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ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの生涯、後編(161)
ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハは、主に数々の小説や物語りの主人公として有名で、放埒な生活を送り、ひどい貧困の中で世に忘れられて死んだボヘミアン・タイプの芸術家の見本としていつも描かれている。その大部分は、ただのうわさ話にすぎないが、彼が自分の傑出した力倆を十分に世に現さなかったことは、ほんとうのようだ。
ブラウンシュヴァイク
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1771年、60歳のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハは、友人の勧めによりブラウンシュヴァイクに移り住みました。ここでW.F.バッハは即興演奏の名手として人気を博しましたが、しかし依然として就職のあてはなく、聖カタリナ教会のオルガニストに応募するも、やはり駄目でした。
この頃の彼は公開演奏会や所有楽譜の売却で食いつないでいたようです。そのため、相続したJ.S.バッハの原稿を切り売りして散逸させたと、彼はしばしば批難の対象となっています。尤も、実際に彼が父の作品を不特定多数への競売にかけたことが確認できるのは『フーガの技法』の出版譜の不良在庫ぐらいのものなのですが。
1773年の夏、W.F.バッハはゲッティンゲンを訪れ、当時ゲッティンゲン大学の学生であったヨハン・ニコラウス・フォルケル(1749-1818)の主催するオルガン演奏会に出演しています。
フォルケルは熱狂的なJ.S.バッハの崇拝者で、W.F.バッハやC.P.E.バッハから故人の話を聞き出し、後に最初のJ.S.バッハの伝記『ヨハン・ゼバスティアン・バッハの生涯、芸術、作品について』(1802) を著しました。
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ベルリン
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1774年にW.F.バッハはベルリンに居を移します。ベルリンは七年戦争(1756-1763)でロシア軍に占領されたりもしましたが、この頃にはドレスデンに替わって音楽の都となっていました。
ちなみに「ベルリンのバッハ」こと弟のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハは、1767年に亡くなったテレマンの後任としてハンブルクに移ったので、この時はもうベルリンには居ません。
ベルリンでもW.F.バッハは度々演奏会を催して人気を博しました。そして、やはりJ.S.バッハの信奉者であるヨハン・フィリップ・キルンベルガー(1721-1783)の援助を受け、彼の仕えるプロイセン王女アンナ・アマーリエ(1723-1787)のサロンに迎え入れられます。
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アマーリエ王女は音楽に造詣が深く、キルンベルガーを教師として音楽理論を学び、自ら作曲も嗜みました。王女のために建造された1755年製のオルガンはベルリン=カールスホルストの福音教会に現存します。
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C.P.E.バッハは王女のために6曲のオルガン・ソナタを作曲しました。王女はオルガンを弾くことを愛してはいたものの、ペダルの使用は不得手だったということで、これらのソナタにはペダルのパートがありません。
W.F.バッハは1778年2月24日に『8つのフーガ』Fk 31 をアマーリエ王女に献呈し、コーヒーセットと謝金を賜りました。これも手鍵盤のみの作品で、王女がオルガンで弾くことを想定したものと思われます。
しかしながら彼はその後、王女の面前で恩人たるキルンベルガーを中傷するという理解し難い言動で王女の不興を買ってしまいます。
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https://www.bach-digital.de/receive/BachDigitalSource_source_00025670
それはともかく、この『8つのフーガ』はW.F.バッハならではの珠玉の名品といえるでしょう。幼少時より対位法を血肉としつつ、疾風怒濤の時代を絶望と共に歩んだ彼であればこそのリリシズムの極北です。
『8つのフーガ』は出版計画があったものの実現せず、写本の形で流布しました。これは意外と人気があったらしく、写本の数はポロネーズよりも多いぐらいです。《フーガ第8番 ヘ短調》はモーツァルトが弦楽三重奏に編曲しています(K. 404a)。
結局ベルリンでも定職に就くことは叶わなかったW.F.バッハですが、演奏家としては常に称賛されていました。そんな彼の即興演奏を彷彿とさせるファンタジアこそは彼の芸術の精華に違いなく、そして現存するそれらはどれも失意と貧困の中にあった晩年の作品と考えられるのです。
機関銃のような音の弾幕、悲劇的なレチタティーボ、堅固なフーガという異質の要素が立ち代わり現れる《ファンタジア ニ短調》Fk 19 が華麗な傑作としてまずは薦められます。しかしそれなりに綺麗にまとまっているのがむしろW.F.バッハ作品としては物足りないような。
ここはあえて、取り留めもなく幻想の中を彷徨い続ける《ファンタジア ハ短調》Fk 15 をW.F.バッハの代表作に相応しいものとして推します。自身の《ソナタ ハ長調》Fk 2 及び《チェンバロ独奏のための協奏曲 ト長調》Fk 40 からの引用を含みつつ、演奏時間は20分近くに及びます。実際の彼の即興演奏もこのようであったのではないでしょうか。
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ところで、どういうわけかW.F.バッハのファンタジアはいずれも自筆譜が見つかっておらず、すべて他人の写譜でのみ知られます。そのため、これらの作品の信憑性については注意が必要です。
W.F.バッハの作品と信じられてきた《ファンタジア ハ短調》Fk nv2 は、実はヨハン・ヴィルヘルム・ヘスラー(1747-1822)の作品であることが1990年代になって判明しています。1776年に堂々と出版された曲集に収録されている作品なので、誰も気づかなかったのは些か節穴に過ぎると言えますが。
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クリストフ・ルセは1990年にリリースしたCDのライナーノーツでこの曲をモーツァルトの《ファンタジア ニ短調》K. 397 に匹敵する傑作と絶賛していますが、生憎これはW.F.バッハの作品ではありません。しかし傑作であることは違いないでしょう。ミートケのレプリカを使用した彼の演奏も素晴らしいものです。
ついでに、このルセのCDの冒頭を飾る《ソナタ イ短調》Fk nv8 もヘスラーの作品です。これも清澄なメランコリーを湛える佳品なのですが。
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ヘスラーはエアフルトに生まれ、J.S.バッハの弟子のヨハン・クリスティアン・キッテル(1732-1809)に師事しました。彼はドイツ中を演奏旅行で周り、ロンドンでも成功を収め、さらにサンクト・ペテルブルグに渡って、最後はモスクワで亡くなりました。彼はロシアで大きな人気を博し、後のロシア音楽にも影響を及ぼしたと考えられています。あるいはこのような人生をW.F.バッハが送った可能性もあったでしょう。
モーツァルトは1789年4月16日にドレスデンでヘスラーと会っていますが、その演奏にはあまり感心していません。
…食後にオルガン演奏をしようということになって、四時に皆で教会に行きました。ノイマンも来ました。ヘッスラーという人(エルフルトのオルガニスト)も顔を見せたのです。この人はバッハの門人の生徒で、オルガンもピアノもよくひきます。ところでこの人達は、私がウィーンから来たのだから、ここの演奏法や楽風には全然うといに違いないと思っているので、私はオルガンに向かって演奏しました。リヒノフスキー公(ヘッスラーをよく御承知です)はいろいろと骨を折った後、ようやくこのヘッスラーにも演奏するよう説得しました。この人の演奏の特徴はペダル奏法にあって、ここのペダルは段に配置されているので、さほど困難な技術を要しません。加えるに、彼は老セバスティアン・バッハの和声と転調を暗譜しているだけでした。遁走法を満足に演奏することもできず、がっしりした演奏法を心得てもいませんでした。従ってアルブレヒツベルガーの程度にもはるか達していません。
最晩年のW.F.バッハはおそらく結核と思われる病を患い、公演活動からも引退することを余儀なくされます。1784年7月1日にW.F.バッハは73歳で亡くなり、ルイーゼンシュタット教会の墓地に埋葬されました。墓地はその後整地されて彼の墓は見失われ、現在は代わりの記念碑が建てられています。
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1784年の Magazin der Musik 誌に掲載された彼の死亡記事を見るに、彼はその最晩年にあっても忘れられることなく、古き伝統を受け継いだ偉大なオルガニストとして敬意が払われていたようです。
Deutschland hat in ihm seinen ersten Orgelspieler, und die musikalische Welt überhaupt einen Mann verloren, dessen Verlust unersetzlich ist.
ドイツは彼というオルガニストの第一人者を失い、音楽界全般にとってかけがえのない人物が失われた。
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一方、W.F.バッハは生前からしばしば変人としてジャーナリズムに扱われていたようです。没後はさらに社会不適合で破滅的な芸術家というロマンティックなイメージを纏わされ、アルコール中毒で妻子を蔑ろにしたなどと謂れのない偏見を持って語られたりもしてますが(アルベルト・シュヴァイツァー『バッハ』)、しかし彼は極度に世渡りが下手で貧乏で陰鬱で嘘つきではあっても、家族を捨てたりはしてません。
ブラッハフォーゲルの小説『フリーデマン・バッハ』(1858) は、そんな空想の最たるもので、これは1941年に映画化もされています。
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ルイ・マルシャンとの演奏試合がW.F.バッハのエピソードにされるなど、史実を完全に無視した出鱈目な代物で、映画としての評価も散々なのですが、そのマルシャン敵前逃亡イベントの演奏シーンで使われているチェンバロが「白のミートケ」の実物なのですよね。
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さすがに音はアフレコでモダンチェンバロの演奏なのですが、これが大変素晴らしいのです。演奏曲はW.F.バッハのファンタジアを幾つか切り貼りしたもので、正に彼の演奏もかくあったかと思わせる熱演です。
それと終盤にJ.S.バッハの『音楽の捧げもの』の楽譜を広げながら、パッヘルベルのカノンを弾くという謎シーンがあるのですが、考えてみると当時はまだこの曲は殆ど無名だったのでは。最初期の録音の一つに数えられるはずです。
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