見出し画像

自分らしく生きる、の意味がわからない

あなたの本音は何?
あなたはどうしたいの?
あなたはどう生きていきたいの?

この社会に生きていると、たまにこう問われることがある。
直接人から言われることもあれば、好きな漫画や小説、エッセイから。
私たちは世の中から「こうあるべき」を押し付けられてきたのに。あなたの感情はどうでもいい、こうしなさいと押し付けられてきたのに。その一方で、「あなたの気持ちは?」と問われ、それをちゃんと出しなさいと言われるのは、あまりにも酷だ。

あなたはどうしたいの?

これがガッツリ問われるのは、多くの人は就職活動時だろう。だいたい22歳ぐらいで大学を卒業する。その一年前、21歳・大学三年生の頃から就職活動を始める。その際に、「あなたはなぜ弊社に?」「あなたはどう生きていきたいのか?」というのを、偉そうな人事担当や就職活動本から問われる。
別に理由なんかないよ。だって、今日までなんとなく生きてきたし。色々自己分析や内省を繰り返して「私はこうなんだ!」という結論っぽいものが出ても、それはよく考えると「世の中からそう思わされた」という、扇動された結果でしかないことが多い。

わたしは就職活動をロクにしていない。大学に入った時から、「起業家になる!」と息巻いていたからだ。一見、自分の意思や本音に基づいて生きているような人間に見えていたかもしれないが、それだって所詮は世の中に煽られた結果だ。

なぜ起業家になりたいの?
そう問われれば答えられる。
どういう事業を? なぜそれをやりたいの?
そう問われても答えられる。
だがその答えだって、自分を誤魔化した結果の言葉遊びでしかない。奥底の、魂からの本音、ではないからだ。つまらない。つまらなすぎる。

自分を誤魔化さず。一切格好つけずに。なぜ起業家になりたいと思っていた、いや、思わされていたのかと考えると。シンプルに、「イケてる」からだ。高校生の時に読んだサイバーエージェント藤田社長、ソフトバンク孫正義社長の自伝。当時、いわゆるITベンチャーがどんどん出てきて、若い人間でも資産何百億円、というのがゴロゴロ出てきている時代だった。そんな彼らが書籍の中で披露する言葉たちは、田舎で燻っている俺から見れば、それはそれは鮮やかに映った。ディズニーランドなんて目じゃない、現実を彩るための、現実を夢の国に変えるための思想と行動を、彼らは俺に提示してくれた。社会から称賛され、夜になればモデルと西麻布を歩き、何軒かバーをハシゴした後に自宅のタワマンに戻る。そして港区の夜景を30何階から見下ろし、セックスする。

もうこれだけ。この映像を俺の生活に取り込みたい。ただそれだけの猿だった。たぶん今も、まだ腹の底では燻っているかもしれない。
イケてる男になりたい。イケてる漢でありたい。それを俺の中で体現している英雄は、成功した起業家たちだった。ではなぜそんな英雄たちに惹かれたかというと、俺が「イケてなかった」からだ。

小学生の時、プロのサッカー選手を目指していた。だが小学校6年生の時、栃木県代表に選出され韓国遠征に行った際、同年代の格の違いを見せつけられた。センスがあるとかそういう次元ではない、もうその目に映っているもの全てが違う。遠征から帰ってきた後、俺は足を骨折して6ヶ月ほどサッカーができなくなった。俺の本音を見透かすかのように条件が整った。「6ヶ月もブランクがあって、奴らを追い越すのは無理」と巧妙に自分を騙し、俺は自分を諦めた。

自分を諦めた男。まさに「イケてない」男。本気でグレる覚悟もなく、不良になるわけでも暴走族に入るわけでもなく。ただ彼らとも接点を持って、一方でリスクヘッジで勉強も適当にして優等生たちとも関わりを持って。そんな、なんの個性もない「存在してないのと同じ」な男。彼女はいるが、本当に好きな子ではない。人生こんなもんだろうと、まだ14歳なのに64歳の人生諦めたジジイのような、しょうもない男。
足利の花火大会で大暴動を起こし警察に捕まっていく同級生たち。街のチンピラの大人たちを襲い金を巻き上げる同級生たち。そんな姿を見て「ほんとアホだよね」と言われながらもギャルたちから絶大な人気を誇っていた同級生たち。その最前線に立てずにただ傍観者であった自分。本当にくだらない男。自尊心が最底辺であった私にとっては、起業家として成功者となり西麻布をほっつき歩くことが、「暴走族でアタマを張るような強い男」になれなかった弱い自分を払拭する唯一の手段だったのだ。だがコンプレックスを払拭する、ただそれだけのために「本当はやりたくもないこと」を何年も何年も続けていけるほど、俺の身体は強くなかった。結局自分のコンプレックスを払拭することなどできなかった。

だが、そもそもおかしい点しかない。
なぜ、プロサッカー選手になれなかったぐらいで、「人生を諦めた男」に成り下がらなければならなかったのか
なぜ、「喧嘩が強くなければ男じゃない」と思わされなければならなかったのか
なぜ、ギャルたちから絶大な人気を誇る男でなければならない、と思わされなければならなかったのか
なぜ、それらをコンプレックスとして認識し、それを払拭するために本当になりたいわけでもなかった起業家になり、「成功者になる」ことに囚われた人形として毎日疲弊し、鬱病になり、死にたい、と思わされなければならなかったのか

そんな、なんの個性もない「存在してないのと同じ」な男。

それは、この姿を「善し」と承認してくれる存在がいなかったからだ。

周りと比べて個性がない、強みがない、魅力がない。それの何が悪いのだろう。そもそも悪いとか良いとか、それすら何だというのだ。別に誰かに「すごい」と思われるために我々は生まれてきたわけじゃない。そしてそんなこと、本当はみんな気づいている。でもなぜか、そう思わずにはいられない。なぜだろうか。

私が最後に、「他人の視点など入り込む余地がないほど」夢中に、目の前の一瞬を生きていたのはいつだろう。
たぶん、幼稚園のサッカー教室だ。4歳ぐらいの時だったか、おそらく地元の実業団の選手たちが何かの企画で幼稚園に訪れた。そこで、同じクラスの園児たちと担任の先生たちと、みんなでサッカーボールを蹴った。「つま先で蹴ると痛いから、足を横に曲げて、くるぶしの下の、出っ張った部分でボールを蹴るといいよ」とか、何とか、実業団の選手たちが教えてくれた。群馬県の、田んぼと畑がどこまでも広がり、澄み切った空気の中で。無我夢中になってボールを追いかけて、蹴り飛ばしていた。
「もうお迎えの時間だよ」
夕方、見事な薄明の空。上から深紫、浅紫、ピンク、オレンジ、赤。数多の色が何層も重なり、魔法のような色の空が広がっている。もう終わり! と先生が怒るまで、友達と馬鹿みたいに騒ぎながら、白黒のサッカーボールを追いかけ回していた。

あの瞬間が最後だった。自分が周りと比べてどうか、どれだけ優れているか、そして女子から人気があるとか何とか。そんなくだらない雑音が入り込まずに夢中で生きていたのは。
それからは公文式の塾に入れられ、水泳教室に通わされ、あとはいくつか習い事をさせられ。母親は「子供の可能性を広げるために」と、善意でやってくれていたのだろう。「もう辞めたい」と俺が言っても、「何でも続けることが大事」と言って、素敵な笑顔で俺を拒絶した。母親にとっての「こうあるべき」を押し付けられ、俺の感情は無視され。もうその頃から、「世の中的に自分がどうか」「周りと比較してどうか」「同い年の子の中でどれぐらい成績がいいか」「テストで98点とっても、ここを間違えているからダメだ」と、世間の基準、他人から見た自分、という世界でしか生きられなくなった。
目の前の一瞬を生きること。自分の感情を認識し、大事にすること。それを最初に母親と父親から奪われ。そして親の代理人として世間の人間が俺を取り囲み、抑圧し、本音のわからないロボットに仕立て上げた。ロボットは、自分の「こうしたい」がわからない。暇な時間さえできれば「何かやらなきゃ」と焦り、落ち着かなくなる。世の中的に「男はこうであるべき」から逆算して、最短距離でそうなるためにはじゃあ今この時間はこうしなければいけない。しなければ、しなければ。寝ている時間以外は、全てそれで埋め尽くされる。そして寝ている時間でさえ、歯軋りせずにはいられない。本当に気の休まる時間など一切ない。

冒頭のテーマに戻る。
自分らしく生きる、とは何だろうか。私は、「100%本音通りに生きること」だと思う。では、本音を認識するためにはどうしたらいいのか。
正直、親の呪い・世間の呪いに侵されきった身体では、自分の本音を認識することは難しい。いくら脳内で考えても結局は、世間の「こうあるべき」
に扇動された結論にしかならない。それっぽい、体温のない言葉遊びに終わる。
だからまず、その呪いを振り払わないといけない。呪いを植え付けたのは我々の親たちと、その親の代理人たちだ。だが代理人にアプローチしてもあまり効果はない。例えるなら、代理人はモグラで、親がモグラの巣だ。モグラを叩き潰しても意味がない。モグラの巣を焼き払わなければ。

4歳の時、なぜ俺の感情を無視したのか。
なぜ俺の、「目の前の一瞬を生きて、楽しむこと」を奪ったのか。
なぜ、学力やら何やらを俺に詰め込もうとして、俺から感情を奪ったのか。

そんな、なんの個性もない「存在してないのと同じ」な男。

なぜ、何の個性もない俺を承認して、愛してくれなかったのか。

ただ、これを確認する。これだけでモグラの巣に火をつけることができる。
自分が本音を奪われた時を思い出そう。そして書き出して、それを確認しよう。
そうすれば初めて、私たちは本音と出会うことができる。世間的に見たらどうかなという不純物のない、純度100%の本音と。

ちなみに私は自分の本音を突き詰めていった結果、「何もしたくない」に辿り着いた。もう、ただただ、暗がりの中でぼーっとしていたい。ベッドに転がっていたい。転がっていると、どんどん頭の中で、身体中から言葉が湧き上がってくる。そして気が向いたらのそのそと起き上がって、疲れない程度に言葉を書き留めていく。それで疲れたらまたぼーっとする。

現状、これが最も身体に合致している。身体が最も凝らないし、張らないし、痛くない。こころが最も健やかなのだ。楽しい、つまらない、とかそういう次元ではない。ただただ、「目の前の一瞬を味わう」という感覚。4歳の時、夕方の薄明の空のもと、何も考えずにボールを追いかけていた時の感覚にかなり近い。私の頭からどんどん、「男はこうあるべき」という魔物が消え去っている。

本音を突き詰めていくと、昔抱いていた理想の自分からどんどんかけ離れていくだろう。世の中の「こうなった方がいい」のモデルケースからどんどん遠ざかっていく。30歳独身男、年収低めの私は、世間の理想からかなり遠いところにいる。そしていわゆる出世欲のない私は、日に日にそこから足が遠のいている。

恐ろしいと思う。私も本当に恐ろしかった。30年間大事にしてきた自分を、根底から壊さなくてはいけなかったから。自分を本当の意味で壊すというのは、一度死ぬことと同義だ。それは本当に恐ろしいこと。茨城の竜神バンジーの100倍恐ろしかった。

この狂った世界では、まともでいようとすればするほど首を絞められていく。
ある種狂ったように生きないと、まともではいられない。

首を絞められたまま、残り何十年の人生を逃げ切るか。
一度死に、狂ったように生きて健やかになるか。

あなたはどちらが好きだろう。






以下の長編小説、企画出版希望です。
編集者や出版関係者でこちらの内容を本で出版したい、と思ってくださる方は、
kanai@alba.healthcare
こちらまでご連絡ください。

第一弾:親殺しは13歳までに

あらすじ:
2006年。1日に1件以上、どこかの家庭で親族間殺人が起きている国、日本。そんな国で駿は物心ついた頃から群馬県の田舎で、両親の怒号が響き渡る、機能不全家庭で生まれ育つ。両親が離婚し、母親が義理の父親と再婚するも、駿は抑圧されて育ち、やがて精神が崩壊。幼馴染のミアから洗脳され、駿は自分を追い込んだ両親への、確かな殺意を醸成していく。
国内の機能不全家庭の割合は80%とも言われる。ありふれた家庭内に潜む狂気と殺意を描く。


第二弾:男という呪い

あらすじ:
年間2万体の自殺者の山が積み上がる国、日本。
想は、男尊女卑が肩で風を切って歩く群馬県の田舎町で生まれ育つ。
共感性のかけらもない親たちから「男らしくあれ」という呪いをかけられ、鬱病とパニック障害を発症。首を括る映像ばかりが脳裡に浮かぶ。
世界中を蝕む「男らしさ」という呪い。男という生物の醜さと生き辛さを描く。

いいなと思ったら応援しよう!