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vol.68 夏目漱石「硝子戸の中」

明日は12月9日、漱石103回目の命日。偲んで最後の随筆「硝子戸の中」を再読した。

この作品は、朝日新聞の連作エッセイ(大正4年1月13日から同年2月23日まで連載)で、風邪をこじらせ、板敷き8畳の硝子戸の中で、座ったり寝たりしてその日その日を送りながら執筆したもの。この時、心持ちも悪く読書もしない。外に出ることもない。縁側越しに、庭の狭い景色を見ながら、過去の出来事を振り返ったり、来客を迎えたりしながら感じたことをつづっている。

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このエッセイを読むと、その内容から漱石の人となりがよく伝わる。また、晩年の漱石の死生観にもぐっと引き寄せられる。

僕は時々漱石の文章が読みたくなる。初期の軽妙洒脱なリズム感ある文章も心地いい。後の自己本位に苦悩する重たい描写にも惹かれる。この晩年の作品も、弾むような文体は変わらないけれど、どこか傍観した穏やかな境地から死を覚悟しているようにも感じる。

この頃の漱石を僕なりに、勝手に想像した。早稲田南町のいわゆる漱石山房の書斎に座っている漱石を浮かべた。そこには猫もいる。

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漱石48歳。「こころ」の先生を自殺させて、5ヶ月経っていた。作家として十分に高い評価を得ている一方、多くの病気にも悩まされていた。すでに周りの知人は亡くなっていた。「そんなら死なずに生きていらっしゃい」(p24)と女に伝えたが、「死は生よりも尊い」(p25)という言葉が漱石の胸に往来し、外を見渡すと、極めて単調で世間と遮断された狭い風景があった。

年末からの風邪も治らず、精神もずっと優れず、「病気はまだ継続中」(p92)と客人に挨拶しながらも、寂しい心持ちに、ひとりで物思いにふけることも多くなっていた。そして、終日書斎で、生き残っている頑固な自分の過去を振り返っていた。時代は第一次大戦が始まっていた。

漱石は考えていた。生きていくことは「不安で、不透明で、不愉快に充ちている。もしそれが生涯つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう」(p102)と。僕の妻もちっとも治らない病と共にいる。それでも「改善」の心を途切らせないでいる。時間が心に変化をもたらせてくれることを期待している。

同じように漱石も、過去と現在を比べて、心の変化を認めている。そして、「どういう風に生きていくか」を希望に変えようとしていたに違いない。次の正月に書いた『点頭録』に、「力の続く間、努力すればまだ少しは何かできるように思う」という漱石の決意のようなものがあった。

そんな「硝子戸の中」にいる漱石を想像した。

最後の文章を書き写す。

「まだ鶯が庭で時々鳴く。春風が折々思い出したように九花蘭の葉をうごかしに来る。猫がどこかで痛く噛かまれた米噛を日にさらして、あたたかそうに眠っている。先刻まで庭で護謨風船を揚げて騒いでいた小供達は、みんな連れ立って活動写真へ行ってしまった。家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放って、静かな春の光に包まれながら、恍惚とこの稿を書き終るのである。そうした後で、私はちょっと肱を曲げて、この縁側に一眠り眠るつもりである。」 (引用おわり)

大正5年12月9日土曜日 胃潰瘍で亡くなる。漱石50歳だった。

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雑司ヶ谷にある立派なお墓に合掌。

おわり

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