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「霧笛」を入れた箱には鍵を掛けていない。

”決して帰らぬ者の帰りをいつも待っているということ。愛されている以上にいつも何かを愛するといういうこと。”

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ぼくはなぜブラッドベリの物語に惹かれるのだろうか?と考えた。
『たんぽぽのお酒』、『とうに夜半を過ぎて』、『さよなら僕の夏』は、本棚の前列にいつでもスタンバイしている。
『火星年代記』『何かが道をやってくる』『華氏451度』は第二列。

変な言い方だけど、ぼくの好きなブラッドベリの物語はSFっぽくない。
大前提のSF要素をすっ飛ばして物語に没入できる作品が好き!という方がいいのかなぁ。
『十月は黄昏の月』「みずうみ」もそうかもしれない。
ある種の不安を感じさせて、読了するとその不安の存在に納得している物語。だから必ずしもその不安が解消されなくてもいいらしい。
そして、ぼくが反応する不安は、孤独とか喪失につながっているかもしれない。

『太陽の黄金の林檎』
二十二編の短編のなかでも「霧笛」はふっとした瞬間に思い出す作品だ。
深い海の底で仲間を待つ恐竜が、灯台の霧笛に引き寄せられる物語。   その「霧笛」に確かめたいことがあって、早川書房の文庫版を随分探したが出てこない。仕方なく図書館で借りてきたが、次回の本屋巡回の折に買ってこよう。

何をとぼけたことを言っている!そこまで呆けてしまったのか、と言われる、きっと。

「霧笛」に登場する恐竜は、一匹だったっけ?二匹だったっけ?

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云うまでもなく恐竜は一匹。
ぼくは灯台も含めて恐竜は二匹だと勘違いしていたのだろうか。
そうだとするとぼくはあの恐竜に成り代わっていた。
文中にある。 

―あのきのどくな怪物はな、ジョニー、たぶん千マイルもの沖合の、二十マイルもの深みにもぐって、時節の到来を待っていたんだ。        おそらく年齢は百万歳だろう。想像してみろ、百万年も待っていたんだ。 きみはそんなに永いこと待てるか。あいつはたぶん一族のなかの最後の一匹だろう―

古参の灯台守・マックダンが新人のジョニーに恐竜の出現について話している場面なのだが、ぼくはこの辺りで恐竜になってしまったと思われる。

百万年も深く、冷たい海の底の底で、たった一匹でじっと待っているのだ。
成り代わったぼくには到底耐えられない孤独。絶望と背中合わせの絶対の孤独。
ぼくは、灯台でもいいからと、仲間を一匹増やしてしまったのかもしれない。

灯台を破壊して恐竜は去っていった。
マックダンがこう云う。


―決して帰らぬ者の帰りをいつも待っているということ。        愛されている以上にいつも何かを愛するといういうこと。        そしてしばしらく経つとその愛する相手をほろぼしたくなる。      ほろぼしてしまえば、自分が二度と傷つかなくてすむからなー

たった14ページの短編なのに全宇宙がそこにある。          そして、ぼくがいのちを与えられ消えていくまでの一瞬で永遠の”時”をどう思考していくかのヒントも。

ブラッドベリをむさぼり読んだのは二十代のこと。
なんの準備もできていないガキのぼくの頃。
もう一度、ゆっくり、じっくりすべての物語を読んでみよう。

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