ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの生涯、前編(159)
ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ (1710-1784) は、1710年11月22日、長女カタリーナ・ドロテア (1708-1774) に続くヨハン・ゼバスティアン・バッハの第2子かつ長男としてヴァイマルに生を受けました。
彼の名前は、代父であるヴァイマル宮廷の家令 Wilhelm Ferdinand von Lynker 及び、ミュールハウゼンの弁護士 Paul Friedemann Meckbach の二人から与えられたものです。ちなみに4歳下の弟はゲオルク・フィリップ・テレマンを代父としてその名をもらいました。
やがてヴァイマル公との関係が悪化したため、J.S.バッハはケーテン宮廷に職を求め、1717年に一家はケーテンに移住。ちなみにJ.S.バッハは「あまりにも頑強に退職を要求した廉」で11月から12月にかけて勾留されていたので、長男の7歳の誕生日を祝うことはできませんでした。
1720年7月、W.F.バッハ9歳のときに母のマリア・バルバラが亡くなり、父は1721年12月3日に宮廷トランペット奏者の娘でソプラノ歌手のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケ (1701-1760) と再婚。彼が母の死や、まだ20歳の若い継母をどう受け入れたのかについては何も伝えられていません。
J.S.バッハが再婚した翌週の1721年12月11日に、ケーテン侯レオポルトもベルンブルク侯女フリーデリケ・ヘンリエッテと結婚式をあげます。しかしながらこの新侯妃は音楽に理解がなかったらしく、ケーテン候の音楽への関心がやや後退した模様。
勝手な言い草ですが、かくしてJ.S.バッハはケーテンに見切りをつけ、1723年5月に、昨年他界したヨハン・クーナウ (1660-1722) の後をついで、ライプツィヒのトーマス・カントルに就任。12歳のヴィルヘルム・フリーデマンも1723年6月14日からトーマス学校に通います。
1729年3月5日にW.F.バッハは18歳でライプツィヒ大学に入学し、法律、哲学、数学を受講。彼は特に数学に強い関心を持っていたと伝えられています。1729年6月にはハレに里帰りに訪れていたヘンデルに父からの招待状を届けていますが、不首尾に終わりました。
ゴットリープ・フリードリヒ・バッハ (1714-1785) が描いたとされる、この頃のW.F.バッハの肖像画が知られています。
ドレスデン
1733年、例のメヌエットの作曲者のクリスティアン・ペツォールト (1677-1733) の引退に伴い、ドレスデンの聖ゾフィー教会(1945年の空襲で破壊)のオルガニストの募集が行われると、W.F.バッハはこれに応募し、審査の結果、満場一致で採用に至ります。
そのオーディションでは父の《プレリュードとフーガ ト長調》BWV 541 を演奏したようで、その際持たされたと思しき同時期のJ.S.バッハによる浄書譜が現存します。ここまで過保護では些かげんなりしたでしょうか。
W.F.バッハは当時既に傑出したオルガニストとしての名声を獲得していたはずですが、ドレスデン時代に作曲された彼のオルガン作品は全く知られていません。
その代わり、この頃作曲された一連のオーケストラのためのシンフォニアや、チェンバロ協奏曲などが残されています。
これらのチェンバロ協奏曲は父親のものと並んで、この種の作品の最初期の例です。J.S.バッハのチェンバロ協奏曲が基本的に過去作品の編曲でヴィヴァルディの影響を強く感じさせるのに対し、W.F.バッハのそれは父の作を踏襲しつつも優美なロココの世界へと踏み出しています。
ゾフィー教会のオルガニストの給与は多くはありませんでしたが(年俸80ライヒスターレル)、義務も少なく、その余裕をもってW.F.バッハはドレスデン宮廷の音楽にも精力的に参与していたものと思われます。当時のドレスデンには、オペラ作曲家のヨハン・アドルフ・ハッセ(1699-1783)、ヴァイオリンの名手ヨハン・ゲオルク・ピゼンデル(1687-1755)、最後のリュートの巨匠シルヴィウス・レオポルド・ヴァイス(1687-1750)など、最高峰の音楽家たちが揃っていました。
ちなみに《ゴルトベルク変奏曲》BWV 988 によって名前だけは有名なヨハン・ゴットリープ・ゴルトベルク(1727-1756)はドレスデンにおけるW.F.バッハの弟子です。
1745年にはチェンバロのための《ソナタ ニ長調》Fk 3 を自費出版します。これは全6曲のシリーズの第1弾として企画されたものでしたが、おそらく難しすぎたのでしょう、さっぱり売れなかったようで続編は出ませんでした。
表紙の一番下には、販売場所として「1. ドレスデンの著者、2. ライプツィヒの彼の父、および 3. ベルリンの彼の弟」が挙げられています。
W.F.バッハのソナタは急緩急の3楽章構成。ギャラントな作風ながら、あくまで対位法的に構築しているところが実に長男。複雑なリズムと和声を駆使した力作ですが、展開の構成力がやや弱く、音楽が迷子になっているような感じがするのは彼の作品ではままあること。
作品番号
ここで少しW.F.バッハの作品番号について。
W.F.バッハについての初の包括的な著作、Martin Falck 『Wilhelm Friedemann Bach: Sein Leben und seine Werke』(1913) の巻末索引番号が Fk 番号として現在も一般的に使用されています。しかし流石にこれは古い。
BR-WFB (Bach-Repertorium Wilhelm Friedemann Bach) 番号がこれに代わるものなのですが、演奏者にはあまり普及していません。おまけに互換性がない(Fk 3 = BR-WFB A4)。現状では Fk 番号の無い作品に限って BR-WFB 番号を用いるのが混乱が少ないかと思います。