短編小説「ヒーロー」
「私は君がこんな行動を起こしたことが、未だに信じられない。ここには朝から君に取材をしたいという内容の電話が鳴り続け、朝刊では一面を飾っているぞ」男性は椅子の背もたれにゆっくりと上半身を預け、手に持っていた新聞を目の前のデスクに投げた。その挙動を受け、男の目の前にいる部下の女性は、少し体をこわばらせた。
「本当に申し訳ありませんでした」彼女は、今にも泣きだしそうな表情で頭を下げた。部屋には部下と、上司である男性の二人しかいない。
「私は君を信じていたんだぞ。なぜ、こんなことをしたんだ。これでは、君の同僚や部下に示しがつかないではないか。どう責任を取るつもりだね?」詰問である。彼女はこんな粘性のある言葉責めを30分以上も受けている。もっとも、彼女は事態の深刻さから有給を申請しており本日の業務はない。裏を返せば、あと何時間上司に責められても離席する理由はないのである。
「本当に申し訳ありませんでした。期待を裏切る行為をしてしまったことは、十分に理解しております。私は……。新入社員として入社してから8年、自分で言うのもなんですが真面目に働いてきました。その信用を地に落とす様な真似をしてしまい、すみませんでした」部下はもう何度目になるだろうか、深く頭をさげた。しかし、その言葉や姿勢の良さがかえって上司の気分を害していることは理解できていない。
「どうせ格好だけなんだろ。君はこういう形で謝罪をしていても絵になる。やはり、真面目に見える。本当に腹立たしい」上司の言葉は既に会社的な立ち位置をとっての言葉を話してはいない。僻みの感情が上司をそうさせていた。
「君、そういえば新聞は読んだのかい?」上司はチラリと先程デスクに投げた新聞を見た。「いいえ、まだ見ておりません」彼女は消え入りそうな声で答えた。その答えを聞いて、男性はデスクを両の拳で殴り、怒鳴り声をあげた。
「いいか、一面にはこう書かれていたんだ。『昨日午後8時半頃に、駅へ続く中央通りに面するビルにて火災が発生。そして逃げ遅れてしまった、ビル内にある託児所の児童3名をたまたま近くを通っていた女性が救助。そのまま名前を告げずにその場を去った』だそうだ。そこの新聞を見てみろ。そのヒーローの顔、君そっくりじゃないか」上司は自分で話す内容に怒りを感じているのか、最後の方は悲鳴にも似た声をあげていた。
「軽率な行動でした。今、こちらに来ている取材依頼には全て『人違いです』と、対応してくださる様に指示を出します。私も決して名乗りあげたりいたしません。なのでどうか、ここで働かせてください」
上司は彼女の真面目さを知っていた。いや、知っていた気になっていた。昨日、彼女の勤務は午後6時からこの美術館の警備であった。彼女の勤務態度は評判が良い。そのため警備室で月に数度、1人で勤務することもあった。そして、昨日がその日であった。
「うむ、それが良いだろう。いいかい、君があの時間、あの場所に私服でいることがおかしいんだ。聡い同僚の誰かが、『あれ?それじゃああの日、警備室は誰もいなかったんじゃないの?』など、話してみろ。今度は君自身が炎上するぞ」上司の言葉は彼女の今後を慮る優しい怒りに燃えていた。
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