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アメリカの高校で過労死がどう伝えられているか

アメリカで勤務していた時、向かいの教室で教えている社会の先生にゲストティーチャーできて欲しいと頼まれた。日本の過労死について説明して欲しいという。

社会の授業でアメリカの高校生が何を学んでいたかというと「失敗した社会構造について」。つまり、社会がうまく機能していない例を色々と学んでいて、そのうちの一つが過労死であったと。社会として失敗しているがゆえに、過労死がうまれる。社会の失敗例が過労死であるという風に教えているのだ。

そして私はその失敗例の社会の代表!か、悲しい。

過労死は英語の単語 "karoshi"としてオックスフォード辞書に掲載されたのは確かだ2002年。アメリカではdeath by overwork として説明しています。

つまり「死ぬまで働く」「働きすぎて死ぬ」ということ。しかし「仕事をしすぎて命を失う感覚」がアメリカ人(だけではないと思うけど)まず分からない。そこまで働かないといけない、という社会的抑圧も、「みんなが働いているのに、一人だけ帰れない」「無理だと言えない」というような、集団からはみ出る行動をすることが日本社会でどれほどのリスクを犯すと思われているかなど、説明しても高校生相手には手応えが薄い。みんな「え?ふ〜ん」って感じで聞いてる。

「嫌ならしなければいい」「嫌ならやめたらいい」「嫌なら上司に報告すればいい」と、思ってるんだるなー。というのをビシビシ感じる。

実際、一人ひとりの日本の先生方に聞いたら、働き方を変えたい(残業減らしたい、業務量減らしたい、効率的に働きたい、教科指導に集中したい、部活動指導減らしたい、休日出勤やめたい)って思っていると思うんだけど、集団になった途端、そしてそれがヒエラルキーに入った途端、無言の集団になる、この文化背景、個人主義の文化圏の人に理解してもらうのは簡単ではない。そして「言ってもどうにもならない」とわかっているのでもう挑戦すらしない文化なんです、と言うのはとても恥ずかしい。

なぜそれを変えられないのか、日本に長くいる外国人でも理解するのは難しいのではないかもしれない。そう言えば、昔一緒に働いていたALTが「日本は変化が超スローだ」って言っていたのを思い出した。だからこそ、伝統文化が守られてたり、いいこともある。しかし、命に関わること、本当に変化が必要なことはみんなで変えて行く行動力、強さや柔軟さがもっと欲しい。

そうすれば、日本はもっともっと魅力的な国なんだけど。



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