鍵盤楽器音楽の歴史(14)ルッカースのチェンバロ
1613年、ジョン・ブルは姦通の罪で高等法院に告発されました。同年、彼は「カトリックの信仰を固持するため」大陸に亡命し、既にピーター・フィリップスが仕えていたブリュッセルのアルベルト大公の元に身を潜めます。しかしそれも2ヶ月後にはイングランド王ジェームズ1世に露見したため、さらにアントウェルペンへ逃避しました。
ブルはアントウェルペンで聖母大聖堂のオルガニストの職を得るのですが、当時そのオルガンは1566年の新教徒による聖像破壊運動の際に破壊されて使用不能でした。結局ブルが自ら設計にあたったオルガンが1626年に設置されます。
ブルは同時に音楽家のギルドにも所属しており、演奏や調律などで収入を得ていました。商工業都市として栄えた当時のアントウェルペンは厳格なギルド制が敷かれていて、音楽家は「聖ヨブとマグダラのマリアのギルド」、画家や彫刻家などは「聖ルカのギルド」に所属しなければ仕事ができませんでした。ちなみにどういうわけか楽器の製造や楽譜の出版も聖ルカのギルドの担当です。
1557年にアントウェルペンの鍵盤楽器製作者たちが聖ルカのギルドに「クラヴィシンベル」部門を設立しました。1579年にハンス・ルッカース (c.1550-1598) がこれに参入を果たし、その後、約1世紀に渡ってルッカース一族はアントウェルペンのチェンバロ製作を代表することになります。
ルッカースの楽器は、その優れた音質によって比類なき名器として知られ、現在に至るまで演奏の場で使われ続けています。また、その設計は以後のチェンバロ製作に大きな影響を与えました。
https://collectionsdumusee.philharmoniedeparis.fr/0705787-portrait-famille-ruckers-couchet.aspx
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/503676
現存するハンス・ルッカースの最古の作品は、この1581年の日付を持つダブル・ヴァージナルです。
これは南米のペルーのクスコで発見されたもので、スペイン王フェリペ2世からインカ帝国の末裔であるオロペサ侯爵への贈答品であったと考えられています。オリジナルのパーツと装飾をほとんどすべて残している非常に状態の良い貴重な楽器です。
鍵盤の上にはフェリペ2世と王妃アナ・デ・アウストリアの肖像が見えます。当時のアントウェルペンはスペインの支配下にありました。
このダブル、あるいは「母子」型ヴァージナルは、他の工房にも類似の作例が見られ、当時は割と一般的な楽器であったと考えられます。「子」ヴァージナルは「母」よりも1オクターヴ高いピッチの楽器で、独立して演奏することも、「母」と連結して同時に音を出す4フィート・レジスターとして扱うこともできます。
「母」は鍵盤が右側に寄ってプラッキング・ポイントが弦の中央付近に位置する「ミュゼラー」です。フェルメールの絵画などでおなじみのこのタイプのヴァージナルは以前には見られないもので、ハンスの発明である可能性が考えられます。
ミュゼラーは常に中央付近で弦を弾くため、中低音は倍音の少ないボンボンとした独特の音質です。これを補うため、振動する弦に金属部品を接触させて音を付加する "Arpichordum" というストップが装備されており、これを使うと大変にエキセントリックな音になります。
Flemish Muselaar / Virginal by Kevin Spindler, 1991.
https://www.annesharpsichords.com/instruments/pre-owned-instruments/early-keyboards/spindler-1991/
https://collectionsdumusee.philharmoniedeparis.fr/doc/MUSEE/0130260#
ハンス・ルッカースの二番目に古い楽器は1583年のヴァージナルで、基準よりも音高が5度高い「クイント・ピッチ」の、やや小型の楽器です。またこれは鍵盤が左側にある「スピネット」型のヴァージナルで、このタイプは弦を弾く位置が端の方になるため、倍音が多い、普通のチェンバロに近い音質になります。
響孔には鉛を鋳造し金箔を貼った装飾(ローズ)が嵌め込まれています。意匠はハープを持った天使の左右にハンス・ルッカースのイニシャルである "H"、"R"。このフォーマットは後のルッカース一族の楽器にも受け継がれます。
ローズだけは本物の贋作などもあったりします。
https://www.dbnl.org/tekst/_vla016199301_01/_vla016199301_01_0007.php
1591年のスピネット・ヴァージナルは五角形のケースが特徴的。ルッカース一族のヴァージナルで五角形のものはこれだけで、他は全部四角い箱型です。
http://collection-media.yale.edu/catalog/3904107
同じく1591年のダブル・ヴァージナル。後にいくらか改造されており、鍵盤やジャックはオリジナルではありません。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ClavecinVirginalHansRuckers.JPG
1594年のこれはチェンバロとヴァージナルが一体になった複合楽器です。チェンバロ部分は 1×8', 1×4' の1段鍵盤、これはルッカースのチェンバロの標準的な仕様です。ヴァージナル部分はダブル・ヴァージナルの「子」と同じ、1オクターヴ高いピッチの 4' 相当の楽器になっています。チェンバロ側は改造されていますが、底板に製作時の設計図が残されていて、当初の弦の長さと位置などがわかります。これが現存唯一のハンス・ルッカースのチェンバロになります。
既知のハンス・ルッカースの楽器はこれで全部です。こうしてみると、どうも現存するハンスの楽器は変わり種ばかりですね。
次回はルッカース第2世代目、ヨハネスとアンドレアスの楽器を紹介していきたいと思います。
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