「7日間ブックカバーチャレンジ」…第7日目『未成年』
facebookからの轉載。本日執筆。
ドストエフスキー著。1875年刊。次は、海外文學から選びたいと思つた。それならロシア文學がいいと思ひ、ロシア文學ならドストエフスキーだと思ひ、それなら「ドストエフスキー五大長編」には入つてゐるが、「四大長編」には入つてゐない、位置付けの厄介なこの作品がいいと思ひ至つた。『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を選ぶ人は多いだらうから、敢へてこの作品を選んでみたかつたといふ思ひもある。
延々と靑年の獨白が續く。これにうんざりする人もゐるかもしれないが、この異常性にドストエフスキーらしさがあると感じる。そして、この作品は物語の起伏も弱いし、お馴染みの不快極まる筋金入りの異常者が出てくる譯でもない。
それでも、『未成年』の名の通り、親子關係が重要なテーマとなつてをり、ツルゲーネフ『父と子』やレールモントフ『現代の英雄』の親子關係とは趣向が違ふものの、それらより遙かに錯綜してをり、その複雜な關係に引き込まれ、考へさせられる。餘り顧みられない作品ではあるが、人間の非合理性・信仰・惡の追及・西歐主義とスラブ主義の對立等、ドストエフスキーの重要なテーマが盛り込まれてゐる。
餘談だが、この『未成年』は長らく絕版だつた。そのため、四大長編を讀み終へた後、『未成年』が復刊されることをひたすら待つた(以下の「復刊ドットコム」に投票したりもした)。
https://www.fukkan.com/list/req
暫くして、岩波文庫で復刊された。しかし、買はなかつた。ドストエフスキーは、新潮文庫で讀むと決めてゐた。その後、暫くして新潮文庫でも遂に復刊された。急いで、買つた。しかし、暫く讀まなかつた。これを讀んでしまふと、ドストエフスキーの全大作を讀んでしまふことになり、もつたいないと考へたからだ。最終的に、うちの本棚で數年寢かせた後、讀むに至つた。
ドストエフスキーには思ひ入れが强過ぎて、多くを語りたいとは思つても、何か空囘りしてしまふやうな感覺がある。これもどうでもいい私的な話だが、私が初めてドストエフスキーを讀んだのは、中學生の時だつた。中學3年生の夏休みの自由課題で、何か人がやらないことをやらうと思ひ、文學作品10作を讀み、10の感想文を書いた。そのうちの1つが、『罪と罰』だつた。もちろん、中學生ごときに內容を理解できる譯はなく、少々文學少年を氣取つただけのことだつた。それでも、普段私を褒めることのなかつた國語敎師が、それを讀んだことを妙に褒めてくれた。
高校生の時、受驗勉强にうんざりし、我が身を獄中の囚人に準へた。そんな時、逃避として讀んだ『死の家の記錄』や『地下室の手記』(彼以外の作品では、ソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィッチの一日』も同樣の意味合ひで)が、身に沁みた。一種の、救濟とも言ふべき感覺だつたかもしれない。云々。
以上のやうに、ドストエフスキーは人を必要以上に饒舌にする。ドストエフスキー體驗を語らせずにはおかない。自分自身も語つてしまふのだから、『未成年』の作中の冗長な一人語りも、許容しなければならない。寧ろ、樂しまなければならない。
バトンは、皇居勤勞奉仕仲間の卒田さんへ。宜しくお願ひします。