信じてしまうことが多いのか。
それは、たぶん本に「答え」を求めているからなのだと思うのです。いい換えるなら、そこに書かれてあることを「鵜呑み」にしてしまえる本が、すなわち「自分にとっての良い本」であると考えがちなのですね。
もちろん、書かれてあることをすべてひとまとめに「鵜呑み」にしてしまえるような「正しい」本は、客観的に見たとき価値が高いとはいえるでしょう。
しかし、何度もいいますが、それは「あなたにとって」価値があるかどうかとはべつです。あなたには思考力があるのですから、「すべてを鵜呑みにせず、批判的に読んだとき」役に立つような本を選んでも良いわけです。
つまり、客観的に価値がある本ではなく、主観的に読む意義がある本を選びましょうということです。
求めるものは「答え」じゃなく「ヒント」
たしかにそこに書かれていることを、ひとつの「答え」として「鵜呑み」にしてしまえる本があればラクではあるでしょう。ですが、読書の醍醐味とは「答え」を求めることにはありません。
本に書かれてあることを無批判に受け入れてしまうのではなく、それを参考に「自分自身で考えてみる」ことこそ読書の素晴らしさです。
つまり、本とは基本的に「答え」を求めるものではなく、「自分で考えるためのヒント」が載っているものであると理解するべきなのです。
そしてその「ヒント」とは、「納得はいかないが、批判的に見たとき、参考になる情報」であってもかまいません。
ぼくにはどうしても納得がいかないけれど、とても自分を豊かにしてくれた本がたくさんあります。そういった本はそのまま「鵜呑み」にしてしまえば有害ですが、批判的な視点を忘れないかぎり、有益なのです。
ぼくは読書とはそのようにどこまでも「自分本位」で行うとき、もっとも豊かに楽しめるものだと考えます。
読書はあくまでもわがままに、自分勝手に、自分にとってだけの価値を求めて行ってもかまわない。少なくともぼく自身はそうやって本を読んでいます。参考になれば幸いです。
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