『教養の書』【基礎教養部】

はじめに

今回扱う本です。

書評という体裁で書いたものです。

この記事では、『教養の書』を読むに至った経緯と、教養を養ってゆくためのマイルールを書きます。一貫して自分語りです。

この本を手に取った理由

大学を卒業してからだいたい丸半年、定職についてから丸2ヶ月がたちました。直近数カ月は、お仕事に関連する本や文書ばかり読んでいました。技術的な内容を理解し、いろいろと考えてプログラムを書くことには知的な面白さが確かに存在していて、当分飽きずにつづけていけそうだとわかりました。と同時に、理解や試行錯誤の過程において、自分の頭の使い方がパターン化しはじめていることに気づきました。

自分がやっていたのは、プログラムを書くお仕事のための、大げさな言い方をすれば「テクノロジーを道具として使いこなせる」ようになることを第一義とする読書、読解です。業務では、もっとも抽象的なレベルでは「やりたいことを考えて、制約となるものを把握して、そのなかで目的を実現するための手段を挙げ、良さそうなのを選び、実行する。うまくいかなければ再チャレンジし、成功ならそれまでの判断を説明可能な形で整理してまとめておく」という一連のプロセスを回していきます。それぞれの段階においてできるだけ手間を掛けずに、必要そうな情報を探索したい、見つかった情報の確証を得たい。そのために、知的作業として自分の思考や手順を定型化し無駄を省くべきである。方法論を自分なりに洗練させてゆくなかで、効率のためにルーチン化された手順をこの先半年、一年と続けていったら、見たこともないものや不慣れなものに対する好奇心や対応力、想像力が鈍ってしまうかもしれない、という危機感がうっすらと芽生えました。

そんなところで本書を読みました。数年前、出版直後のタイミングで入手したものです。デジタル化して何度か読み直していたものでもあります。読むたびに、いいことがかいてあるなーと思うものの自分の生活や知的活動における振る舞いに活かしきれていませんでした。この記事の残りの部分では、「私の禁則集」と題して自分の今後の振る舞いを規定するマイルールを宣言しようと思います。今度こそ本書に書いてあることを血肉とするために。(「自らをルーチン化することへの危機感」に関連して考えたことは、まとまらなかったためボツにしました)

私の禁則集

『教養の書』では、本書に先立つ「教養」本がいくつか参照されており、村上陽一郎『あらためて教養とは』もその一つです。村上は、自らの教養を作り上げるために自己に課すルールを、「規矩」という言葉で言い表し、戦後教育における個性重視、脱封建主義の流れと対置させます。(自分はこんな言葉が存在していることも知りませんでした。手元のGoogle IMEでは「きく」と入力すると変換候補の2ページ目、全体の11番目に出てきました。) この構図のもと、人間がケダモノにならないための枷としての教養のありかたを強調しています。

「規矩」とは抽象的な精神論ではありません。村上自身も自らに課す個別具体の禁則を巻末にて公開しています。うかうかしているととやってしまいそうなことだからわざわざべからず集として定めるわけですが、読んでみると本当に細かいことまで書いてあります。例えば、食べ方や電車の座り方といった生活上の振る舞いが目立ちます。「教養」を形成するものが、国家天下の語り方や芸術や科学の追求といった高尚なものではなく、本当に些細と思えるようなものであることに驚きました。そして、立派な先生であっても、日々の立ち居振る舞いにおいてなにからなにまで自分を制御できているわけではないという事実に勇気づけられました。自分よりも知的に完成されている人が、自分よりも生活の実践においては現実的主義だったわけです。

また、「AとBを区別するが、それで他人を評価しない」という構文で書いてあるものが多いことにも考えされられました。「Xを知らないなんて、教養がないね」という言い回しは、常識・教養とされるものが自己と相手とで違っているかもしれない、という想像力が発言者に欠けていることを示唆します。さらには知識の有無を人としての優劣に直結させる態度が透けて見えるので「ヤなかんじ」なのだなと気づきました。自分の言葉の使い方や考え方が、符牒、内輪ノリ、身内ネタに依存していると、いざというときに伝えたいことを伝えたい人に伝えられない、ということになりかねないとも認識できました。

ということで、以下が私の「規矩」です。しょうもないことからこつこつやっていきたいと思います。私は天邪鬼なので、「教養」の礎となる行為のひとつひとつがしょうもなければないほど、嬉しくなって実行してしまうのです。

考え方に関するもの
・メタ認知がある状態とない状態を区別するが、メタ認知感覚の有無で他者を評価しない
・常識がある状態とない状態を区別するが、常識の有無で他者を評価しない
・教養がある状態とない状態を区別するが、教養の有無で他者を評価しない
・自分の欲求に自覚的になるが、それをあからさまに表現しない。なおかつ、慎みの有無で他者を評価しない。
・他者の欲求・願望を汲み取ろうとするが、あからさまにおもねらない。

言葉づかいに関するもの
・省略語をつかわない。スマートフォンを「スマホ」とするがごとき。ただし、省略語を使うことで他者を評価しない。
・ありがとう、ごめんなさい、を相手に聞こえるように口に出す。ただし、これらの言葉に答えてくれないことで他者を評価しない。

食に関するもの
・ペットボトルの水分をラッパ飲みしない。コップに注いで飲む。
・食べるときに同時にスマートフォンを使わない。画面を見ないだけでなく、音声や動画を流しっぱなしにすることもしない。
・できるかぎり食べ物を捨てない。ただし、食べ物を粗末に扱うことで他者を評価しない。
・いただきます、ごちそうさまを言う。ただし、これらを言わないことで他者を評価しない。

身だしなみに関するもの
・メガネは毎日拭いて指紋やホコリがつかない状態を保つ。
・朝起きたら寝癖を整える。たとえ散歩でも寝癖をつけたまま家から出ない。
・部屋着で外出しない。たとえ自動販売機に行くのでも外出用の服装に着替える。
・サンダルで外出したとき、帰宅したらすぐに足を洗う。居室を経由せずに、すぐに足を洗う。

からだに関するもの
・背筋を伸ばす。肩を広げる。猫背にならない。ただし、猫背かどうかで他者を評価しない。
・キョロキョロしない。風景や町並みを観察するときは顔や手足をゆっくりと動かす。
・人と一緒に歩くときは、足元や相手の疲れに配慮して歩くペースを調節する。
・自分の性的な欲望に自覚的になるが、それをあからさまに表現しない。なおかつ、慎みの有無で他者を評価しない (「考え方に関するもの」の個別具体例ですが、自分にとって重ねて書く価値があると思ったので書きました。)

デジタル機器に関するもの
・デジタル機器の過剰な使用と適切な使用を区別するが、端末の使い方で他者を評価しない。
・日常生活や仕事において、作業と並行して音声や動画を流さない。ただし、作業と並行して音声や動画を流すこと他者を評価しない。
・寝室には端末、充電器をおかない。
・起床直後、服を着替えるまで電子機器は使用しない。
・スマートフォンをできるかぎり使わない。パソコンでできることはできる限りパソコンを使う。
・はてな匿名ダイアリーを読まない。ただし、はてな匿名ダイアリーを読むことで他者を評価しない。
・まとめサイトを読まない。ただし、まとめサイトを読むことで他者を評価しない。

検討中 (ルールとして採用するには漠然としているもの)
・出欠、参加不参加の連絡はできるだけはやくおこなう (「はやく」とはどれぐらい?)

関連文献

同時期に読んだもの、過去読んで記憶に残っていたもののなかから「教養」というテーマでひっかかった関連を紹介します。

村上陽一郎『あらためて教養とは』
科学史、大学制度史を踏まえてあり、偏差値・学校歴以外にも知的能力の価値判断基準が存在することを想像できてよかったです。

河東泰之『数学者の思案』
数学者の先生が物理の先生とは話が通じなかったことがありだからこそ話が通じる分野を見つけて驚く、というエピソードがありました。これも「常識」と「教養」の違いだと思います。

白カピバラの逆極限 S.144-3 『Twitter で医師を拾ってきてGoogleのソフトウェアエンジニアにするだけの簡単なお仕事』
お仕事がこなせるようになるためには、「教養」ではなく「常識」が必要である、という話でした。このブログ記事、採用されるためには能力が大事と言っているのですが、「地頭が大事」と読み間違えている人が多いように思います。「教養」を「常識」の意味で使う人もいるので、このあたりの言葉の使い分けが察知できるようになるために読んで良かったです。

山形浩生『新教養主義宣言』
「教養の書」が提唱する教養像と、その涵養方法は、映画や文学読解、認知心理学、科学哲学などに依拠しています。民主主義に参加する主体として、議論できることの重要性も主張されているのですが、「(個別の社会問題を考えるために) 使える教養」として具体的な知識を手に入れるには、こちらもおすすめです。社会制度の検討や未来予測的な思考力を鍛えられます。



いいなと思ったら応援しよう!