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14. しつこく現象学 ~ 現代哲学からのハイデガーふりかえり

はじめに

概念モデリングに関する哲学的知見からの基礎付け、もう十分かなぁ…と思いつつ、書店に行くと、「あ、これも目を通した方が良いかな…」と、本を見つけてしまう今日この頃。
新宿コクーンタワーの Book 1st や、横浜地下鉄センター北の ACADEMIA をぶらぶらしてると、沢山目に入ってしまう…
今回は、現代哲学に多大な影響を及ぼしているハイデガーの現象学的言説を見ていくことにします。

あ、ベリサーブさんのサイトで、概念モデリングに関する連載コラムを始めたので、是非、ご購読ください。

【連載】概念モデリングを習得しよう:概念モデリングとは(第1回) | HQW! (veriserve.co.jp)

書籍紹介

今回とり上げる書籍は、

です。このコラム集の前の方で、フッサールの現象学や、マルクス・ガブリエルの新実存主義を紹介していますが、時代的に、ハイデガーあたりが抜けておるなと。それ言い出したらサルトルも…いや、フランス系だからとりあえずいいか…他にも遡ってパスカル、デカルトあたり?これも他の哲学者の言説に出てくるからいいか…って感じです。
他に、戦後の構造主義やポストモダンも関係しそうですが、それらが取り扱っているテーマは簡単にこのコラムの最後で触れますが、個人的には、後で言及する「疑似問題」なのでは?という気がしていて、”人生二巡目コラム集”の一テーマで書こうと思っています。

何故「存在と時間」?

私が哲学書を読み漁っているのは、あくまでも、概念モデリングの基礎付けという意味の場においてです。その観点からすると、今回とり上げる書籍の序文に記載の、

  • 「存在の意味」

    • 存在とは何かという存在論の観点からだけでなく、意味とは何かという言語哲学的な観点からも多くの検討がなされてきた

    • 存在の意味というトピックに対するハイデガーの見解の明確化→現代哲学における存在と言語の哲学的考察の重なりを知るための格好のルート

は、捨て置けないでしょう。今のところ、概念モデリングの基盤は、

  • マルクス・ガブリエルの新実存主義の”意味の場” ⇒ Conceptual Domain

  • ウィトゲンシュタインの言語哲学 ⇒ 概念情報モデル

    • インスタンス・プロパティ・意味的リンク

    • 論理空間 = 概念情報モデル

    • +数学の圏論

      • 圏Iのインスタンスの世界とそのスキーマである圏Cの概念情報モデル

  • カントの超越論的論理学 ⇒ 概念情報モデリングの組立(ア・プリオリ+綜合的論理展開)

あたりだと考えています。概念モデリングは、存在と意味を拾い上げて、記述する作法なので、当然、存在とは?意味とは?という問いにある程度の言説を持っていなきゃねって事。

前回とり上げた、カントの解説本もそうですが、単にある哲学者の言説を解説する書籍よりも、今現在のレベルの哲学論考に位置づけて解説してくれる書籍の方が、今の私の目的にとって、大変ありがたいです。

他の哲学者との関係

ハイデガーの「存在と時間」は、発刊されてから既に1世紀経っていて、様々な哲学者からの批判や論考をうけているとのこと。それらの批判、論考は、当然のことながら、ハイデガーだけでなく、私のこのコラム集でも取り上げてきた哲学者の論考も含まれています。更には、その時代時代のテーマというものもあり、それが論考に大きな影響を与えているようです。なので、関係する哲学者と関係しそうな出来事を時系列で並べてみました。

俺的哲学者年代表

眺めてみると、デカルト、パスカルとカントの間にちょっとだけ間がありますな。。。ま、いっか。

現代現象学 → ハイデガー = 実存論的現象学

現代現象学から見ると、ハイデガーは、実存論的現象学だそうです。
哲学には沢山の用語がでてくるので、その定義を拾いつつ読み進めています。

存在の多様性

”現象学”や”実存”、”存在”とは、

  • 現象学

    • 一人称視点から私たちの経験を探求する

    • 「私にとって」という方向性

  • 「存在と時間」における”実存”

    • 私たちにとってそれが問題であり重要であったり大切であったりする存在

      • 誰か ○

      • 何か ×

  • 存在とは何を意味するのか?

    • 存在者は多様の意義において語られる

    • その中で何が主導的で根本的な意義か

最後の”存在とは…”の二つの追及がハイデガーの問いの中心とのこと。
こう書くと、存在についての主導的で根本的な意義があるという回答に至りそうですが、そうはならないところが面白いところ。主導的で根本的なただ一つの意義が存在しないというのは、ウィトゲンシュタインの

「すべての語は指示表現である」という暗黙の前提は間違い

P33

にも通じ、マルクス・ガブリエルの意味の場にも通じるところです。

存在が多くの断片からなるのではなく単一的であるとすれば、存在の仕方はたった一つしかない。存在には何の様態もない。存在が多くの断片からなるものではなく単一的であるとすれば、存在は実在と同じ外延をもつものであり、実際のところ、実在と同一である。というのも、もし存在と実在が一つでないとすれば、実在は存在の一つの仕方であるはずだからである。

P48.  マクダニエルの言説

引用文からはちょっと伝わりにくいですが、ハイデガーもマクダニエルも、存在の多様性を認めずに単一のものとする着想を否定しています。

現代現象学における「存在とは何か」という問い

我々一般人は”哲学”といえば一つの流儀しかないように思ってしまいますが、沢山流儀があって、それぞれ見解が異なるようです。もしかすると哲学を少しかじっただけの人同士が議論すると、どの流儀の言説なのか意識が欠けている場合、まったく話が通じなくて、けんかになるかもしれませんね。

存在については、

  • 現象学

    • 存在は多様である

    • 「存在とは何か」が主要な問いである

  • 分析哲学

    • 存在は単一であり実存と同等である

    • 「何が存在するのか」が主要な問いである

と見解が分かれるそうです。一つ前に取り上げたカントは分析系なので、知覚対象に関する見解が一切なかったのは、そういうことだったか。。。

素人考えですが、「何が存在するのか」を問う前に、「存在って何なのよ」を問うのは自然な考え方に思えます。
物理学でいえば、量子力学以前と以後で、「存在とは何か」という問いの重要性が変わっています。ギリシャ時代から連綿と信じられてきたデモクリトスのアトム説が、量子力学の出現によって、粒子とも波動ともつかない、よく判らない存在で物理世界が構成されていると考えられるようになりました。今やものだけでなく、時間や空間すら確固たる存在とは言えない時代になっています。
モデリング全般でも、一般的には、「何が存在するか」という観点で、モデリングで抽出するべきものを見つけるという考え方が一般的だと思います。しかし、実際には、「抽出するべきもの=存在とは何なのか?」という問いとそれに対する理解がないと、適切なモデルは作成できないのではないかと、思います。
まぁ、ソフトウェア設計・開発で一般的に使われているモデリング技法は、コンピューティングテクノロジーの意味の場が暗黙的な対象になっていると思われるので、一般的にはあまり意識はされていないのかもしれません。しかし、実際にソフトウェアで実現するのはビジネス上の問題や、物理的制御なので、それらをモデル化対象とした時には、モデル化すべき「存在とは何か」という問いはとても重要でしょう。

余談ですが、Azure Digital Twins では、ビジネスの対象世界にデジタル空間上に写しを作るために、オントロジー(Onthology)のモデルを作成することになっています。Onthology の訳は、”存在論”だそうです。なので、がっつり、このコラムのテーマに関係していることになりますとさ。

行為 ‐ 世界と自己の関係

あくびをする、何の意味もなく腕が上げる、このような行為は意志が伴わないので、行為とは呼ばない、これが、古典的意志論理論とも呼ぶべきものだそうで、現代哲学の行為論の結論ではないとのことです。
単純な意図と身体動作が行為であるとしてしまうと、意志のないロボット(全てのモノに魂が宿るアニミズムが根底にある日本人からすると不満かもw)の動作は行為として解釈されないことになります。

ハイデガーの「存在と時間」においては、私たちが世界へと関わる基本的なあり方を「配慮的気遣い」とよび、「配慮的気遣い」とは、何かに従事するとか、何かを使用するとかの総称であり、それが行為に相当するそうです。
配慮的気遣いは、

「或るものでもって、或ることに際して適所が得られる」

という「適所性」の定式化があるとのこと。適所性は、或るものとあることの連関であり、適所性の連関は、連続する行為の順序や因果関係を述べるものではなく、世界の内での行為(配慮的気遣い)に伴う理解の形式を述べるものであるということ。
存在が様々に語られるのと同様、行為も様々に語られるものであり、それらの記述はランダムに並んでいるのではなく、そのれらの間には適所性と呼ばれる関連性がある。この関連性の一つの捉え方は、「理由」の関係である。
「理由」、「なぜ?」の問いを繰り返していくと、この連関には最終的な落としどころー「なぜ」の問いが枯渇するところーがあり、その意味で一定の組織性があることを、行為の分析にはにんしきしなくてはならない。ハイデガーの場合、行為の理解は、

  • 一方で行為者の自己了解へと問い進められる

  • 他方で道具的存在者の了解にむすびついている

よって、なぜそれをしているかの了解は、その行為において自らが交渉している存在者が何をするためのものかといった了解から独立ではない。
配慮的気遣いとしての行為という着想には、私たちの行為は志向性をもつという考えが含まれている。
志向性をもつとは、最も広義には、表現や振舞いが

  • 自分以外の何かへと「向けられていること(directedness)」

  • 何か「についてのものであること(aboutness)」

であり、これがフッサール以来の現象学的分析の原点にある考え方、だそうだ。確かに。。。

で、「行為に関する配慮的気遣い」の志向性と、「認識」の志向性は異なっていて、

  • 配慮的気遣い

    • これは~をするためのものである[行為述語]

      • 概念モデリング的には、インスタンス間の意味的リンク、または、概念クラス間の Relationship

  • 認識

    • これは~である[性質述語]

      • 概念モデリング的には、特徴値と概念クラス(インスタンス)の記述、または、概念インスタンスと概念クラスの記述

と、概念モデリングの道具立てとも一致する定義(というか意味?)になっています。実際、意味的リンクや Relationship の記述は[行為述語]と同等だし、なぜを考えると抽出しやすいというのも、また事実。概念モデリングは現象学的なのだね。。。

更に言えば、行為=「道具的存在者の配慮的気遣いないし交渉としての行為」という捉え方は、「認識」が配慮的気遣いからの派生態にすぎない、つまり、行為における私たちの世界へのかかわりには、広い意味での「認識する」という振舞いは含まれないのみならず、そのような振舞いが登場するのは行為が中断したり停止したりする場面だという考えである。

我々は普通、何か認識するから行為を行うと暗黙の裡に考えているものですが、それは違うよと、いうことです。

概念モデリングにおいては、行為述語と性質述語を含む存在の定義を概念情報モデルで行います。そして様々な判断など認識が必要な処理は、概念情報モデルを基盤とした、概念振舞いモデル(状態モデル+データフローベースのアクションモデル)で記述します。この構成、ハイデガーの「行為」と「認識」に関する考え方と同形な感じです。ほーって感じ。

それにしても、世界と自己の関係は”認識”ではない、説明を読めば納得できるけれど、ちょっと驚きです。

<環境世界>を日常的に配慮的に気遣うことのうちで、道具的に存在する道具がその<自体存在(An-sich-sein)>において出会われるようになるには、配視(Umsicht)がそのうちへと<没入している>種々の指示や指示全体性は、この配視にとって、まして非配視的な<主観的(thematisch)>な把握にとってはますます、非主観的にとどまっていなければならない。世界が自らを告げないということは、道具的存在者がその目立たなさから踏み出さないことを可能にする条件なのである。これらのうちで、こうした存在者の自体存在の現象的構造は構成されている

P79

”配視”とは、指示連関の知覚のこと。

ハイデガーの行為論は「実存論的行為論」であり、それは、

自分は誰なのかという点から自己を了解する実存の構造連関に基づいて行為を説明するような見方である。

P90

だということで、言葉が近しい”実存的”とは異なる意味なので注意が必要。そして「自己了解」とは、行為について、「なぜそれをするのか」という理由の連鎖の終着点である「私が何を欲しているのか」への言及である。

知覚 ‐ 感覚所与でなく「対象」を見る

人間はどうやって対象を知覚するのか、という問題。
ラッセル(分析哲学の祖の一人)をはじめとするイギリスの哲学者によれば、私たちが直接に経験しているのは、その都度の色、形、音、匂い、方さ、手触りなどであり、これらを直接意識している経験は「感覚」、これらの感覚されているものは「感覚所与(sense-data)」と呼ばれる。そうだとすれば、私たちが直接に経験しているのは一定のテーブルといった対象ではないということになる。その結果

  1. そもそも実在のテーブルはあるのか

  2. もしあるのなら、それはどんな対象であり得るか

という深刻な哲学的難問が生じていたのだそうだ。
P110辺りの、水の中の棒の例など、興味深い。棒が曲がって見えているのに、まっすぐの棒だと知覚している理由は何なんだ…なんていうのは、考え出すときりがない。
ハイデガーによれば、「感覚所与を見ている」が理論的に構築された間違った前提であるとしている。

… つまり、ハイデガーによる知覚の考察は、一定の言語を理解している人が対象を何らかの意味においてみている、という状況から出発している。別の言い方をすれば、この出発点において、言語を習得することと世界を特定の仕方で知覚する能力を獲得することは不可分である。感覚所与でなく対象を見る、という場合には、このように、知覚に言語理解や概念能力の関与を認めることになる。
或るものを何か「として」ー 何らかの意味において ー 見るというハイデガーの議論の背景に、フッサール『論理学研究』があることは疑えない。…

P111

フッサールによれば、質量は、「作用がそれをどのようなものとして統握するか」を規定する特性であり、「統握意味」とも呼ばれる。なるほど、私が何かを<赤いリンゴ>として見る経験は、「赤いリンゴが落ちる」という文を発話したり、リンゴという語の意味を説明するような言語的経験とは異なる。しかし、一定の意味において対象に関わるという点で両者は共通している。意味の理解は知覚においても単に付随的なものではない。
ここで重要なのは、私が対象へと関わる仕方は意味(質料)が規定するという論点である。別の言い方をすれば、何の意味内容をも示さずに、相貌が一切かけた対象へと関わるということは、知覚には(あるいは想像にも、およそ作用一般に)できないということである。私が志向的と呼べる作用を遂行するには、それが何かしらの相貌において自己を示すような何かに向けられていなくてはならないのである。それゆえ、感覚所与ではなく対象を見ているとは、まず、むき出しの対象なるものを見ていて、次に、何らかの意味を付加する、ということではない。私が感覚所与ではなく赤いリンゴを見ているということは、現象学的に言えば、私はある対象を<赤いリンゴ>として見ているのであり、その知覚は<赤いリンゴ>という意味によって規定された仕方で対象に向けられているということである。

P113

大事な点なので、ちょっと長めの引用をしました。これ、概念モデリングをやる時の心構えだなと。知覚と言語が不可分というのも、概念モデル=言語の別表現という流儀に一致。
ある対象は見る角度や視点によって変化して見えるが、知覚されるものそのものの有体的自同性がずっと維持され、事物は自らの種々のアスペクトにおいて射影するが、ある射影が思念されるのではなく、ある射影においてその都度知覚される事物自体が思念されるのである、という言説は、概念インスタンスの有体的自同性につながると思われる。

知覚は私たちが行う何かであって、勝手に生じるものではない。「何かをするために知覚する」ことが「日常的な種類の知覚」とされる。このような知覚は、「事物を真正に配慮的に気遣いつつ使用することを導く見方」としての「配視」と名付けられている。「配視」は意味の場を元にしたモデリングにおける知覚として必須であろう。

配慮的な気遣いの<見渡しつつある>配視は、その都度使用したり従事したりしている現存在に、見られているものを解釈するという仕方で、道具的存在者を接近させる。配慮的されたものを配視的 ‐ 解釈的に特有の仕方で接近させることを、私たちは考量と名付ける。考量に固有な図式は<もし~であれば…であろう>である。例えば、これこれのものが制作され、使用され、防止されるべきであれば、これこれの手段、方途、事情、機会が必要であろう、というように。配視的考量は、その配慮された環境世界において現存在のその都度の事実的な情勢を照らし出す。

P131

配視的考量は、概念モデルの作成において、また、作成したモデルの妥当性の検証においても必須。これを意識しながら概念モデルを作成すると、より妥当なモデルが作成できるのではないだろうか。

概念モデリングとは直接関係ない(多分)のだが、P140 付近の倫理に関する言説、

自己了解なく、単に規範に従って行動しているだけ(一般的情勢しかみていない)なら自分で行為を選択しているとはいえない

P140付近の要約

実存論的現象学から考えれば、そんなものは倫理的ではないよというのはなるほどな、という感じ。これ、他人に対して、良かれと思ってやったことが、当の本人にとって本当に良いことではないこともある、という哲学的解説になるんじゃなかろうか、などと感じながら読んだ次第。

情動

多分、組込み制御系のモデリングなら、情動に関する考察は必要ないと思う。しかし、ビジネス系なら、体験や感動を売るサービスは多いと思われるので、ビジネスモデルのモデリングには情動もモデル化対象に含まれると思われる。
情動とは、

「感じ(feeloing)」と呼ぶべき心的状態である。何かを信じたり、何かを欲求したりするといった心的状態に並んで、恐れを感じるとか怒りを感じるといった一群の心理状態があり、それらが情動と呼ばれる。

P146

日常的には「感情」と呼ばれるものに近い。ここでは詳しい解説はしない(書籍読んでー)が、古典的には、内的に起因する主観的経験で、いわゆる「感じ」という見方が行われていた。現代の「情動の哲学」においては、単なる「感じ」ではなく、志向性をもった経験の一種として扱う。

気分は、<外側>から来るのでも<内側>から来るのでもなく、世界内存在の在り方として世界内存在自身の方から立ち上がる。しかしこうして私たちは、<内面>を反省しつつ把握することに対して、情態性を消極的に画定することを超えて、その開示正確への積極的洞察にたどり着く。気分は、そのつどすでに世界内存在を全体として開示してしまっており、何かへと向けられていることをまずもって可能にする

P158

「気分」などの「情動」を、一定の気分において自己を見出す仕方である「情態性」としてとらえなおす。
要するに、物憂いとか、悲しい、怖い、嬉しいという情動は、それだけが単に心に立ち上ってくるのではなく、存在者が世界において何らかの事象と向き合っているから生まれてくるんだよ、その様態をちゃんと見ようぜ、ということらしい。
情動を人間のうちからなんとなく湧き出てくる気分としてとらえると、モデル化が難しそうだが、それに関連する事象群とその情動の関係に目を向ければ、その情動を世界(意味の場)に存在する事象群の状態としてモデル化できそうに思える。AI による感情検出(普通は顔の表情:画像認識でやっていると思うが、なかなかね)においても、これを踏まえれば精度は上がるのではないか?

他者とのかかわり

私たちは他人の心をどのように理解できるのだろうか。他人が何を考えているのか、何をするつもりなのか。こうしたことは、理解がとても難しいように思われる。あるいは、理解できるとしても、その理解は他人の心のごく一部にしか及ばないように思われるだろう。哲学者のなかには、さらに進んで、そもそも他人の心は全く知りえないのではないか、そもそも他人に心があるのかどうかさえわからないのではないか、と懐疑を深める者もいる。この種の問題は「他我問題」として哲学の難問リストに数え入れられている。

P170

そうだよね。難しいよね。「他人の心なんて丸わかりさ!(笑顔)」なんて奴はいないよね。。。そもそも自分の心を正確に把握しているのかも怪しい。
ビジネス系では人間もモデル化の対象になることが、まま、あるので、ここでも、何をモデルの要素として抽出するかの基本に関わることだと思われる。
冒頭で書いた通り、現象学は、「一人称の観点から私たちの経験を探求する」のであり、「私にとって」という方向性が大事。だから、この一人称の世界の原存在がたくさん併存しているというのが立脚点。
あ、「原存在」というのは、”自分自身について何らかの存在了解を持っている存在”ね。
他に、「道具的存在」というのがあって、例えば、ハンマー。何かの目的で釘を打ち付ける、という様な現象の中で意味が付与されるような存在。
このテーマは、書籍の「第6章他者の心」で解説されているんだけど、ハイデガーの言説が要約されて提示されている部分が見つけられないのがつらいが、

ハイデガーにおいて最も基底的な他者関係とは「共存在」である。世界の内に存在することにとって自分だけでなく他社が一緒に存在していることは廃棄不可能な構成要素であり、さしあたりは自分だけで孤独に存在してる世界に時折生じる出来事ではない。ということは、他者の存在は、時折関係をもつにすぎない何かではなく、自分の存在を成り立たせる要素として最初から世界内存在に組み込まれている。いわんや「自己の複製」で済まされるわけがない。
世界内存在するという現存在のあり方のなかで、私たちは他者に常に既に出会っている。その出会いをハイデガーは「世界の方から」という風に特徴づける。

P184

う~む。。。
ポイントは、「情動」とか「感じ」とか、対象そのものを深堀するのではなく、それらが立ち上がる状態(いや情態か)や様態を深く考察するということですかね。この様なやり方は、知覚や行為に対しても取られているので、実存論的現象学の常套手段なのでしょう。
概念モデリング的には、道具的存在者も現存在も、ある概念クラスをひな型にする概念インスタンスとして記述・表現されて、概念クラス間に張られた Relationship をひな型とする、意味的リンクをもつ、つまり、概念インスタンス間の意味的な関係性を記述・表現することになる。
概念インスタンスは、それ単体では意味というか存在意義というか(言語理論の文の意味ではないということ)は確定せず意味的リンクの方がむしろ主導的に意味・存在意義を決めることを考えると、これ、もうすでに現象学に全く矛盾しない記述・表現なのではないかと思われる。
加えて言うならば、現象学で重要なのは、存在の間の関係にあり、存在の意味付けは存在そのものというよりは、関係にあるので、概念モデリングにおいても、概念クラスの抽出も大事だけど、Relationship の抽出はもっと大事だよってことか。概念モデリングにおいては、現存在と道具的存在者の区別は特にしなくても良いと思われる。

疑似問題

… 哲学的問題のように見えるもののなかには本当に問うべきものと、重要な問題に見えるだけで実際には無意味な問いがある …

P195

超ざっくり言ってしまうと、”検証不可能な言明は無意味であり、その言明をあれこれ検討することに意義はなく、問うに値しない問いである”ということ。
代表的なのが「形而上学的問題」。存在に関しては、

  • 実在論者

    • 外的世界は実存する

  • 観念論者

    • 外的世界は実存しない

に関して論じるのも”疑似問題”。

そもそも世界が存在するのかとか、この存在は証明されうるのかといった問いは、世界内存在としての現存在が立てる問いとしては ー 他の誰が立てるというのか ー 無意味である。
<哲学のスキャンダル>は、この証明が今もなお欠けていることではなく、そうした証明が繰り返し期待され試みられていることのうちに存する

P198

ちなみに、<哲学のスキャンダル>はこのコラム集の前の投稿で取り上げた、カントが言った言葉だそうで、カントは、”証明できないこと”をスキャンダルと考えたのに対して、ハイデガーは”繰り返し試みられていること”がスキャンダルと考えた点に違いがある。なぜならそもそも疑似問題だから。
そういえば、前に採り上げたマルクス・ガブリエルの「世界は存在しない」、これも疑似問題なのではなかろうか。こちらの方は、”存在は、複数の意味の場において、実存する”という言説が主題であり、ハイデガーの考え方とも矛盾はしていないように思える。

外的世界の存在問題について、もう少し詳しく書いておきます。
ハイデガーにとってこの問題は、”「世界内存在としての現存在が立てる問いとしては」無意味である”ということで、科学的立場における現存在にとって疑似問題であると言っているわけではないとのこと。つまり物理学者が量子力学や超弦理論、統一場の理論、相対性理論なんかを駆使してこの宇宙(世界)を探求したり、気候環境学者が地球上の状態を調べたりすることが、無意味であるとは言っていないということ。なので、技術系の読者さん達安心してね。
とすればだよ。やはりマルクス・ガブリエルの”意味の場”は、無意味とか疑似問題とか断定することはできないって理解でいいだろう。

疑似問題に陥らないためには、”日常的観点”をとることが重要だとのこと。

私たちが、自分が誰であるとか何であるかを特定するときにはいつでも、「世界」のほうからそうするというのは、私たちの日常的実存の顕著な特徴である。 … 中略 …
自分が誰だあるかは私たちが世界に実践的に関与している仕方に深く規定されているので、これ以外の方法で自分が誰であることを特定することは不可能である。実存反中の存在論的水準では、ハイデガーは、この特徴を現存在は「世界内存在」であることで表現しており … 以下略

P201

思春期にありがちな”自分探し”、あれも疑似問題だよなと。
自分探しに限らず、日常生活でも仕事でも政治の世界でも、疑似問題があふれているれているように思える。ビジネスモデル作る時もシステム作る時も製品作る時も、疑似問題に陥らないよう注意が必要。
ちなみに、疑似問題を概念モデルで表現することは可能(だって、疑似問題は言葉で紡げるからね)なので、自分が対面している意味の場が疑似問題なのか、違うのか、判断をつけるのは難しいと思われる。しかし、行為のセクションで紹介したような、なぜの連関をやると、有意ななぜに行き着かないのではなかろうか。今度やってみようと思う。

作成した概念モデルが、対面している意味の場を全て網羅しているのか、あるいは、正しく射影しているのか、判断は難しい。しかし、日常的観点からすれば、

われわれが世界の存在を確実に知りえないということは、真実である。その存在に対するわれわれの関係はもっと深い ー その関係のなかで世界が承認される、言い換えれば、受け容れられる。私なりの言い方をするなら、存在とは承認されるべきものである。

P203

(これが承認欲求の根源か?と思わないでもないが)、作成したモデルの妥当性は、作成者以外も含めた関係者の承認といえるだろう。フッサールの現象学の時に書いた話と同じ。

とはいえ、疑似問題に拘る、つまり無意味な問題の真偽に拘る、”懐疑論者”は世の中にいる。そこから抜け出すには、

懐疑論的な発問も最終的には私たちの生活に根付いていること、そして、その発問が生じる基盤としての日常的な世界内存在へと目を向けなおさせることにある。日常的な世界内存在において私たちは世界に親しんでおり、世界の方から自己自身を了解する。会議に心をかき乱された者たちに、世界への親しみを回復させ、ついに、外的世界の証明を試みることをやめさせる

P207

だとか。う~む… 陰謀論に染まった懐疑論者を改心させるのは難しいだろうな…というのが私の素直な感想。

そういえば、前の引用に”実存”という言葉が使われていました。”実存”の意味は、

ハイデガーが「私は存在する」と言うときに「存在」で意味しているのは「実存」である。ハイデガーによれば、「原存在があれこれの仕方でそれへと関わることができ、常に何らかの仕方で関わっている存在そのものを、私たちは実存と名づける」。目下確認したいのは、実存は自分が「誰か」という点で問われることであり、「それぞれ私のものである」という性格で特徴づけられるということである。つまり、実存としての私の存在を了解することには自他の区別が含まれている。

P88

だそうです。存在とか実存とか現存在とか実存論、実存論的…似たような用語が沢山出てきますが、ちょっと違うだけで意味はかなり違っていたりするので、注意深く読まないとね。

本書の”7.疑似問題”の最後の方に、形而上学や言語学に絡めて

私は、ハイデッガーが存在と不安について考えていることを、十分よく考えることができる。人間は、言語の限界に対して突進する衝動を有している。例えば、或るものが存在する、という驚きについて考えてみよ。この驚きは、問の形では表現され得ない。そして、答えは全く存在しないのである。我々がたとえ何かを言ったとしても、それは全てアプリオリにただ無意味でありうるだけなのである。

P213

という、ウィトゲンシュタインの考えが紹介されています。そして、更に、

私を理解する人は、私の命題を通り抜け ー その上に立ち ー それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ捨てなければならない。)/ 私の諸命題を葬り去ること。そのとき世界を正しく見るだろう。

P215

という衝撃的な言葉が。。。え?すべてナンセンスって。。。
まぁ、単に人の語りを真に受けて思考停止しないで、自分の頭で考えろってことですかね。。。

以上で、ハイデガー調査は終了。本来の目的である、概念モデリング基礎付けに関するトピックを纏めておきます。

  • 概念モデリングは実存論的現象学と相性が良い

    • 存在を規定するのに、概念情報モデルは妥当(概念モデリングの用語を対応付けられる)

    • 概念情報モデル(圏C)をスキーマとした圏Iのモデルは、様態の記述として使える

  • 概念モデリングにおいて

    • 各存在(概念インスタンス)を意味づけるのは存在感のかかわり方(意味的リンク)であり、後者が特に重要

    • 各存在、関わり方の抽出において、なぜを問うことは有用

    • 作成した概念モデルの妥当性は、関連する人達の承認による

概念モデリングは Shlaer-Mellor 法をベースにしています。Shlaer-Mellor 法では、概念情報モデルに相当するモデルを、”オブジェクト情報モデル”と呼び、このモデル、及び、動的振舞いを記述するモデルを作成する過程を、”オブジェクト指向分析”と呼んでいました。哲学的には、”分析哲学”と”現象学”はかなりアプローチが異なっています。今回見てきた通り、概念モデルの作成は、分析的な作業というよりも、現象学的な作業でした。そういう意味では、”オブジェクト指向分析”というネーミングが妥当だったのか、少々疑問です。「対象となる意味の場を分析するぞ」という意識だと、概念モデルの作成は難しいかもしれません。むしろ「現象学的に存在と存在間のかかわりを抽出していく」という心持の方が、妥当なモデルが出来上がる気がしています。で、出来上がった概念モデルを使って、あれこれ意味の場のありようの検討を行う、この過程は正に分析的なのかな、というのが私の見解。
ただし、概念モデルそのもの定義や意味付けについては、もちろん、カント流のア・プリオリな綜合的分析が必要なのは間違いなし。

構造主義 ~ おまけ的に

このコラム集の流れ的には、このテーマも一つの独立した記事にした方が良いのかもしれないが、ハイデガー以降のこのあたりの言説、ハイデガー流にいえば、全部「疑似問題」なんではないの?というのが素直な感想だったので、ここにまとめておくことにします。

書籍紹介

参考にしたのは、

です。この本は、構造主義、モダン、ポストモダンの思想の流れがまとめられています。

構造主義とは

カントにおいて、表象体系を構成するのは、各人が超越論的主観としてア・プリオリに分有する普遍的な形式であるとされた。この形式が実は経堂主観的な形成体であり、したがって、表層体系を個々の文化に固有の構造をなすと考えるのが、構造主義であると言ってよい。
この場合、表象体系はア・プリオリな必然性の上にではなく恣意性の上に築かれることになり、従って、差異の共時的体系としての象徴秩序という形でとらえなおす必要が生じる。そのような体系の典型は、言うまでもなく、言語に求めることができる。
こうした理論的進展にもかかわらず、基本的な構図はカントのそれとさして変わっていない。構造主義が象徴秩序に注意を集中し、その外について語るのを拒否する時、そこに観念論の現代的形態を見てとることができる。

P144

観念論とは、カントが否定しなかった”物自体の存在”(語りえぬものの領域とした)を、物自体を無として抹消するという、一歩進めた形にしたもの、である。

また、構造の構築において、内部と外部という二元性の二項対立の解消が「脱構築」。

  1. 内部に対し、第三者が位置する外部がある

  2. 次に近代の段階となり、内部/外部が脱構築されて循環する

    1. この段階においても、内部/外部の二元性が前提となっている。

  3. 内部/外部の大きなペアを立てることなくして、いたるところ外部だらけだ、という描像を採用する。

    1. この外部性のことを本書では『力』と言っている

    2. 異質な力が、互いに「外部同士」として交錯する

      1. 特権的な、唯一の外部性を立てない

しかし、どこまで行っても内部と外部は残るので、脱構築の循環が続く。近代では差異化がカネになるので、万人の万人に対する競争が続くが、その競争は内面化される。

追いつくべき理想的な自己を想定し、それに「まだ足りない」自己がいる。そのために、近代的主体は、「自己自身に対して負った負債を埋めようとしてむなしく走り続けることになる」(二七〇頁)。こうして『構造と力』は、最後に、近代的主体の焦燥感に駆られるあり方を批判するものとなっていく。それが、ポストモダン論である。

P303

2000年を挟んだ±20~30年を生きてきた身としては、説明に出てくるさまざまな事例や考え方について、あ~あのことね、とか、そういう人いるよね…などと思いながら読み進めました。

攻撃性と性欲、競争を基本に置く?

基本的に、フロイトの心理学や二度の大戦、資本主義が影響しているのだと思われるのですが、人間の特性として

  • 性欲

  • 暴力

が、根底にあるというところから言説が組み立てられているように思える。影響を受けていると言えば、カントは、ニュートン力学的な時間と空間にしばられている。ハイデガーもそんな感じなので、哲学者が生きたその時々の時代の趨勢に影響を受けるのは仕方がないですね。
他の場でも書く予定ですが、映画のマッドマックスシリーズなど、70年代終盤の第一作目から最新作のフェリオサまで、内容が前半は、構造主義とかポストモダンの影響をすごく受けていて、3作目あたりからその影響が薄れているように思えるのが、興味深いです。

残念ながら、というか、幸運にも、構造主義については、概念モデリングの基礎付けになりそうな話はなかったので、ここまでとします。

この本、何しろテーマが多いので、もっと読みこめば、色々と発見することもありそうな気もするのですが…とりあえず、ここまでとします。

最後に

あ~。。。また、読書メモ的なとりとめのない内容になってしまった。。。
ここまで読み進めた読者ってどれぐらいいるんだろう。。。
まぁ、書籍じゃないから


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