18世紀イギリスのチェンバロ:シュディとカークマン(177)
17世紀の終わり頃からイギリスでは家庭用の鍵盤楽器としてベントサイド・スピネットの製造が盛んでしたが、もちろん「ハープシコード」が用いられていなかったわけではありません。しかし17世紀までのイギリス製のチェンバロの現存例は乏しく、その実態はよくわかっていません。イギリス製のチェンバロが多く見られるようになるのは、スピネットにやや遅れ、18世紀半ば頃からの事です。
18世紀イギリスのチェンバロ(ハープシコード)製造の立役者は、バーカット・シュディと、ジェイコブ・カークマンの二人です。両者の楽器は非常によく似ていますが、それは二人共同じ師匠の元で修行したからです。
その師匠のヘルマン・ターベル Hermann Tabel (c.1660-1738) は、初めアントワープで活動していた楽器職人で、あるいはルッカースの末裔であるクーシェの工房の出身だったのかも知れません。彼や彼の弟子たちの楽器にはルッカースの影響が顕著に見られます。ターベルは1714年頃にロンドンに移住し工房を構えました。
現存するターベルの楽器は、ウォリックシャー博物館所蔵の1721年製の二段鍵盤のチェンバロ1台のみです。音域は FF-f3 の5オクターヴ、ただし FF# が無いのは鍵盤の見た目をシンメトリカルにするためでしょう。ルッカースと同じく厚い側板を梁で連結したケース構造。オーク材にウォールナット突板仕上げの地味な外観はイギリス製のスピネットと同様です。
二段鍵盤ですが、フランスのような鍵盤を連動させるカプラーではなく、フランドル式のドッグレッグ・ジャックを用います。これは一列のジャックを切り欠きのある形とし、上下のどちらの鍵盤からも動かせるようにしたものです。これによって下鍵盤を強音、上鍵盤を弱音とすることができます。
しかしこの方式では連結を解除して両鍵盤を独立した対等の楽器として扱うことは出来ないため、フランス流の上下鍵盤で同音域を重ねて弾くピエス・クロワゼの技法は使えません。バッハのゴルトベルク変奏曲なんかも弾けませんね。その代わり鍵盤自体を連動させることはないのでタッチの点では有利です。
また、弦を根本に近いところで弾くリュート・ストップ(ナザール)を備えています。これは音量が小さく、鼻にかかった音色になるもので、弦を革や布でダンプするバフ・ストップとは別物。ドッグレッグとリュートは弦を共有しているので、上鍵盤をリュート、下鍵盤をバック8'とすれば、対等ではないものの一応両鍵盤を独立させることは可能です。
シュディやカークマンのチェンバロも基本的にこのターベルの楽器の仕様を踏襲しています。
バーカット・シュディ Burcat shudi (1702-1773) はスイスのシュヴァンデンに生まれ、1718年に指物師としてロンドンに渡り、ターベルの元で働いた後、1728年に独立しました。シュディのチェンバロはヘンデルやハイドンに愛用され、フリードリヒ大王やマリア・テレジアも彼の顧客でした。
ジェイコブ・カークマン Jacob Kirkman (1710-1792) はアルザス地方のビシュヴァイラーの出身で、おそらくシュディが独立した頃にターベルの工房に入ってやがて親方となり、1738年にターベルが亡くなると、その未亡人と結婚して工房を引き継ぎました。彼は王室御用達の座を獲得して工房は益々栄え、財を成した彼は晩年には金融業者のようであったといいます。一方で彼はエンハーモニック鍵盤やガイゲンヴェルクなど実験的な楽器にも取り組んでいました。
シュディとカークマンの工房は規格化された仕様で大量のチェンバロを製造しました。シュディの場合、シリアルナンバーから年間約20台のチェンバロを製造していたことがわかります。
現存数も大変多く、シュディとその一族のチェンバロが54台、カークマン一族のものが181台知られています。日本にもシュディが1台(上野学園)、カークマンが3台あります(浜松楽器博物館および個人蔵)。
シュディとカークマンのチェンバロは、いずれも一段鍵盤 2×8'、一段鍵盤 1×4’, 2×8'、二段鍵盤 1×4’, 2×8' の3タイプのラインナップでした。音域は基本的に5オクターヴ。そして外装はやはり地味なウォルナットやマホガニーの突板仕上げなので、どれも同じように見えます。これが産業革命ですが、この規格化生産方式はそもそもルッカースから受け継いだものでもあります。
大量生産されたとはいえ、彼らの製品は高品質かつ高価格で知られており、1760年頃の標準的なチェンバロが1台20ギニーほどであったところに、カークマンの一段鍵盤のチェンバロは50ギニー、二段鍵盤は90ギニーで販売されていました。
なお銘板以外での両者の楽器の簡単な見分け方としては、シュディのチェンバロは響板にローズが無く、カークマンのチェンバロには金属製のローズがついているというのがあります。
この違いは音質にも多少は影響しているかもしれません。しかし両工房の楽器の甲乙については当時から言われていましたが、チェンバロの音質などはヴォイシングによるところが大きいので、単純に比較するのは難しいものがあります。
シュディとカークマンのチェンバロの設計はほぼ同一で、ターベル、ひいてはルッカースの流れをくむものです。しかし同じくルッカースに倣ったフランスの楽器に比べると内部構造はやや複雑。ドッグレッグ・ジャックなどもターベルと同じで、このあたりの基本設計はシュディもカークマンも18世紀を通じてほとんど変化がありません。ただ後期のシュディの楽器は甘い音を志向してプラッキングポイントが変更され、プレクトラムに革を使用するものがあります。
目立った発展があったのは音量を変化させるためのギミックです。これらが一概にピアノに対抗するためだったとも言えません。とにかく当時のギャラント音楽では音の強弱がトレンドだったのです。
カークマンのチェンバロには蓋の一部が分割されてヒンジで結合されているものが見られますが、これはその形からナグズヘッド(馬の頭) と呼ばれ、蓋を閉めた状態でペダル操作によりこの部分を開閉することで音量を連続的に変化させる仕掛けです。この種の仕掛けは1754年頃からカークマンの楽器で用いられていました。これはイギリスにおけるピアノの普及にやや先行します。
一方シュディはヴェネツィアン・ブラインド式の内蓋を組み込んで、これをペダルで開閉するようにしました。シュディは1769年にこれについて特許を取得しています。後にはカークマンもこれを採用しています。
もうひとつはマシンストップと呼ばれるもので、ペダルの踏み込みに従って次々とストップを加減して音量を漸次増減する仕掛けです。これも後にカークマンも採用しています。フランスのパスカル・タスカンが同じようなことを膝レバーで実現していますが、おそらくシュディのほうが先です。
1765年にロンドンを訪れていた当時9歳のモーツァルトはシュディのマシンストップ付きチェンバロを宣伝のために演奏させられています。
これらのギミックが果たしてどれだけ有効活用されたかはわかりませんが、ともあれシュディとカークマンのチェンバロは、300年に渡って発展してきたチェンバロ製作技術の極みを示すものと言えます。
にも関わらず、どういうわけか彼らのチェンバロは現在はあまりコンサートや録音には使用されていません。複製楽器のモデルとしても甚だ不人気です。これはどうしたことでしょうか。
音質については昔から彼らの楽器は賞賛の的でした。ただフランスの楽器より「強い」音ながら、デリカシーに欠けるところがあるとも言われます。またドッグレッグ・ジャックのために一部の二段鍵盤作品が演奏不能ということはありますが、正直それほどの欠点とは思えません。
これはやはりどうしてもシュディやカークマンのチェンバロで弾きたいというレパートリーに乏しいためではないでしょうか。もっともこの時代のロンドンでは国内外の作曲家による鍵盤曲集が大量に出版されていて、レパートリー自体には事欠かないのですが、その大半は素人向けの平易な作品であって、現代の聴衆にとっては魅力に欠けます。
バルダッサーレ・ガルッピ(1706-1785)はその中ではかなりましな方でしょう。彼はヴェネツィアのメンディカンティ慈善院の「マエストロ・ディ・コロ」であったわけですが、一時期ロンドンに招聘されたこともあり、彼のチェンバロ・ソナタ集はロンドンで出版されています。
ガルッピの『チェンバロ・ソナタ集 第2巻 Op. 2』(1759)の表紙に載っている「こちらもおすすめ」ラインナップを見れば当時のレパートリーが知れます。アルベルティ、モンドンヴィル、ツィポーリ、そしてもちろんヘンデルは別格です。
ジェイコブ・カークマンの甥で同名のジェイコブ・カークマン(1746-1812)は一廉の音楽家であって、鍵盤ソナタ集なども出版しており、これなどまさしくカークマンの楽器で弾くに相応しい作品ではありますが、今は興味を持つ人は少ないでしょう。
ロンドンのバッハことヨハン・クリスティアン・バッハ(1735-1782)の『6つのソナタ Op.5』(1765)の表紙では、「ピアノフォルテ」のほうがハープシコードよりも先にきて、そして明らかに力が入っています。彼はヨハネス・ツンペ(1726-1790)のピアノの支持者でした。ちなみにツンペは一時期シュディの工房で働いていたことがあります。
そして1761年からはスコットランド出身のジョン・ブロードウッド(1732-1812)がシュディの工房に入ります。彼はその腕を認められて1769年にシュディの娘と結婚して共同経営者となり、やがて工房は彼の名のもとにピアノメーカーとして発展していくことになります。
ジェイコブ・カークマンは1772年から甥のエイブラハム・カークマン(1737-1794)を共同経営者とし、その後工房はエイブラハムの子のジョセフ・カークマン(1763-1830)が受け継ぎます。しかしその頃にはカークマンの製品もピアノが主体になっていました。
ブロードウッドの最後のチェンバロは1793年のもので、カークマンも1809年にチェンバロの製造を終了し、これをもってチェンバロの時代は終わりを告げます。現存する最も後のカークマンのチェンバロは1800年製でニュルンベルクのゲルマン国立博物館に所蔵されています。