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小笠原諸島の神社 ~小笠原諸島紀行④

Shinto shrines in Bonin Islands

海外神社を調べてゐると、「日本人の行くところ神社あり」の聲が反響する。小笠原諸島でもまた、その聲を聞くこととなつた。

小笠原の神社を探るのも、今囘の旅の關心事であつた。そして、この島に獨自の神話とまではいかなくても(そもそも日本人在住の歷史に乏しいため、そこまで期待してゐなかつたが)、獨自の祭神を確認することはできるのであらうかといふことも。

私の小笠原滯在初日、東京からの船は11時に父島に到着。そして、12時に母島行きの船に乘つた。つまり、この日の父島滯在時間は、約1時間。この間、大急ぎで父島(といふより小笠原諸島)の中心的神社である大神山神社に參拜してきた。

折角だから御朱印を貰はうと思つたが、この時は時間が早いといふことで拒絕されてしまつた。小笠原滯在は船の關係で6日周期となるが、以下の通りそのうちの2日しか御朱印を受け付けてゐないので、この御朱印の貰ひ難さも魅力的である。こんなことからも、小笠原の特殊な神社事情の一面を知つた。幸ひにも、御朱印は最終日の出港の少し前に貰ふことはできた。

第一日目 東京→小笠原途上

第二日目 →11時父島到着(この日の午後から御朱印受付)

第三日目 受付せず

第四日目 受付せず

第五日目 15時東京へ向けて出航(この日の出航時間まで御朱印受付)→

第六日目 →東京

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神社からの眺望。大神山神社の名の通り、大神山といふ山にある。

この神社、御祭神が非常に興味深い。天照皇大神・譽田別命・天兒屋根命・天之御中主命・大物主命の五柱である。先づ目を引いたのは、天之御中主命。『古事記』では最初に現れる神として有名である(『日本書紀』でも現れるが、諸說の中の一つであり、存在感が弱い)。

天之御中主命(『古事記』での表記は、「天之御中主神」。因みに、『日本書紀』では、「天御中主尊」。『先代舊事本紀』も『日本書紀』と同樣。『古語拾遺』では「天御中主神」。「天之御中主命」の表記はどこから來たのであらうか)を祀る神社は、周知のやうにほとんどない(水天宮や妙見神社等の例外はあるが)。この神は、中世の伊勢神道や江戶後期の平田篤胤によつて重視されることもあつたが、特に近代の神學において重視される神である。そのため、近代的な解釋が加はつてゐるものと考へてしまふ。

實際、神社の由諸書では、「天照皇大神 譽田別命 天兒屋根命の三柱神に 天之御中主命 大物主命を合祀」とある。天之御中主神は、後に加へられてゐるのである。由緖書における神社の創建は、現在の大神山神社と一致するかは檢討が必要であるが、一應は延寶3(1675)年である。そのため、天之御中主神は近代以降加へられた可能性がある(そもそも、明治期に開拓民を本格的に送るまで、人自體が極めて少なかつたのであるから)。それにしても、尋常ならぬ御祭神の面々。それぞれを代表する神社を擧げれば、以下の通り。

天照皇大神…(伊勢)神宮

譽田別命…八幡社

天兒屋根命…春日大社

大物主命…大神神社

これら錚々たる御祭神に、宇宙の根源神天之御中主神を加へたやうな神社は中々ないであらう。そもそもこの神社の發端として、由緖書には文祿2(1593)年に小笠原諸島の發見者とされる小笠原貞賴が、父島到着の際「大日本天照皇大神の地」と書いた標柱を建てたと記されてゐる。

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それでは、どのやうに、天照大神以外の神が御祭神に加はつたのであるか。そこは、判然としない。この戰時中に、本土に遷座してゐる。そして、本土でも何度も遷座してゐる。その遷座先で、何らかの理由で加はつていつたのかもしれない。しかし、これも文獻で確認はできない。

但し、天照大神・譽田別命・天兒屋根命の三柱の神々が一箇所に祀られてゐることは、「三社託宣」といふものに思ひを馳せると、納得できる。これは、中世から江戶時代にかけて流行したもので、この三神の神號と託宣が一幅の掛け軸に書いてあり、信仰の對象となつてゐたものである。稀な例だが、京都の下御靈神社ではこの三神が末社「三社」として祀られてゐる。

このことは、近藤喜博『海外神社の史的硏究』(明世堂書店、昭和18年)の以下の記述でも裏付けられる。

「父島の大村の大神山の大神宮は、明治二十八年の再建にかゝると云へ、同社は曩に云へる延寶度巡檢の際、船頭島谷市左衞門等が大村宮の濱の地を相して一社を建立し天照大神の三柱を勸請したに剏ると傳へられてゐる。」

この情報の元は、山方石之助の『小笠原島志』でのやうであるが、原著は確認してゐない。それでは、大物主命はどこから來たのか。鳥取には、同名の「大神山神社」があり、そこの御祭神は大己貴神(大國主神)である。大物主神は、『日本書紀』では大國主神の和魂とされてゐる。これと關係があるかもしれないし、そもそも名前が似ている「大神神社」の御祭神が大物主神であるから、そこから分祀したのかもしれない。あるいは、ここの御祭神は天津神ばかりといふことで、國津神を入れようと考へたのかもしれない。

こんなことを考へてゐると大神山神社のことだけで長くなつてしまふので、次に訪れた神社について書きたい。父島で大神山神社を參拜し、直ぐに母島へ向かつた。母島へ上陸してからは、宿で荷物を置き、直ぐに港周邊の神社2社を訪れた。一つ目は、「月ヶ岡神社」。

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社務所の代用と思しきプレハブ小屋と、祠のみである。御祭神や由緖書の表示は一切ない。固有種の鳥が多い場所でもあり、雰圍氣は爽快である。廣い參道とその苔が印象的であつた。

ネット上では、「母島の氏神樣」と言はれてゐるやうで、例祭は11月23日(新嘗祭の日)に行はれるらしい。因みに、大神山神社の例祭は11月3日(明治節)。祭りの日は近く、關聯の祭りが兩島で同日に行はれるものもあるといふことも、面白い點である。

私は本土に「月ヶ岡神社」といふ神社があるかどうかを知らず、ここの神樣が何か特定も推測も困難ではあるが、ここが「母島の氏神樣」として認識され、祭祀もしつかり行はれてゐるのであれば、この土地にとつてはそれで充分なこととも思つてゐる。

ここから步いて10分程度だつたであらうか、集落の外れの邊りにも神社があるらしい。參道とは言ひ難い參道を行く。

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社務所代はりと思はれるプレハブ小屋は、潰れてゐた。社殿は、月ヶ岡神社同じく祠であつた。ここもやはり人氣はない。そもそも、神社としての表示も殆どない。神社として機能してゐるのだらうかと疑つてしまつた。

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しかし、後にネットで調べたとこと、この神社では盛大にお祭りが行はれてゐるらしい。これは不敬なことを思つてしまつた。ここは、「母島農業の先駆者の一人が御嶽信仰」を持つてゐたことに由來するさうだ。私が巡つた小笠原諸島の神社4社のうち、唯一本土からの分祀と明確に分かる神社であつた。

御嶽神社といふ名の神社は、本土にも少なからずある。しかし、御祭神は樣々である。そして母島の御嶽神社の御祭神の特定もできなかつたが、山岳信仰の神社であることは確かであるし、父島以上に「山」と親和性のある母島と調和してゐると感じたのも事實である。それにしても、小さな集落に2つの神社があり、どちらも盛大にお祭りが行はれてゐるといふ事實。惠まれてゐる島だと思ふ。

最後に參拜したのは、父島の「小笠原神社」。御祭神は、傳說上で小笠原諸島の發見者とされ、「小笠原諸島」の名の由來ともなつた小笠原貞賴。小笠原の核心に觸れられると期待して行つた。

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鉄筋コンクリートで、特に目立つた特徵はない社殿ではあつたが、ここに來た達成感はあつた。神社は港からは遠く、たまたま私の宿が僻地にあり、バイクを借りてゐたので參拜できたのだ。ここでの見所は、境內にある複數ある碑文であらう。

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「小笠原新治碑(にいはりのひ)」。小笠原諸島が日本領であることを示す最古の碑文である。建立の年は特定できないが、文久元(1862)年以降とのことである。

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「小笠原開拓碑」。明治10年制作。前出の碑と共に、小笠原開拓史を知る貴重な資料。

碑文はその他もあつたが、この神社、面白いのはこれだけではない。參道にバナナが植ゑてあつたり、境內にトーチカがあつたり、隣に小さな山があつたりする。近くには、祕密の軍用トンネルがあつたりもする。

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神社隣の山の頂。直ぐに山頂に登れるが、眺めはなかなかいい。

さて、この小笠原神社の御祭神は小笠原貞賴であるが、それをなぜ「傳說上」と斷つたのか。といふのは、文獻上、存在すら確認できないからである。文獻上確認できる最初の小笠原諸島の發見者は、長崎の嶋谷市左衞門といふ人物であり、幕命を帶び、延寶3(1675)年のことである。但し、その後は發見の事實も幕府により歷史の闇に葬られたやうで、この邊の調査は歷史の浪漫を感じさせる。

さて、その嶋谷が小笠原諸島より歸つて來た同年、小笠原長直といふ人物らが幕府に、「その島は元々父小笠原貞賴が發見したもの。次に船を出す際は、私を乘せてほしい」と訴へた。が、渡航は實現しなかつた。その27年後、長直の子と稱する長啓(ながのり)が、同樣に渡航願ひを幕府に出した。しかし、實現しなかつた。話はまだ終はらない。その25年後、長啓の子と稱する貞任が、同樣の渡航願ひを出した。遂に渡航は認められ、その6年後の1733年、出航した。この時、貞任は乘船せず、その甥を乘せた。しかし、渡航には失敗し、船は歸らなかつたといふ。

翌年、幕府による小笠原貞任の身元調査の結果が出た。小笠原諸島發見者とされる小笠原貞賴は、小笠原本家の系譜には存在しなかつたといふことが判明した。貞任は、身分詐稱の罪により、財產沒收の上、主要な町や街道から追放になつたといふ。それでも「小笠原諸島」に「小笠原」の名は殘つてゐるし、「小笠原神社」も存在してゐる。しかし、「小笠原貞賴」は信濃守護の家系ではないものの實在したかもしれないし、今後は「小笠原」の名に纏はる新たな歷史が發見されるかもしれない。こんな妄想に導くのも、小笠原諸島の魅力の一つなのであらう。

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神社すぐ近くの軍用トンネル。戰蹟としての魅力もあるのが、小笠原諸島である。

小笠原諸島の神社を巡ることで、神社の更なる多樣性を實感できたことは、この旅の大きな收穫の一つである。

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