和田衆と須賀川衆~【後編】
さて、後編です。
私が「絶対にお参りしよう」と決めていたのは、「姫宮神社」。
ここは、これから登場するヒロイン「三千代姫」の霊を慰めるために、建立されたと言われています。
姫宮神社
神社の正面より。あまり大きい場所ではないので、うっかりすると通り過ぎてしまいそう💦
神社の建物左側に廻ると、神社に色々寄進をした方々のお名前も、見られます。
私が注目したのは、寄進した方々の「名字」。
三島木、箭内、鈴木、安藤、村越、円谷など、須田一族と縁が深かったであろう人々の名字が多く見られます。
さらに奥に回り込むと、もう一つ建物があるのが見えます。
恐らく、こちらが神社の本殿。屋根が掛けられ、地元の人がお社を大切に守っている様子が伺えます。
神社の裏手。下を用水路が流れていますが、昔は小川だったのかもしれません。
金剛院
さて、姫宮神社から田んぼの中の農業道路を突っ切り、「宿」地区にある寺院を目指します。
こちらにあるのは、「金剛院」。
為氏と治部大輔との和睦が敗れる前々年、四天王の一人である須田秀一が、文安3年(1446年)、和田に建立させたというお寺です。
門標を見ると、「曹洞宗」の寺院であることが分かります。
この時代、天台宗の寺院である「妙林寺」は、和田の大仏(和田館と地続き)の辺りにあったといいますから、当時はあまり「宗派」へのこだわりはなかったのかもしれません。
寺院正面より。ただし、「門徒」ではないので、あまり奥まで行くのはご遠慮させていただきました。
ここには、秀一から下ること数代後の「須田秀行夫妻」の墓があるなど、代々須田氏によって大切に保護されてきた形跡が伺えます。
「葷酒境内に入るを許さず」の碑文。
葷酒とは、ニラやにんにくなどの「匂いの強い野菜」及び「酒」を指します。
煩悩を呼び覚ますので、これらは仏門ではご法度だそう。
古峯神社
これも、自宅に帰ろうとした途中で見つけた「神社」。
当時の信心の機微についてはさすがに想像するしかないのですが、仏閣や神社は、割と古の「防衛拠点」も兼ねていることが多いので、神社を見つけたら、とりあえず足を止めてみます。
帰宅してから調べたところ、「古峯神社」であることがわかりました。
鳥居をくぐって石段を登ります。
が、結構足元がよろしくないので、参拝しようとする方は要注意!
昭和40年代辺りでしょうか。神社などに対する「信仰心」なども薄れ、小さな神社では、手入れが行き届かず足元が悪い場所も結構あります。
境内にあった碑文。ここにも「安藤氏」の文字が見られます。
碑文の内容から察するに、明治天皇の御代に、小松宮彰仁親王が夫人の頼子を伴って当地を訪れ、その時に安藤貞吉がこの場所へ案内したようです。
ちなみに、安藤氏は「須田七将」と呼ばれる、家老職も兼ねた家柄。安藤氏が仕えていた須田氏は、戦国時代に伊達政宗が当地の二階堂氏を滅ぼした際に、最後まで抵抗する気概を見せました。
その後、紆余曲折を経て須田家の子孫は代々「神炊館神社」(通称お諏訪さま)の禰宜となっていますが、さらにその部下であった安藤氏を始め、「須田家の家臣」は当地に残った人も多かったのでしょう。
参考~「泪橋」関係者相関図
室町時代の須賀川二階堂一族は、少し血縁関係・上下関係が分かりにくいかもしれません。
そんなわけで、現時点での泪橋の主要関係者の相関図を作ってみました。
(まだ登場していない人もいます)
本題に戻って、古峯神社の境内より。
大分木が邪魔ですが(苦笑)、ここからも「宇津峰山」が臨めます。
こうして見ると、南北朝時代、和田地区は南朝に対する「監視拠点」の地としての役割も担っていたのでしょう。
こちらは、奥に見えるのが(恐らく)服部山。
やはり「和田七将」の一人であった服部氏の屋敷があったと言われており、南北朝時代は「北朝側」の狼煙台があったのだそう。
和田から見た須賀川
さて、ここからは「和田から見た須賀川」についてです。
まずは、「和田」から「須賀川」を見上げると、こんな光景が広がります。
大雑把ですが、写真の住宅地の更に向こう側が、須賀川の市街地。
現在でも、「和田」と「須賀川」では大分雰囲気が違うのがお分かり頂けますでしょうか。
後に登場する「三千代姫」は、丘の向こうから和田にいる「為氏」の元へ嫁いできました。
あまり小説のネタバレにならない程度に写真を披露すると、こちらが三千代姫が「須賀川城を出発したときに通ったであろう」道です。
そして、小説のタイトルとなった「泪橋」は、ここから取っています。
地図にすると、大体5~6kmの「ご近所」への嫁入りだったことがわかりますね。
「須賀川」へのこだわり
ところで、なぜ和田の人々は、そこまで為氏の「須賀川入城」にこだわったのでしょう。
従来は、「為氏が正当な須賀川の支配者であったため、言うことを聞かない治部大輔を討伐した」と伝えられてきました。
実際、藤葉栄衰記でもそのようなニュアンスで書かれています。
ですが、私はそれだけではなかったのだろうと考えています。
その根拠は、「和田」という土地の特性。
開けた土地で阿武隈川に近い。これが何を意味するか。
ずばり、「洪水に弱い土地」だということです。
下図は、須賀川市のハザードマップから。
令和元年秋に見舞われた「台風19号による浸水被害」は、全国ニュースでも放送されました。
赤く色づいているところが浸水想定エリアなのですが、市野関~和田~浜尾と、見事に真っ赤なのです。
興味があるかどうかは別にして、全体図は下記のファイルよりどうぞ!
こうして見ると、治部大輔が民部大輔に「館を建ててあげた」浜尾も、ばっちり「水害」エリアに含まれています。
自然災害の可能性を知っていながら、この土地への定住を治部が勧めたとしたら、かなりの腹黒、もとい策士としか言いようがありません……。
和田衆としては、まさか、主君である「為氏」を、いつまでも水害の恐れのある土地に住まわせているわけにはいかないですよね。
和田方面の領主である「須田一族」は、当然この地形の弱点を把握していたでしょう。
鎌倉に居住していた為氏を始めとする「二階堂一族」はともかく、須賀川衆や和田衆が「須賀川」にこだわったのは、この弱点を克服するためだったのではないでしょうか。
三千代姫の役割
そして、上記の条件を考えた際に変わってくるのが、三千代姫の果たした役割です。
確かに若い為氏夫妻が、「家来たちに押し切られて」悲劇の道を選択せざるを得なかった面もあるでしょう。
ですが、そんな家臣に翻弄されるような夫婦だったのならば、そもそも為氏時代に須賀川の基礎を築いたとされる記述に、無理がある。
三千代姫については、丁度下書きで「賢さ」を匂わせる場面を描いたばかりですが、わずかながら伝えられている彼女の姿からは、「か弱いだけの女性」ではなかっただろうと、私は感じています。
藤葉栄衰記や市史では伝えられていない「空白の3年間」の間に、何があって、三千代姫はどのような役割を演じたのか。
その答え合わせは、小説で楽しんで頂けると幸いです。
フィールドワークから得たヒント
そんなわけで、現地に足を運んでみると、日常の想像だけでは得られないヒントが得られるものです。
今回は、内心「面倒だな……」と思いつつ自転車を走らせたのですが、やはり足を運んで正解でした。
地形などは、自分で足を運んでみないと感覚を把握しにくいですしね^^;
今回のフィールドワークが、小説の作中でどのように反映されるか。
ぜひ、楽しんでいただければ幸いです。
©k.maru027.2023