『春いちばん』再読 ①
以前に賀川豊彦と部落問題について調べたことがあるので、今春に『春いちばん 賀川豊彦の妻ハルのはるかな旅路』(玉岡かおる、家の光協会、2022年)を読んだ。
賀川はそれほど立派な人間か? そんな疑問から彼の生涯を追うと、社会的弱者の淘汰を目論む優生学の信奉者や、最終的には戦争賛美・協力者であったことがわかってきた。
『春いちばん』を初めて読んだときは、賀川と部落問題に関する知識しかなかった。彼の全体像が浮かび上がってきたところで、同書を読み直した。最初に読んだときより、さらに違和感が増した。
前回の末尾にも書いたが、私は60年以上前に亡くなった賀川豊彦の思想や行動を非難したいわけではない。誰もが時代的制約を受けるのだから、現代の視点でそれをとやかく言うのはなるべく控えたい。
ただ、現代に生きる私たちが、彼を小説や評論で描いたり、資料館で展示したりする際には、無批判に賛辞を送ることは避けなければならない。『春いちばん』の版元である家の光協会は賀川系の団体で、玉岡に執筆依頼したらしいが、だからといって立派な衣装だけを着せるのはどうかと私は思う。
『春いちばん』はサブタイトルにあるように、賀川の妻・ハルの生涯を追った小説だ。松方幸次郎や大杉栄、甘粕正彦など歴史上の人物を自由に登場させた創作も盛り込まれているが、大筋においては史実をベースにしている。
夫の賀川豊彦をはじめ、ハルの3人の妹も実名で登場する。であるのに巻末に<この小説は、実在の人物をモデルとしたフィクションです>と注意書きされているのは、ちょっと卑怯である。小説家がよくやる手口ではあるのだが。
小説は、賀川と同じ年の1888年に横須賀で生まれたハルが、尋常高等小学校を卒業し、14歳で奉公に出されるところから始まる。その後、父親の転勤に伴い神戸に転居し、印刷工場の女工として働く。21歳で賀川と出会ってから洗礼を受け、4年後に彼と結婚し、新川に移り住む。
ハルは小説の主人公ではあるが、典型的な ” 夫唱婦随 ” カップルなので、賀川の動向や言動が頻繁に出てくる。だが、彼のさまざまな問題点については、ほとんど述べられていない。
たとえば全国水平社のメンバーが抗議した賀川の著作『貧民心理の研究』(警醒社、1915年)について、<貧民窟での経験をふまえ、内側から貧民をとらえて分析しようとする研究結果は、ハルの尽力で翌年出版されることになる>と記されているだけだ。<ハルの尽力>とは、手書き原稿を清書して出版社に持ち込んだことらしい。単なる労働力ではないか。
賀川の差別的な人間観がにじみ出た著作の問題点について1行も触れないのは、いかがなものか。賀川豊彦記念松沢資料館(世田谷区)や賀川記念館(神戸市)でさえ、不十分ながら展示で触れているというのに。
賀川が被差別部落に強い関心があること、それが今日から見て見当外れであることはすでに詳述した。玉岡は『春いちばん』の中で、借金のカタに若い娘が苦界に売られるスラムの窮状を憂うハルを次のように描写している。
<ハルは立ち直れなかった。新川という地が、ここの人々が、心底、嫌いだと思った。片方しか見えない目なのに、両方の目から流れる涙を止めることもできなかった>
ハルは、劣悪な衛生環境が原因のトラコーマに罹病し、片目の視力を失っている。そこへ賀川の弟子が、彼の詩集をハルに差し出す。問題の『涙の二等分』である。嬰児を育てる業者が逮捕され、賀川が ” おいし ” という名の子を預かる。玉岡の引用部分をそのまま書き写す。
賀川の詩を引用したあと、玉岡が続けてこう書いている。
” ナツ ” は、ハルの中にいる、もう一人の自分である。
前々回『賀川豊彦が気になって』で触れたが、玉岡が引用したすぐあとには、以下の詩が続く。
なぜ、旧身分名を出す必要があるのか。自分を引き立てたいがための作為ではないのかと、前に述べた。玉岡は問題部分を削ってまで、賀川の献身をたたえている。つまり賀川の別の顔を知りながら、頬かむりしているのである。玉岡の作為も、かなり問題だ。
ちなみに詩に出てくる ” おいし ” は亡くなったわけではなく、後に親に引き取られている。『賀川豊彦全集 第20巻』の解説に書いてある。玉岡は、幼子を殺してまで賀川を偉人に仕立てているのだ。
一方、ハルは、被差別部落をどう見ていたのか。1960年発行の『月刊キリスト』(教文館)に、70歳を超えた彼女のインタビュー記事が掲載されている(「夫豊彦とともに五〇年」『賀川ハル史料集 第3巻』三原容子編、緑蔭書房、2007年)
ハルが独身時代に勤めていた会社は聖書を印刷していたことから、賀川が伝道に来ていた。工員たちが新川には行かなかったのか、というインタビュアーの問いに、ハルはこう答えている。
<特殊部落>という言葉が、1922年の全国水平社の結成以来、問題視されるようになってすでに久しい。
敬虔なキリスト者でさえも、多くの日本人と同じように部落を怖いところと認識し、それをあけすけに語っていた。ハルよ、あなたもかと言いたくなる。
ついでではあるが、<おそろしい新川の貧民窟>という編集部によるタイトルも、ストレートすぎる。
『春いちばん』は、賀川の関連団体でさえ問題にした、満洲基督村の責任者であったことや戦争協力について、まったく触れていない。
同書のエピローグは、90歳になったハルが過去を振り返る一人語りがつづられている。<太平洋戦争はもっとも厳しい苦難でしたね>と回顧し、1940年の時点で賀川が書いた文章について語っている。
<日本の罪>の中には、自らが責任者となった満洲基督教村事業は含まれていないのだろうか。<日本のキリスト教徒は軍部を抑制する力はない>とあるが、教会も信徒も積極的に戦争に協力したのではなかったか。賀川はその親玉の一人であるが、あたかも平和の使者であるかのように描かれている。
もとは反戦主義者であった賀川だが、戦争が始まり敗色が濃くなると、進軍ラッパを吹き始める。以下は1943年に刊行した詩集『天空と黒土を縫合せて』(日独書院、全集第20巻所収)の一部である。
いかにも天皇主義者だった賀川の勇ましい言葉が並ぶ。真珠湾攻撃をたたえ、私心を捨て、国家に忠誠を尽くすことを説いている。はたして神はそれを望んでいたのだろうか? そんな賀川が<最後に残った日本人の良心>だったというのだから驚きだ。
ちなみに賀川は敗戦後、自らの戦争責任について公に述べることはなかった。(つづく)<2023・9・30>
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