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賀川豊彦の資料館に行ってきた

  7月末に上京した際、世田谷区にある賀川豊彦記念松沢資料館に行ってきた。賀川は、100年前の1923年に発生した関東大震災の救援活動を機に神戸を離れ、東京府荏原郡松沢村(現・世田谷区)に活動の拠点を移している。
 京王線・上北沢駅から歩いて数分。住宅街に賀川ゆかりの教会と資料館はあった。館内は彼の生涯と業績がコンパクトにまとめられている。礼賛一辺倒かと思いきや、「賀川問題とは?」というコーナーが設けられてあった。賀川の3つの問題点について述べられている。以下、紹介する。

  被差別部落に対する誤った認識 「賀川豊彦全集」問題
『貧民心理の研究』では、被差別部落の人々への差別的表現に加え、賀川は被差別部落の人々を人種起源説で説明しようとしました。これは明らかな間違いで、賀川自身も抗議を受けた後に絶版を約束しましたが、根本的な過ちに対する明確な表明はなされませんでした。賀川の死後『賀川豊彦全集』がキリスト新聞社から刊行された際、同書の差別表現および人種起源説が、そのまま再掲されました。これは版元と関係者の人権意識に欠けた対応であり、真摯に反省すべきことと受け止めねばならないと考えます。

 この説明だけでは、賀川が1915年に警醒社から刊行した『貧民心理の研究』でどのような記述をしたのか、来館者にはまったくわからない。人種起源説が現在から見れば誤りであることは論を俟たないが、そこに人種差別的視点があったからこそ問題であることは前回に述べた。
 確かに『貧民心理の研究』は、1962年にキリスト新聞社から刊行された『賀川豊彦全集』(以下、全集)に収められたが、差別表現や人種起源説をそのまま再掲載したのが問題なのではない。再掲されなかったら、賀川の問題作を読むことができないではないか。同社の武藤富雄による解説が付されているのだが、これが酷かった。
<彼らは日本帝国中の犯罪種族であることは誰も拒むまい><彼らは日本人中の退化種――または奴隷種、時代に遅れた太古民である><彼らは日本の売春族である>などの賀川の記述に対し、武藤は次のように弁護している。
<これは賀川が一部を見て全部を見ないために起こった謬見であり、多感な二十四歳の青年が一つの事象を見て昂奮し、ツイ筆がすべって書きすぎたと見るべきで、いわば『若気のあやまち』である>
<この点については賀川が今後ともこの方面の学者や運動家から攻撃されてもやむを得ないといえよう。しかし賀川がこんなに非道な表現をしたことには十分な理由がある。それは賀川がこの人々に対し深い同情をもっており、どうにかしてその解放を実現し、特殊部落などという存在をなくそうと思うのあまり、こうした無情とも見える表現を用いて世の識者に訴えようとしたことにある>

 あらん限りの悪罵を投げつけておいて、それを<若気のあやまち>と言いつくろう神経を疑う。その<十分な理由>を<深い同情>に求めるのには無理がある。もしそうなら、もっと違う表現をしたはずではないか。部落に対する賤視こそが、悪罵となったのである。
 ちなみに解説を書いた武藤富雄(1904- 1998 )はキリスト者で、裁判所判事などを経て、建国されたばかりの満洲に渡り、法政処参事官や弘報処長、宣撫工作・社会教化を図る官製組織・協和会の宣伝科長などを務めた。戦時下の東条内閣では、マスメディア統制の元締めを担う内閣情報局第一部長にも就いた。
 敗戦後は昵懇だった賀川の依頼でキリスト新聞を発刊し、明治学院長や恵泉女学園の理事長にも就任している。キリスト教(プロテスタント)は過去を問わない、実に寛大な宗教である。
『貧民心理の研究』の解説は、賀川と同志で自社からの刊行であったことからの援護射撃だろうが、身びいきのあまり客観性を重視する解説になっていない。火に油を注ぐような駄文である。
 繰り返すが、再掲されたのが問題ではない。解説が賀川の文章に輪をかけて酷いのである。

 二つ目の問題点は、以下である。

  戦争中の国策への協力(満洲基督村、対外放送)
太平洋戦争が始まるころ、キリスト教徒を中国大陸へ移民させる満州基督村事業が行われ、賀川はその初代委員長を務めました。満州開拓は終戦と共に崩壊し、62世帯、205人のキリスト教徒移民たちは全財産をつぎ込みながらも、ほうほうのていで帰国を余儀なくされました。しかし現地に住む従来からの住民にとっては、土地家屋を明け渡すなどの被害を受けた側であって、日本人移民は、意図せずに加害性まで負わされました。これらの史実は戦後ほぼ語られることはありませんでしたが、2006年に当館で特別展「満州基督開拓村と賀川豊彦」を開催して、つまびらかにしました。また太平洋戦争末期、賀川は米国を非難して国威発揚するラジオ放送を行っていました。これら国策への加担または戦争協力とみられる行動は戦後に問題となり、ノーベル平和賞落選の理由ともいわれています。

 賀川は<日本の人口問題の解決の為には、どうしても東洋に経済的資源を持たなくてはならぬことも認識して居るので、満洲問題に対してはよく分るのである>と述べ、満洲国の存在を容認した(「戦争は防止し得るか」1935年、全集第10巻)                                        
 資料館のパネルは、賀川の戦争協力を非難しながら、満洲に移住したキリスト者を、<全財産をつぎこみながらも、ほうほうのていで帰国を余儀なくされました><日本人移民は、意図せずに加害性まで負わされました>と、あたかも被害者であるかのように表記している。<意図せずに>という文言も、言い訳がましい。
 満洲人の被害はあったけれども、日本人も大変だったと述べている。両者とも被害者であるかのような記述は、どう考えてもおかしい。

 ノーベル平和賞落選の理由の一つとして、賀川がラジオ放送で国威発揚を主張したことを挙げている。これは1944年10月に海外に向けて放送した「米国滅亡の予言」であろう。
 かつて留学までしたアメリカに対し<口に平等を唱へて、多民族を圧迫し、言葉に自由を弄して、自己のみ優越性を維持せんとするその放縦性を全能者は許し給はないであろう>と断罪した。自分が満州基督村事業の責任者であったことは忘れているようだ。
 賀川は日米開戦前の1940年に、個人雑誌『雲の柱』の十月号の巻頭言で「皇紀二千六百年」と題する文章を掲載している(全集第24巻)。キリスト教と皇国思想をミックスさせ、次のような文章を書いている。
<欧米に愛と正義が亡びるとき、我々は日本の国より世界救済の手を延して、人類社会再建の福音をのべ伝へるべきである。
 我々は謹んで皇紀二千六百年を祝ひ奉ると共に、贖罪愛の原理に立つて、世界再創造への新しき出発を覚悟するものである>
 あたかも日本が、世界の救世主であるかのごとき妄言である。
 ちなみに賀川に近かった、牧師の黒田四郎(1896-1989)によると、彼は<理屈なしに天皇が好きであった>という(『人間賀川豊彦』キリスト新聞社、1970年)。日本社会党の結党大会では、賀川の発声で「天皇陛下万歳」が三唱された。平和主義者であった賀川が ” 反欧米 ” を唱え、戦争協力者になっていったのは、根っからの天皇主義者であったことと無関係ではないだろう。

  賀川の経歴には、必ず何度もノーベル文学・平和賞の候補となったことが言及されている。松沢資料館のパネルには、以下の説明文がある。

賀川は、ノーベル文学賞に1947年1948年と二回、スエーデンのロイヤルアカデミーから推薦され、ノミネートされました。またノーベル平和賞には、1954年、1955年、1956年と三年連続でノルウェーのキリスト教会から推薦されました。1960年には、日本の国会議員有志が共同でノーベル平和賞候補として推薦しましたが、同年4月23日に賀川は亡くなり、ついに受賞は得られませんでした。

 ノーベル賞は、生存者にしか贈られない。彼の文学作品が、果たしてノーベル文学賞にふさわしいのか、という問題はここでは措く。
 平和賞候補では、ノーベルが生れたスウェーデンの隣国・ノルウェーのキリスト教会が仲立ちし、何度も賀川を推している。
 前掲した文章の下に、ノルウェーのノーベル平和賞選考委員会から届いた、推薦状受領の通知(1960年1月30日付)と、賀川豊彦ノーベル平和賞候補推薦委員会委員長・杉山元治郎名で送られた、参考資料送付の送り状(1960年4月7日付)の写真が展示されている。
 推薦委員長の杉山元治郎(1885-1964)は、賀川と同世代のキリスト者で、共に農民運動を率い、衆院議員9期を経て衆院副議長も務めた。要はキリスト教勢力が、賀川をノーベル平和賞に強く推しいていたことがわかる。
 何度もノーベル平和賞候補になったと喧伝されるが、これは単に推薦が受諾されただけではないか、という気がしないでもない。
 なぜ、何度も落選したのか? パネルにあるように米国非難、対米英戦争協力がその原因かもしれないが、文学賞と同様、そもそもノーベル平和賞受賞に値する人物ではなかったのかもしれない。

 資料館による、三つ目の問題点は以下である。部落問題、戦争協力と同様に、極めて重要な論点だ。

  優生思想と弱者の権利
賀川は優生思想を抱いていました。その著作物の一つが『農村社会事業』です。これは当時の地主制度により固定的、構造的に困窮せざるを得ない農村を救うべく、当時の政策と対峙する内容を示していったものでした。しかし、その内容は「優生学運動」「産児制限」、精神病者の「遺伝素質の浄化」などの言説が並べられた、典型的な優生思想から執筆されたものでした。一方で賀川は「弱者の権利」という論考をも発表して、弱者の生存権も述べています。相矛盾する主張を述べることろに賀川の難しさがあります。なお優生思想を実践しようとした一つに、ハンセン病患者に対して国家が進めた絶対隔離の実現を支持したことがあげられます。

『農村社会事業』は、日本評論社から1932年に刊行された(全集第12巻)。賀川は農民組合運動を率いただけあって、農村の貧困と救済に強い関心を持ち続けた。
 序文では<農村救済の根本精神は何であるか、曰く三つの愛である。土への愛、隣人への愛、神への愛である>と愛を強調した。第四章の「農村に於ける人口問題と社会事業」では、オランダ政府は小学生にまでペッサリーを用いて妊娠調節の方法を教え、成功をおさめていると述べた上で、日本の農村についてこう書いている。
<このことは、人口の激増に悩む農村に於て大いに学ぶ処があらねばならぬ。殊に、生理的の遺伝性不具者、心理的の白痴、低能、発狂、変質者、道徳的の不能者及び犯罪者の遺伝を防ぐために、妊娠調節は最も必要である。また癩病の如きは、胎内伝染をする傾向を持つてゐるから、簡単な手術法によつて男性の輪精管を切断して、子孫に黴菌が伝染しないやうな工夫をすることも必要である。この手術の如きは私も見たことがあるが、非常に簡単であるから、レプラ患者自身がすヽんでこの手術を受けると、まことによいと思ふ>
 ハンセン病(癩病、レプラ)は、胎内伝染しないし、ましてや遺伝病でもない。
 賀川は何もかも遺伝病としてひとくくりにし、産児制限や断種手術を励行している。劣悪な生活・衛生環境を無視してまで病因を遺伝に原因を求める彼は、<優生学的産児制限>を繰り返し訴えている。数ページあとも引用しておく。
<貧民窟の子供ほど悪質遺伝が多い。第一に後天的毒質遺伝である。毒性のものは凡て生殖腺に影響する。梅毒、アルコール、コカイン、モルヒネ、阿片、カルモチンなどはみな遺伝する。だから酒を飲むなとはそこを云ふのである。仁丹がやはり中毒する。手術する時でも、毒物のもので麻痺さすことはよくない>
 多種多様な中毒が、必ずしも遺伝するわけではないだろう。手術時の麻酔がよくないというのは、主張を通り越して、もはや信仰である。引用を続ける。
<先天的遺伝と云ふのは白痴、低能、発狂変人である。この両方が遺伝するものは生れても駄目だから、産児制限をする必要がある。だから、私の云ふ産児制限は、優生学的産児制限である>
   自らはっきりと、優生学信仰を告白している。

   続けて賀川は農村から離れて、都市のスラムについて言及している。
<貧民窟の七割までは無智である。東京方面は自然貧民であつて、真の貧民ではない。天災で出来た貧民だから質がいゝ。大阪、神戸の貧民は昔からの歴史的関係があるのが多い。私のゐた処の人などは実に凶暴で無智だから、さういふ人は産児制限をする必要がある。X光線を五時間くらゐかけると、絶対に子供を産まないやうになる。薬を使つたりすることもあるが、薬を間違へると危い。その中毒によつて後天的遺伝になる>
 東京と関西のスラムを比較している。関西のそれは<歴史的関係がある>とは、被差別部落のことであろう。関東は<質がいゝ>とは、部落民は質が悪いと暗にほのめかしている。
 さらに賀川が十年以上住んだ神戸・新川は、<凶暴で無智>なので<産児制限をする必要がある>と断言した。そのような目で、彼は住民と接していたのである。賀川が唱える優生学的産児制限は、 ” 隣人 " の新川住民にまで及んでいる。
 資料館のパネルには、優生思想と弱者の権利という<相矛盾する主張>の共存が<賀川の難しさ>であると述べている。私は賀川の頭の中には、一切の矛盾がなかったと考える。” かわいそうな人たち ” がいない社会を創造することが、彼が考える ” 神への愛 ” ではなかったか。
 賀川は生涯を通じて、真正の伝道者であった。農村の伝統宗教を批判しつつ、こう嘆いている。
<日本の農村宗教が、お祭や法事のみを事とし、少しも倫理運動にならず、協同愛の意識を農民に与へない処に、村の生活の行詰りがある。村には、生理的に心理的に欠点の多い人が相当に多いから、その人々の尻拭ひをする精神がなければ、農村は決して協同組合などを組織することは出来ない>
 農民を軽視した、インテリ・賀川の人間観が、如実にあらわれた文章である。

 不十分であるにしろ、賀川豊彦記念松沢資料館は、彼の問題点について触れている。
 賀川が二十代を過ごした神戸にも、同様の資料館があるので訪れた。JR三ノ宮から徒歩10分余り。彼が住んでいたあたりに、賀川記念館がある。
 展示スペースは東京に比べてさほど広くはない(ただし図書資料は充実している)。
 ここも、彼の生涯が簡潔にまとめられていた。神戸時代の史・資料がふんだんに展示されていると思いきや、そうでもなかった。
 ひと通り見るのに、数十分。東京の資料館のように、彼の問題点を指摘するコーナーはない。唯一のそれは、『貧民心理の研究』の実物展示で、次のような解説があった。

賀川がこの著作を書き上げたのは、1914年(大正3)アメリカ留学前である。彼は、心理学の手法を取り入れてスラムの貧民の姿を描写し、貧民発生の原因を当時はやっていた人種起源論によって分析している。この書がスラム研究の先駆的な業績であることは疑いないが、人種起源論による貧民発生の論旨には、当時の人間賀川の限界があるといえるであろう。尚、序文は、被差別部落出身の京都帝国大学教授米田庄太郎が記している。

 もうお気づきだと思うが、賀川はスラムは被差別部落を源流とし、その部落は異人種からなると主張した。被差別部落がすっぽりと抜け落ちている。『貧民心理の研究』に関する記述は、まだ東京の松沢資料館の方が正確である。
 文章の最後、唐突に<被差別部落出身の京都帝国大学教授米田庄太郎>が出てくるが、来館者には何のことやらわからないだろう。当時は教授ではなく、講師だった米田庄太郎(1873-1945)は『貧民心理の研究』の序文で、以下のように記している。
<余は本書の研究法や材料に就いては、不完全なる点の少なくないことを認めて居る。又著者の見解や、論結に就ては、余の賛成し難い点は多い。而して其等の点に就ては、他日本書を公に論評して、又は著者の帰朝の上、個人的に注意して、著者の反省を促したいと思ふて居る> 
 米田が指摘したかったのは、部落=異人種起源説の奇矯さであろう。序文にふさわしからぬ、厳しい難詰である。神戸の賀川記念館は、京都帝大の教授が序文を書いていることで箔付けを狙ったのだろうが、要らぬ一文である。
 尚、米田は序文で、部落出身であることは述べていない。

 神戸の賀川記念館は、彼の生涯を数十秒で画像が変わる劇画で見せている。原本は『劇画 死線を越えて 賀川豊彦がめざした愛と共同の社会』(企画監修:賀川豊彦献身100年記念事業神戸プロジェクト実行委員会、作画:藤生ゴオ、脚本:大﨑悌造、家の光協会、2009年)である。劇画化は、賀川が神戸で伝道を始めて100年を記念した事業の一環のようだ。
 この作品は、神戸での救貧活動や協同組合・農民組合の設立、戦前戦後を通じての平和活動について描かれてはいるものの、著書における差別的記述や戦争協力、優生思想については、一切触れていない。したがって劇画を随所に配置した記念館の展示は、賀川豊彦礼賛一色である。
 断っておくが本稿で私は、賀川豊彦の問題点をあれこれ掘り起こしたいわけではない。ただ、彼の思想や行動を私たちがどう捉えるかは、きわめて現代的な課題であると思う。
 その意味で、社会的弱者に対する眼差しや国策への追従を不正確に、またなかったかのように展示するのは、やはり問題である。
 神戸で生れた賀川が幼くして両親を亡くしたため、少年期を過ごした徳島県にも、彼の記念館がある。
 どんな展示をしているのか、いつか訪れてみたい。(つづく)<2023・8・31>

 

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角岡伸彦/フリーライター
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