角岡伸彦/フリーライター

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角岡伸彦/フリーライター

かどおか・のぶひこ。大阪市在住。 https://kadookanobuhiko.tumblr.com ☜旧サイト https://twitter.com/kadookanobuhiko ☜Twitter kadonobu@ymail.ne.jp ☜連絡先

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    時々更新。

  • 神戸、辞めてどうなるのか。[1]「誰に何を伝えるか」 全4回

    地方紙を中途退社した記者たちを追った「神戸、辞めてどうなるのか。」の第1回。「誰に何を伝えるか」全4回。

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プロフィール/ 著書解説

【プロフィール】 角岡伸彦 かどおか のぶひこ 1963年、兵庫県加古川市生まれ。関西学院大学社会学部を卒業後、神戸新聞記者等を経て、フリーライター。大阪市在住。 旧サイト:角岡伸彦 五十の手習い Twitter:twitter.com/kadookanobuhiko 連絡先 kadookanobuhiko-01@yahoo.co.jp 【著書解説】「ノンフィクションにだまされるな!」 百田尚樹『殉愛』上原善広『路地の子』のウソ やしきたかじんと妻の純愛ストーリーを

    • 1984 五十日間中国ひとり旅 中

          若いからこそ、できる旅がある。怖いもの知らずで、細かいことにはこだわらない。見るものすべてが新鮮で、性格はまだひねくれていない。今とは真逆である。  今から40年前の1984年、大学2回生で二十歳だった私は、夏休みを利用して中国へ旅立った。香港から広州、桂林をまわり、交通の要衝である鄭州へと向った。桂林――鄭州間は、鉄路で約20時間。寝台のない「硬座」で過ごす。以下< >内は、帰国後に書いた紀行文である。 <真夜中に乗った列車は、桂林からの始発ではないから当然、座席は

      • 1 9 8 4 五十日間中国ひとり旅 上

         人生初めての長旅は、外国人観光客を受け入れて4年しか経っていない中国だった。  1984年だから、今からちょうど40年前になる。私は大学2回生で、経済力こそ無いものの、気力と体力だけはあった。  夏休みが始まった7月初旬。腹巻型の貴重品入れに、香港往復の航空チケットと現金20万円余りをしのばせ、伊丹空港を飛び立った。2カ月弱の旅程である。  香港・啓徳空港は、市街地からさほど離れてないところにあって、着陸のため低空飛行に入ると、高層アパート群が手に届きそうなくらい近くに感じ

        • たんじょうびの前後 夏休みの日記

              ある朝、目をさますと、自分が大きな虫ではなく、10歳にもどっていることに気づきました。体は60歳のままです。うれしいような悲しいような…。  小4にもどったぼくは、作文はにがてですが、夏休みの日記を書いたので、一部をここに公開します。  8月4日 京セラドーム大阪に、ロッテ対オリックス戦を見に行きました。家から歩いて15分でドームに着きます。大阪に住んでいるぼくは、10年以上もまえからオリックスのファンです。  野球かんせんの日は、べんとうをつくって持っていきます。

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        • 神戸、辞めてどうなるのか。[1]「誰に何を伝えるか」 全4回
          4本
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        記事

          「神戸、辞めてどうなるのか。」私篇③

             姫路と聞いて、読者は何を思い浮かべるだろうか? やっぱりアレに違いない。  89年に神戸新聞に入社した私が、姫路支社に配属され、まずは事件・事故担当のサツ回りとして記者生活が始まった話は、前回書いた。  最初の数週間は、加古川市の自宅から半時間ほどかけて電車通勤していたが、サツ回りには定時がない。何かコトが起きれば、すぐに駆け付けなければならないので、姫路警察署に近いアパートに住むことになった。先輩記者が見つけてきた物件である。  1LDKのアパートは姫路城から指呼の距

          「神戸、辞めてどうなるのか。」私篇③

          「神戸、辞めてどうなるのか。」私篇➁

              先日、毎日新聞東京本社の藤原章生記者から、大阪に行くので会えないかという連絡があった。当ブログの22年2月の「神戸、辞めてどうなるのか。 私篇①」で触れたが、藤原さんと私は、88年に神戸新聞の入社試験を受けた   ”  同期 ” である。  彼は毎日新聞にも合格し、そちらに入社した。私よりふたつ年上で、大学を卒業後、住友金属鉱山でエンジニアとして勤めていたが一念発起し、27歳で記者に転身した。南ア、メキシコ、イタリアなどで海外特派員を長らくつとめ、今は日本に帰ってきて

          「神戸、辞めてどうなるのか。」私篇➁

          活字と映像のオッペンハイマー

              3月末から、アメリカ映画『オッペンハイマー』(監督・脚本:クリストファー・ノーラン、主演:キリアン・マーフィー)が公開されている。先の大戦で、原子爆弾の開発にたずさわった ” 原爆の父 ” の生涯を描いた作品だ。  今年のアカデミー賞で、作品・監督・主演男優賞など7部門において受賞したものの、被爆国・日本での上映は危ぶまれていた。無事、公開の運びとなり、すぐに観に行った。  過去と現在、過去と過去が行ったり来たりして、私にはわかりづらい内容だった。登場人物も多い。あれ

          活字と映像のオッペンハイマー

          鰻とフランス革命

              当ブログの設立や運営・管理は、すべて安藤滋夫君に委ねている。デザインはもとより、著書解説まで書いてもらった。しかも無料で。そもそも、歴代パソコンの購入からセットアップ、メンテナンスに至るまで、すべて世話になっている。  彼の本業は、障害者のヘルパー。95年の阪神・淡路大震災後、京都からボランティアとして駆け付け、それ以来ヘルパーとして神戸に通っている。障害者の取材をしていた私と出会い、以降ほぼ30年の付き合いになる。  冗談ではなく、私は性格がひねくれているので、人付

          第7回角岡伸彦ノンフィクション賞 発表&選評

            取材と執筆は、短い時間で仕上げられれば、それにこしたことはない。だが、短時間でこなしたものが、いい作品であるとは限らない。もっと時間をかければ、深みのあるルポになっていたのになあ。そう思わせるものが少なくない。 『芝浦屠場千夜一夜』(山脇史子、青月社、2023年)は、ケタはずれに時間をかけた1冊である。ライターの著者は、ペンをナイフに持ち替え、1991年から長期間にわたり、牛や豚を解体する東京・品川にある芝浦屠場で働いた。  <最初は一週間だけのつもりだった。それが、七年

          第7回角岡伸彦ノンフィクション賞 発表&選評

          釜山の浦島太郎

             長期刑を終え、娑婆に出たら何もかもが変わっていた――。そんな気分だった。  2月下旬の4日間を韓国・釜山で過ごした。初めての釜山訪問は1988年で、2回目は94年である。その間は、特に大きな変化はなかった。それからの ” 刑期 ” が長かった。今回は実に30年ぶりである。  街のあちこちに超高層住宅が林立し、その変わりように目を見張った。そのほとんどが50階建て以上で、ペンシルビル状の細長い建物が、つくしのようにニョキニョキと群生している。 「プサンは地震が少ないですか

          徳島県が生んだ世界の偉人⁉

            1月中旬に徳島県にある鳴門市賀川豊彦記念館を訪ねた。牧師、農民・労働・生協運動の指導者であり、社会事業家でもある賀川は、1888年に神戸で生まれたが、幼くして両親をなくしたため、4歳から16歳まで両親の故郷の徳島で過ごした。  JR鳴門駅から路線バスに揺られて約40分。赤レンガと白壁の記念館が山裾に建っている。駅前の観光案内所でもらった記念館のリーフレットによると、寄付金によって2002年に開館したとのこと。  神戸と東京にも同様の記念・資料館はあるが、2館とも教会と併設

          徳島県が生んだ世界の偉人⁉

          さよなら、にぃまるにぃさん

             今はインドア派だが、子供のころは野球少年だった。小学3、4年生のとき、ソフトボールを始めた。小6時に地域チームのキャッチャー&キャプテンの大役をおおせつかり、小学校区で優勝した。  地元の公民館で祝勝会が開かれ、ジュースで乾杯したあと、チームメイトに胴上げされた。体が舞うごとに天井が近づいてきたことを今でも鮮明に覚えている。あれが人生のピークだったかもしれない。  にぃまるにぃさん(2023年)は、まさに野球イヤーであった。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で

          さよなら、にぃまるにぃさん

          『春いちばん』再読 ③

           賀川豊彦(1888-1960)の妻・ハル(1888-1982)を主人公にした小説『春いちばん』(玉岡かおる、家の光協会、2022年)を読み直し違和感をおぼえたのは、賀川の偉人ぶりやハルの夫に対する従属性だけではない。彼女の容貌に対するコンプレックスの記述が異様に多いのだ。  賀川は明治の末期、神戸・新川のスラムで、キリスト教の伝道と救貧活動を始めた。それらの体験を含めた自伝的小説『死線を越えて』(改造社、1920年)で、自らの恋愛・結婚観や、ハルとのなれそめを詳しく書いてい

          『春いちばん』再読 ③

          『春いちばん』再読 ➁

             キリスト者で生協や農民組合の創始者、なおかつ100万部を超えるベストセラー『死線を越えて』の著者である賀川豊彦(1888-1960)は、戦前戦後を代表する著名人の一人である。  その妻の生涯を描いたのが『春いちばん  賀川豊彦の妻ハルのはるかな旅路』(玉岡かおる、家の光協会、2022年)だが、夫のキャラクターが濃すぎて、主人公の影は薄い。  ハルは賀川と同年生まれで、尋常高等小学校を卒業後は、女中奉公を経て女工となった。成人後に洗礼を受け、賀川と結婚した。  当ブログの

          『春いちばん』再読 ➁

          『春いちばん』再読 ①

           以前に賀川豊彦と部落問題について調べたことがあるので、今春に『春いちばん 賀川豊彦の妻ハルのはるかな旅路』(玉岡かおる、家の光協会、2022年)を読んだ。  賀川はそれほど立派な人間か? そんな疑問から彼の生涯を追うと、社会的弱者の淘汰を目論む優生学の信奉者や、最終的には戦争賛美・協力者であったことがわかってきた。 『春いちばん』を初めて読んだときは、賀川と部落問題に関する知識しかなかった。彼の全体像が浮かび上がってきたところで、同書を読み直した。最初に読んだときより、さら

          『春いちばん』再読 ①

          賀川豊彦の資料館に行ってきた

            7月末に上京した際、世田谷区にある賀川豊彦記念松沢資料館に行ってきた。賀川は、100年前の1923年に発生した関東大震災の救援活動を機に神戸を離れ、東京府荏原郡松沢村(現・世田谷区)に活動の拠点を移している。  京王線・上北沢駅から歩いて数分。住宅街に賀川ゆかりの教会と資料館はあった。館内は彼の生涯と業績がコンパクトにまとめられている。礼賛一辺倒かと思いきや、「賀川問題とは?」というコーナーが設けられてあった。賀川の3つの問題点について述べられている。以下、紹介する。

          賀川豊彦の資料館に行ってきた