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もし、親からちゃんと愛されていたのなら

人間は親から創られる。そして初めて対峙する人間が、親である。その空っぽな伽藍堂に、愛情を注がれなければたちまち命が枯れてしまう。

誰かが言った。
「今あなたたちが生きているのは、親御さんが愛情を注いでくれたから。愛情がなければあなたたちは今、生きていない」
反吐が出る。薄寒い、表面的な言葉だ。そういう薄っぺらい言葉は大嫌いだ。
まあ、ある種は正解なのだろう。だが実態をほじくり返せば、それは真っ赤な嘘だ。母親という札のついた人間からひり出されて生まれ、抱擁と栄養を補給してもらうこと。それが「愛情」というのであれば、上記の言葉は大正解であろう。だが果たしてそれが、本当の意味で愛情と呼べるのだろうか。それが本当の意味での愛情なら、なぜこんなにもこの国ではバタバタと人が病んで倒れ、自殺していくのだろうか。

本当の意味で幸せ、である人間は、生まれた時から純度100%の真水を生まれた時から注がれている。あるいは、死ぬ前にどこかの時点で注がれた。そういう人間だ。だが、「本当の意味で幸せ」「ちゃんと、親から愛された」と言い切れる人間はどれほどいるだろう。おそらく、1%もいないだろう。たまに外に出て、人混みの中に身を置けばそれを痛いほど体感する。目に映る人たち、その全ての表情は枯渇して飢えている表情である。もちろん今の私もそうだが。

我々は泥水しか知らない。そしてその濁った生臭い水を、「真水である」と信じ込まされて、今日を生きている。親や親の代理人たちから、あなたは愛情を注がれているのよ、と洗脳されて今まで生きてきた。そしてタチの悪いことに、親たちは全く悪気がない。なぜなら親もまた、その親から泥水を飲まされ続け。それをそのまま、真水だと信じて私たちに浴びせ続けてきたのだから。この世界に生きる人間は、本当の真水を知らない。

親からちゃんと愛される、とはどういうことなんだろう

私は飢えを知らない。表面的な飢えを知らない。
群馬県の裕福な農家の家庭に生まれ、経済的に何不自由なく育てられた。なんの意味もない、害悪でしかない習い事という名の強制労働を複数させられ、そして親の呪いを一心に浴びるその対価として飯をもらい、何不自由なく生きてきた。
物心ついた時。3歳ぐらいの私は、「人が人を愛する」という映像を見たことがない。父親と母親は常に険悪で、仲睦まじい姿を見たことがない。そして同じ敷地内に住んでいた、向かいの家の祖父母も酷かった。男尊女卑の化身であるような祖父は、祖母を奴隷のように扱っていた。常に不機嫌で、気に入らないことがあれば祖母に怒鳴りつけ屈服させ、それでなんとか自我を保っていたような男だ。

今思えば、これこそが泥水の正体だったように思う。父親が母親を愛し、向き合い、寄り添う姿は一度も見たことがない。「俺が養ってやってるんだ」という嘘を必死に叫び続ける姿しか見たことがない。そしてそれに甘んじるしかない無能な美しい母親の姿を、ずっと見せつけられてきた。そして、母親は自分の幸せを追求することができず、世間の「女は子供を育ててこそ」という呪いに屈服し、ただその役割を演じるだけの、辛そうな表情だけを俺に晒していた。
俺が心から声を発した時に、それを母親は上から叩きつけた。言葉で、そして身体で。腕を振り下ろし、頭を、尻を叩かれた。児童相談所に話が持っていけるような虐待からは程遠い。腐った世の中の住人が「それは躾の範囲内ね」と微笑んで煙に巻くような、その程度の話だ。

俺は、母親に満たされていて欲しかった。
常に穏やかでいろ、とか。常に愛想を俺に振り撒いていろ、とかそういうことじゃない。もはや笑顔でいてくれなくてもいい。母親が、母親自身を満たすことを一身に考え。そのための思考と行動を放棄せず。ただ、「私はありのままで価値がある。無理して母親を演じようとしなくても、私は素晴らしいい」と、その真理に気づく努力を怠らないこと。ただそれだけをしてくれればよかったのだ。その真理に気付いた結果、自分の器が満たされて。その器から溢れる分を、ただ子供である俺に分け与えること。それだけでよかったのだ。
もしそれができないなら。どうしても、正直、私は子供を心から愛せないという本音に気づけたのなら。それを3歳の俺に突きつけて欲しかった。どうせ子供は何を言っても分からないから、と見下すのではなく。もう物心つけば、子供は一端の人間なのだから。ただでさえ低脳で未熟な母親がいくら必死に取り繕ったところで、心の裡は誤魔化せないのだから。そうやって、どうせガキだからと馬鹿にするのではなく、「ごめんなさい。私は本当は、母親なんてやりたくない。だから、あなたを愛せません」と正直に白状して、施設に放り込んで欲しかった。親が親同士を罵り合う姿。「私たちは見た目だけが大人の、糞餓鬼なのです。お前なんかを愛する余裕はないのです。でもそれを伝えるのが怖いから、自分が傷つくのが怖いから。だから、表面的にはあなたを愛していると言わせてください」と、その全身をもって泥水を浴びせられるぐらいなら、本気で「あなたを育てることが苦しい」と奥底の本音をぶつけてもらう方が遙かに幸せだ。24時間、息苦しく、「親が愛してくれているのかどうか、わからない。でも本当は愛してくれているはずなんだ……」と疑心暗鬼で、不安と哀しみで嬲り殺されるぐらいなら。誠心誠意、人として向き合ってもらう方が遙かに心は健やかだ。
でも、母親はそれをしてくれなかった。ずっと、30年間俺を騙し続けてきた。何度も追い詰め、逃げ場をなくしてようやくそれを白状した。「正直、子供を想う親ではなかった」と、俺に正直に打ち明けた。「子供が欲しいと思ったことはない」と、30年経ってから白状した。

俺はずっと騙されていた。見下され、愚弄され。30年間嬲り殺し状態だった心は、既に限界を超えていた。そして最後の梯子を外されて、心は地獄に堕ちた。自分は30年間、誰からも愛されていなかった、愛される価値のない人間だったのだと気づき、死にたくなった。

30年経って、ようやく自分というものが生まれた。死にたい、と思う時点でもう実質その人間は死んでいる。そして幸いにも私はある人の助けを経て、かろうじて今、身体だけがこの世に残っている。一度死に、そして新たに生まれ。人間を死に向かわせるこの社会の呪いに気付いたのだ。
そんな自分が今、思うこと。

もし、親からちゃんと愛されていたのなら

絶対に、高校生の時に鬱病になるはずがない。死にたいなんて思うはずがない。そんな生き方を選ぶわけがない。だって、そんな生き方に何の意味もないのだから。何の価値もないのだから。
なぜ高校生で鬱病になったのか。それは、はっきりと自覚したからだ。俺には何の価値もないのだという事実に打ちのめされたからだ。外見も優れていない、頭も良い訳でもない。唯一好きだったサッカーでもプロになれず、誰からも賞賛される価値もない。この世に存在してようがしてまいが、誰も何も思わない。死んだところで、母親と一人目の父親が形式的な涙を流すだけ。そんな、誰一人哀しむことのないこんな存在に、一体何の価値があるのだろうか。そんな事実に気づかされてしまったから。だから、鬱病になったのだ。

俺の不幸は、そこで死ねなかったこと。死ぬ勇気すらもない、何の取り柄もない弱く醜い畜生であったこと。だから、30歳になるまで無意味に生き続けてしまった。無意味に、この煉獄で息切れしながら、生き恥を晒し続けてしまった。

何の価値もない人間で終わるぐらいなら。死ぬぐらいなら、圧倒的に価値のある漢になってやる。それで、俺は社会からの称賛をもって、自分を自分だけで満たしてやる。それで男としての絶頂期である40歳前後で死んでやるんだ。

死ぬ勇気もない高校生は、そう、安直な結論を下した。ありがちな、100人いたら90人ぐらいがそう判断するであろう、安直で本質からズレた、頭の悪い結論を。生まれた時から泥水しか知らない人間の頭では、こう判断するしかなかったんだ。
誰かが教えてくれればよかったのに。価値を自分に付与しようとすること、それ自体がズレているのだと。外部からの称賛をもって、それを自分の生きる価値だと認識することがナンセンスであると。そして、自分を自分だけで満たしてやるというのが、そもそも不可能であるという真理を。誰かに教えて欲しかった。でも当然、そんな世の中のほとんどが奥底では気付いていても、体現する勇気が持てない恐ろしい真理は、遂に誰からも教わることができなかった。そんな呪われた社会の一員として過ごしてきた俺は、本当に幸いにも、2022年12月24日に、それを教えてくれる人に出会えた。だから、癌病巣である親と向き合い、自分が社会から呪われていることにようやく気づけた。

もし、親からちゃんと愛されていたのなら

「価値がある人間になろう」と頑張るはずがない。だって、既に自分は愛されていて価値があり、素晴らしい人間であるという事実が骨の髄まで染み込んでいるのだから。頑張る理由がないのだ。社会が扇動して作り上げた、「経済力、容姿、表面的なそつのない会話力」の3点セットに優れた模範囚になど、わざわざ苦労してなる必要がないからだ。ちゃんと親から愛された人間、あるいは後から真理に気付いて、本来親からもらうべき愛情を補填できた人間であれば、勝手に自分の才能に気付いてしまう。そして気付いてしまったら、この暇つぶしである人生においてそれだけを夢中で取り組んでしまう。結果、自分を豊かにするあらゆるが手元に舞い込んできてしまい、いつの間にか社会が設定した模範囚になってしまっているのだ。これが、正しい順序。これが真理なのだ。決して、「模範囚になることが幸せだ」と勘違いして、疲弊して命を削ってはいけない。仮に一時的に模範囚になれたとしても、その人間は本当に欲していた安心感を手に入れることはできない。その現実に絶望し、息切れして死んでしまう。

だから我々は絶対に、頑張ってはいけないのだ。
頑張ること。すなわち、自分に価値を付与しようとすること。それは魔界への入り口だ。どこまで行っても、最終的には絶望と老いと死しか待っていない、現世という魔界への入り口。あなたがもし20代の若者であれば、怖いもの見たさもあるだろう。だから、足を踏み入れることは大いに結構。だが生きる気力を吸い取られ、魔界から逃げ出せなくなる危険性があることだけは認識しておいてほしい。それだけ分かって、「絶対に自分は引き返せる」という自信のある強者であれば、アトラクション的に楽しんでみてほしい。楽しむ余裕があればの話だが。

私は全く、一度もこのアトラクションを楽しむことができなかった。本来なら死んでいたであろう人間だが、幸いにもレスキュー隊に救われた。
私はもう、頑張りたくても頑張れない身体になってしまった。自分の意に沿わないことには、一切耐えられなくなってしまった。正直今でも、早く模範囚になりたいと願ってしまう自分がいる。そしてたまに都内に出て、模範囚である男性、女性を見かけてしまうと、強烈な無能感、自己否定に襲われて発狂しそうになる。もう今すぐにでも、また頑張り抜いて、自分を少しでも模範囚に近づけなければ。まずはこの痩せ細ってしまった肉体を、元のゴリゴリの筋肉だらけの身体に戻さなければ。毎日体重✖️2倍gのタンパク質を摂り、ジムで顔が真っ赤になるまで肉体を追い込み。毎月カットに1万円をかけて、やりたくもない「模範的な」トレンドの髪型と、興味もないシルエットを体現した服でスタイリングし。美容医療も再開して肌を完璧に保ち、必要であれば整形もして。そして心の底から書きたい訳でもない時でも体に鞭打って、タバコを毎日20本吸って酒まみれになってでも必死に小説を書き。そして片っ端から編集者にドブ板営業をかけまくり、原稿を売りまくり。そしてその間も仕事を複数引き受けて年収1000万円を維持して、女性から見た最低水準の経済力は維持し。そして美しい異性と対峙する時は興味のない話でも膨らませて、楽しい空間を演出し。誰がどう見ても隙のない、完璧な模範囚を体現しなければ。そしてその延長線上で大文豪となり、社会から称賛される一角の人物とならなければ。
そうすれば…….という呪いに飲まれそうになる。「そうすれば……」の先は何も続かないことは毎日嫌というほど感じているのに、いまだにそれを完全には手放せないでいる。本当に、親が植え付けた呪い、「今のお前には愛される価値がない」という呪いは恐ろしい。

だが、有難いことに。もう私は頑張れない身体になってしまった。今日、身体の状態が良くなってきてしまい、ふと頭にまた呪いが込み上げた。「また、元の筋骨隆々に戻れるかもしれない」と。そして、好物の唐揚げ弁当が脳内を支配した。囚われたように起き上がり、出前館で唐揚げ弁当を注文。届いたそれを夢中で頬張った。そして、これでまた肉を食いまくって、筋トレしまくって、またこの呪われた社会における、「女性ウケの良い、逞しい身体」を体現したい。そうすれば……と、ダメだと分かっていても、一ミリだけその観念が浮かんでしまった。

しかし、やはりもう身体はそれを許してくれない。30分後、身体中から汗が吹き出し、気持ち悪くなってしまった。上からも下からも大量に吐き出してしまい、屍のように項垂れてしまった。俺はもう二度と、理想の身体には戻れない。俺が頑張ろうとすること、模範囚であらねば、と囚われて行動すること。俺の身体はもう、二度とそれを許してくれないのだと、また今日も明るい絶望を覚えた。
こうなってしまった以上は。有難いことに、頑張りたくても頑張らせてくれなくなった以上は。そして、もう死にたいという気持ちも無くなってしまった以上は。残りの200年弱の暇で暇でしょうがない人生を、のらりくらりと生きてやろうと思うのだ。生きてやろう、というか、もうそうすることしかできないのだが。私はただ、本音100%の言葉を、息をするように吐いていくだけ。そして気が向いた時に、本当に文章を書きたくなった時だけ、言葉を綴るだけ。絶対に、絶対に頑張ってはいけない。「売れなければ」と思って、嫌々営業を必死にかけることもしてはならない。その瞬間にまた魔界に逆戻りだ。心が望むまま、身体が欲するまま、その行動をしていくだけなのだ。「気がついたら売れていた」この状態以外、目指してはならない。

だが……それだけ気をつけていても。油断していると、どうせまた死にたくなるだろう。

そして、自分を自分だけで満たしてやるというのが、そもそも不可能であるという真理を。

これが立ちはだかってくるから。人間は一人では絶対に生きられないし、親から本来もらうべき真水をもらってない我々は、一人で生きようとした瞬間に、また魔界へと逆戻りして死んでしまうからだ。

だから一切頑張らずに、一切格好つけずに。その条件のもと、真水で伽藍堂の自分をいっぱいにしなければ。そのためには、早く泥水を吐き出し切らなければ。
吐き出しきれば、伽藍堂を満たすべき真水がどういうものか、直感的にわかるはずだ。その直感に従って、「頑張らないことを頑張る」人生をゆっくりと歩み始めれば。いつの間にか、目の前には真水の源泉が広がっているだろう。





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第一弾:親殺しは13歳までに

あらすじ:
2006年。1日に1件以上、どこかの家庭で親族間殺人が起きている国、日本。そんな国で駿は物心ついた頃から群馬県の田舎で、両親の怒号が響き渡る、機能不全家庭で生まれ育つ。両親が離婚し、母親が義理の父親と再婚するも、駿は抑圧されて育ち、やがて精神が崩壊。幼馴染のミアから洗脳され、駿は自分を追い込んだ両親への、確かな殺意を醸成していく。
国内の機能不全家庭の割合は80%とも言われる。ありふれた家庭内に潜む狂気と殺意を描く。


第二弾:男という呪い

あらすじ:
年間2万体の自殺者の山が積み上がる国、日本。
想は、男尊女卑が肩で風を切って歩く群馬県の田舎町で生まれ育つ。
共感性のかけらもない親たちから「男らしくあれ」という呪いをかけられ、鬱病とパニック障害を発症。首を括る映像ばかりが脳裡に浮かぶ。
世界中を蝕む「男らしさ」という呪い。男という生物の醜さと生き辛さを描く。


第三弾:監獄

あらすじ:
21世紀半ば。第三次世界大戦を経て、日本は「人間の精神を数値化し、価値算定をする」大監獄社会を築き上げていた。6歳で人を殺し人間以下の烙印を押された大牙(たいが)は、獲物を狩る獲物として公安局刑事課に配属される。最愛の姉に支えられ、なんとか生きながらえていた大牙は、大監獄社会の陰謀に巻き込まれ、人として生きる場所を失っていく。
あるべき国家運営と尊厳の対立を描く、理想郷の臨界点。


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