ローマ人の物語
分担とは、現にあるものを分割したのでは済まないという問題を内包している。分担とは各自の責任を明らかにすることでもあるから、その人々の間に競争状態が生れるのは、人間の本性からもごく自然な方向とするしかない。
巨大化した組織体を分割し細分化すれば、機能性のほうも向上するのは事実である。しかし、すべての事柄はプラス面とマイナス面を合わせもつという人間性の現実にも眼を向けなければ、分割し細分化することによっての機能性向上はプラス面として、ではマイナス面は何か、という問題が残る。
その第一は、分割し細分化することによって、かえってそれぞれの分野ごとの人間の数と、それにかかる経費の増大を招くという事実であった。
人間とは、一つの組織に帰属するのに慣れ責任をもたせられることによって、他の分野からの干渉を嫌うようになるのである。そして、干渉を嫌う態度とは、自分も他者に干渉しないやり方につながる。自分も干渉しない以上は他者からの干渉も排除する、というわけだ。この考え方が、自らの属す組織の肥大化につながっていくのも当然であった。干渉、ないしは助けを求める必要、に迫られないよう、いかに今は無用の長物であろうと人でも部署でも保持しておく、であるのだから。
〝専従″とは、効率面のみを考えれば実に合理的なシステムに見えるが、深い落とし穴が隠されているのである。
権力者には誰に対しても、初めのうちは歓呼を浴びせるのが民衆である。前任者のデメリットは、すでに何かをしたことにあり、新任者のメリットは、まだ何もしていないことにある。ゆえに、新任当初の好評くらい、あてにならないこともない。一般の市民も皇宮に関係している人々も、ひとまずは歓呼で迎えながら様子を見るのだ。被支配者と呼ばれて簡単に片づけられること多い「支配される人々」だが、この人々もそれなりの対応策を持っているのである。
こうなれば、支配者である新任者の対応も2つに分かれる。
第一は、それまでの既得権層を刺激しないようにしながら、獲得したばかりの権力基盤を固めるやり方。これは言い換えれば妥協だから、今後も、改革らしい改革には手をつけないことにつながりやすい。
第二は、権力をにぎるやただちに、既得権層も非既得権層もいったい何がなされているのかわからない早さで、次々と政策を打ち出し実行に移すやり方である。
改革がむずかしいのは、既得権層はそれをやられては損になることがすぐわかるので激しく反対するが、改革で利益を得るはずの非既得権層も、何分新しいこととて何がどうトクするのかがわからず、今のところ支持しないで様子を見るか、支持したとしても生ぬるい支持しか与えないからである。だから、まるで眼つぶしでもあるかのように、早々に改革を、しかも次々と打ち出すのは、何よりもまず既得権層の反対を押さえこむためなのだ。
人間には、絶対に譲れない一線というものがある。それは各自各様なものであるために客観性はなく、ゆえに法律で律することもできなければ、宗教で教えることもできない。一人一人が自分にとって良しとする生き方であって、万人共通の真理を探求する哲学ではない。ラテン語ならば「スティルス」 (stilus)だが、イタリア語の「スティーレ」であり、英語の「スタイル」である。他の人々から見れば重要ではなくても自分にとっては他の何よりも重要であるのは、それに手を染めようものなら自分ではなくなってしまうからであった。
もしかしたら人間のちがいは、資質よりもスタイル、つまり「姿勢」にあるのではないかとさえ思う。そして、そうであるがゆえに、「姿勢」こそがその人の魅力になるのか、と。
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