【試し読み】作道 雄『君の忘れ方』冒頭を特別公開!
2025年1月17日(金)公開、坂東龍汰さん主演、西野七瀬さん出演の映画『君の忘れ方』を作道雄監督自らが小説に書き下ろし! 映画にはない、主人公が付き合い始めた頃のエピソードなど大きく加筆し、切なく心あたたまる不思議なラブストーリーに仕上がりました。
映画主演・坂東龍汰さんから小説へコメント到着!
刊行を記念し、試し読みを特別公開します。
あらすじ
作道 雄『君の忘れ方』試し読み
なにを寂しいと思うかは、人それぞれだろう。
僕には、忘れたくないことを忘れてしまうことが、なにより寂しく思える。
はじめてそういう風に思ったのは、恐らく中学生の時だ。その頃にもなると、振り返れる量の過去が出来ていた。
よく思い出していたのは、小学校三年生の終わり、クラス替えを目前に控えた遠足のこと。前日、帰りの会で担任の先生が言った。
「このメンバーでの思い出作りもこれが最後です。一瞬一瞬を大事に、楽しく過ごしましょうね」
僕はそれを、真に受けてしまった。すべての景色や匂い、聞こえてくる言葉を脳や心に刻もうと誓った。その張り切りと緊張は、前夜になかなか寝付けないほどだった。
遠足先は、自然公園だった。
陽の光に照らされた、青色の滑り台。落ち葉を風に転がしている芝生。ペンキが剝げ落ちて、白い涙を流しているようなキリンのブランコ。
目にするもの一つ一つを、僕は丁寧に観察した。それは世界の輪郭を捉えていく作業のようで、しばらくは順調にこなせたのだけど、帰る頃にはかなり疲れてしまっていた。朝のことが、明瞭には思い出せなくなっていたのだ。公園へ行く途中にみんなで歩道橋を渡ったはずだったけど、記憶が曖昧で、仲良くしていたあっくんに、渡ったよねと訊いても、そうだっけと返された。さきちゃんも、ともくんも覚えていなかった。
先生に、行くとき橋を渡りましたよね、と訊いても、渡ってないと言われてしまった。橋と言ったのが良くなかったのだけど、小学生の僕は、それに気付けなかった。
一度自信を失うと、容赦なく色んなことが霞んでいき、どうでも良くなった。そして帰りのバスの中で、僕は泣いた。
すべてを覚えることなんて無理だし、記憶しようと思うほど、最後という言葉を重く感じて苦しくなった。先生は何気なしに言ったのだろうけど、一瞬を大事にする過ごし方を小学生に求めるのは、酷過ぎる。僕は先生を恨んだ。
大人になるにつれ、ようやく理解できた。
すべてを覚えるのが難しくても、一度覚えたものを、なるべく忘れないようにするのは出来るということ。そして忘れないようにするためには、思い出す頻度自体を上げれば良いということ。やってみれば、簡単なことだ。
そこで僕は、なるべく色んなことを覚えておくようにするというのに自覚的に取り組んだ。これは誰かとの関係を良くすることにもつながった。たとえば外食する時は、前に別の店で食べたときの金額を思い出し、その範囲内で注文して母を無駄に怒らせないようにした。
父は幼稚園の頃に他界していたので、母が独りで僕を育ててくれていた。母は地元の病院に勤務していたから、幸い経済的に困ることはなかったけど、僕の気遣いは嬉しいものだったようで、「お金のことは気にしなくていいよ」と言う顔は笑っていた。
ちゃんと覚えていることが、安心して生きる術。忘れてしまうということが、僕の根幹を揺るがす。小さなことを忘れていくのは、しょうがない。それでもやっぱり、一つでも多くのことを覚えていられるのなら、それに越したことはない。そう、思っている。
「なのに、今は記憶力に自信がないんだよな。これって、スマホで写真を撮るようになったからだと思うんだよ」
何気なく言ったのだけど、結婚式で使う学生時代の写真の提出締切を忘れていたことへの、ただの言い訳だった。
「いや、ごめん」
呆れ顔の美紀に、僕は慌てて言い添える。
「あれまあ」
美紀は小さくため息をついて、ソファーに座った。
なんとなく美紀は、疲れているようだった。仕事が立て込んでいるみたいだったし、僕との結婚式の準備に、やや神経質になる日が続いていたのだから、しょうがない。
反応を静かに待っていると、美紀は、アニメのキャラクターが呆れたときにする目の細め方のやつ、の顔をしてくれた。僕は安心して、ごめんなさい、の顔を返す。四年間の付き合いの中で編み出された、お決まりのやり取りだ。
二人の間でこのノリが始まったのは、埼玉の動物園へデートに行った時のこと。
「昴くん、クオッカワラビーの顔に似てる」美紀が指摘した。
クオッカワラビーは、カンガルーの仲間だが、身体はそれよりずっと小さくて可愛らしい。その表情から、世界一幸せな動物、と呼ばれているそうだ。それほど僕は幸せな顔をしていないが、自分でも少し似ているなと思い、「たしかに」と顔真似をしたら、美紀が世界一幸せな顔で笑ってくれた。
それ以来、感情を表すときにクオッカワラビーの顔をする、というのが僕らの間で流行った。
お腹を空かせたクオッカワラビー。風呂に入るのが面倒だと思っているクオッカワラビー。いざ風呂に入ると気持ちがいいクオッカワラビー。遅刻した時のクオッカワラビー。理由はよくわからないけど苛々しているクオッカワラビー。
美紀はどちらかというと、リスとかに似ていて、再現度は僕の方が高かったけど、帰宅した美紀が玄関で直立不動でやる、疲れ過ぎて呆然としているクオッカワラビー、は毎度笑えた。とても可愛らしかった。
「ちゃんと出しておいてよ。プランナーさん、頑張ってくれてるんだから」
「わかった。明日やる」
「でさ。なんで写真を撮ったら、記憶力が下がるの?」
僕の出した話題に、美紀が戻してくれた。
「たぶん、心に焼き付ける作業をしなくなるからだよ。スマホが無い時代は、自分の中に感動を仕舞ってたわけだけど。今は簡単に写真撮れちゃうから、その瞬間の感動が薄まるよね。印象にも残りにくい」
「なるほど。それはそうかもね」美紀は頷いた。
「料理教室でも、料理を作るより、良い写真を撮ることの方に情熱燃やしてるんじゃないかって生徒さんがいて」
「いま、料理教室は生徒何人なんだっけ」
「今日やってきたクラスは、十人かなあ」
出てくる欠伸を出てくるままに、美紀は答えた。
仕事の愚痴でも聞いて、写真の提出が遅れていることをカバーできないか、と僕は思った。少し前一緒に読んだウェブ記事で、結婚式に協力的でない新郎は、その後の生活においても云々と書かれていたのが脳裏に浮かんだ。
「美紀が一人でまわしてるんでしょ」
「そう。お世話になった先生のあれで受けてた仕事だから、そろそろ辞めても良いとは思ってるんだけど」
「小学校の給食の開発だっけ。あれも忙しいんじゃなかったっけ」
「それもあるしねえ」美紀は目を伏せた。
「あれでしょ。行政の担当者が面倒で、しかも上司と情報共有してないから、言うこともころころ変わるっていう」
「そうそう。よく覚えてくれてるね」
仕事のことを把握してますアピールの後は、黙って聞く側に徹する。
円滑な会話のためのセオリーを守ったのだが、会話は思ったように弾まず、僕がトイレに行っている間に、美紀はソファーで寝てしまっていた。やはり疲れていたのだろう。
美紀を起こし、身体を抱えてベッドへ連れて行く。想像よりもずっと軽いんだけど、たしかな重みが自分の手の中にある。髪の匂い、体温、不安になるくらい柔らかな肌を感じた。
セミダブルのベッドは二人には狭い。なので結婚したら引っ越した先で、ダブルベッドを買うことになっている。美紀は新生活で猫を飼ってみたいらしいけど、そうしたらベッドの上に猫も乗ってくるだろうから、ダブルベッドでも足りるだろうかと、僕は今から少し心配だ。
そのことは、まだ美紀には話していない。
一緒に暮らすことへの不安は、考え出すと具体的に様々浮かぶし、考えないようにする訳にもいかない時期に来ていた。
美紀との出会いは、四年前だった。
仕事での取材相手、というだけだったのに妙に話が合って、いつかご飯でもとなって別れ、僕の方から数日後にそれを実現させた。
少し遠くへデートに出かけて、今度は日帰りでゆっくり温泉でも行けたらいいですね、なんて話が出たところで、それは付き合うということだと思って、告白した。美紀は、「いいですねえ」なんてのんびりした口調でOKしてくれた。
デートは毎回楽しくて、好きという気持ちが萎まない恋をするのは、はじめてだった。
仕事への価値観も、よく似ていた。
僕はラジオ局に出入りしているフリーの構成作家で、彼女は料理研究家。フードコーディネーターというカッコいい肩書で呼ばれることもあるらしく、それならば僕もライターなので、お互い職業が、ターで終わるもの同士だ。そうやってカッコつけた言い方も出来るけど、現状に甘んじてはいられない大変さもある。お互い、仕事を優先しながら付き合いを続けた。
二年ほど前に一緒に住むようになってからは、愚痴や生活リズムも共有できたから、まさに共同戦線を張って、互いを支え合いながら生きているような気持ちになれた。
プロポーズは半年前、僕の方からだった。婚姻届を出すのは式と同時、三ヶ月後の予定だ。
結婚式自体、あまり大きな規模にはせず、身内と友達数人を呼ぶだけのささやかなものにするつもり。僕たちの考えは、話し合う前から一緒だった。
式が終わったら、引っ越すことに決めている。東京の郊外に出たところ、少し広めの部屋を借りて、しばらくは子どもを作らず猫と暮らし、仕事に励む。三十歳を手前に、仕事を軌道に乗せる一番大事な時期を、夫婦として一緒に過ごす。
数年先まで、僕たちの人生計画みたいなものは、出来ていた。
「おやすみ」
僕が声を掛けると、もにゃもにゃと、美紀は何かを言ったけど、すぐにまた眠った。子どものような顔をしている、と思ったのは、最近美紀の子ども時代の写真を見ていたからだろう。髪を撫でていると、美紀はベッドの端っこ、壁に向かって寝返りを打った。
明くる日に急遽、美紀にラジオ番組のゲストとして出演してもらうことになった。
局のプロデューサーで、お世話になっている木下さんが担当する番組だ。予定していたゲストが体調不良で出られないことになり、代打を探しているということから、僕に相談が来た。土壇場だったけど、美紀は少し前に料理の本を出したばかりだったから、宣伝にもなると言って局へ出向いてくれた。
打ち合わせには、立ち会った。けれど、いざ収録が始まるところで、居ない方が緊張しないだろうと僕はブースを出た。
「ありがとう、ほんと助かったよ」
声がして振り向くと、木下さんが廊下を追いかけてきていた。
「いえいえ。木下さんにはいつもお世話になっていますので」
「今度、美紀さんも一緒に三人で食事を」
「是非」
きっと楽しい席になるだろうと、僕は明るく返事した。
僕より歳が六つ上の木下さんは、既婚者だ。人生の先輩として、たとえば結婚式の諸準備で早めに済ませておいた方が良いことなどを、惜しみなく情報提供してくれた。
なにより木下さんは、まだ駆け出しで仕事がなかった頃の僕に、少し大きめの番組をもたせてくれた恩人でもある。僕が受けた恩を、ラジオ出演という形で美紀が返しているということに、連帯感のようなものを感じて心地よかった。
収録後、美紀は別の仕事があるというので、僕は先に帰ることにした。
ちょうど特番の準備がひとつ始まったくらいで、それほど仕事は忙しくない。帰宅する時間を自分で決められるのが、フリーランスの気楽さだ。
駅から家へ帰る道すがら、夏の気配を仕舞ったばかりの肌寒い風が、首元を通り抜ける。これくらいの時期、名前のつかない季節が好きだ。最寄りのケーキ屋で、浮かれてシュークリームを四つ買ってしまった。
帰宅すると、美味そうな匂いがして台所へ向かった。コンロの上に、カレーの入った鍋がラップをして置かれていた。昼に美紀が作り置きしておいてくれたものだろう。温めて食べてね、というメモが鍋の隣に添えられている。
美紀の作るご飯は、当たり前のようにどれも美味しかった。その中でも、僕はカレーが一番好きだ。格別に美味しくて、美味い美味いと食べていると、もっと手の込んだのを褒めて欲しい、と美紀は少しだけ不満そうだったけど、カレーは好みのど真ん中だった。
そのうち仕事中にもその味を思い出すくらいになったから、僕は作り方を教わった。
なんと美紀は、隠し味に日本酒を入れるのだ。ルーが溶けて、出来上がる直前、酒をほんの少し入れる。そうすることで味がまとまるし、クリーミーにもなるのだという。
最初は信じられなかったのだけど、食べてみると本当に味が変わった。美紀が楽しそうに、「なんかね、高校で家庭科の先生に教えてもらったことでさ。全然専門的に学んだやつとかじゃないんだけどね」と、語ってくれたのを思い出す。
一晩寝かせるとさらに美味くなるから、まだ食べないでおこうかと思ったけど、我慢出来ず、結局食べてしまった。残った一皿分は、新しい皿に移して冷蔵庫にしまった。
何時頃に美紀が帰ってくるかわからなかったけど、遅くはならないだろうと踏んだ僕はテレビを見たり、集めた写真を見返したりして時間を過ごした。
クラウドにまとめた写真は、僕と美紀のを合わせると三百枚以上にもなっていて、下にスクロールしてもなかなか終わりにたどり着かない量だった。写真が簡単に撮れるせいで日常の感動が薄まっていると、写真の存在そのものを否定するようなことを昨夜は言ったけど、一気に見返してみると、時間が束になって手元に届けられたような気がして、心が温かくなった。
結婚するのだな、とも思った。一人で晩酌するのが勿体なくて、美紀を待つことにした。
けれども――
夜八時、九時、十時。電話をしたけど、美紀は出ない。折り返しもないし、メッセージの既読さえつかない。どれだけ待っても、美紀が帰ってこなかった。
(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)