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マンスプレイニングのなぜ|女性に説明・説教したがる男性が育つ文化
目的:男子が「マンスプ系男性」に育つ理由を考察する
本稿の目的は、1996年に生まれた男性である筆者の眼から、マンスプレイニングを行う「イヤな」男性が生み出されてしまう理由を考え、持論に説得力をもたせるものである。
発想の根幹にあるのは、「イヤな中高年男性は、年齢とともに急激にイヤな人間になるわけではない。むしろ、そうなってしまう原因は彼らの少年時代から続く経験のなかにあり、少年たちの経験を形づくる文化に目を向けて未来を変えていく必要がある」という私の主張である。
教育文化・地域文化の観点でマンスプレイニングを読み解こうとする本稿の意図を汲んでいただける読者には、以下の構成にしたがって読み進めていただきたい。
マンスプレイニングの定義
私の持論の概要
私の経験から
男性研究・教育学の知見と絡めて
まとめ
「マンスプレイニング」の意味
まずは簡単に、マンスプレイニングの意味を説明しておく。"
mansplaining"としてもよいが、あえてカタカナで表記する。
「マンスプレイニング」という言葉がある。この言葉は「男(man)」と「説明(explain)」を合わせた造語であり、フェミニストであるレベッカ・ソルニットの著作『説教したがる男たち』によって広められた。「男性が、目の前の女性は自分よりも無知であると決めつけて、横柄で偉そうな態度で物事について解説する」といった行為を指す言葉である。
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ひとことで言えば、「女性は男性よりモノを知らない」というジェンダーバイアス(偏見)を持った人間が、上から目線の態度で、物事を説明したり知識をひけらかしたりする行為のことである。
そしてその行為の多くが男性によって担われていることが、『説教したがる男たち』で発見・再発見された経緯がある。
「三省堂 辞書を編む人が選ぶ『今年の新語2020』」では第5位に入っており、「マンスプ」と省略して幅広く使われている語である。ほかには使い方として、「彼が説教するときの態度は、マンスプレイニングそのものだ」「マンスプ系の上司が嫌われている」などがあるだろう。また、「知的なハラスメントの一つのカテゴリ」と考えることができる。
参考:東京新聞記事:「高圧的に説教する男性、それって…女性を見下す「マンスプレイニング」とは」
私の持論の概要
私の持論の概要は、以下のようなものである。
マンスプレイニングは、中高年の男性が急激に身につける態度ではない
なぜなら、マンスプ系男性の属性や特徴が幅広いことを考えると、共通の根をもつ経験が積み重ねられた結果がマンスプだと考えられるからだ
主張→→「マンスプレイニングは10代の文化から始まりやすい」
10代のクラブ活動や地域のイベントに関わる男たちに目を向けよう
私の少年時代の経験を、主張の根拠にして語ってみよう
少年少女を取り巻く「教育文化」全体がマンスプレイニングを生むかもしれない
通説:男性はなぜマンスプレイニングしてしまうのか
マンスプレイニングの特徴/男性心理/対策/撃退法に関するWeb上の記事は多い。通説を概要のみでまとめて、私の主張とどのように観点が異なるのか、整理する。
男性の特徴としては、「相手の気持ちを考えるのが苦手」「女性よりも知識があると信じて語る」
男性心理でしばしば言及される内容は「男性は自慢したがっていて、常々威張りたいと思っている」というものだ。
対策は「聞き流す」「冷静に相手を観察する」「礼を言って適度に切り上げる」など、真っ向から男性と対立しないように女性に促すものがよく見られる。
こうした傾向と比べて、私の主張の観点と違う点は以下の通りだろう。
マンスプを行う人の現在の特徴に着目する←→マンスプを行いやすい男性たちの経験に着目する
マンスプを受ける側が回避して対策すればよい←→マンスプを生んでしまう文化から長期的に対策をすればよい
それでは、私の主張をフォローするために、私の経験やロジックを並べ、説明していく。
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私の経験から
私の少年時代は、岐阜市のミドルクラスが暮らす住宅地にあった。
転勤を伴うホワイトカラーの家庭に育った私は、小学4年生になる春から少年野球のクラブに入り、土曜・日曜の合わせて半分の時間は野球の練習や試合をして過ごした。他にも、小学6年生から学習塾(総生徒数10人ほどの教室)に通ったり、小学2年生からは地域のお祭りや「わんぱく相撲大会」に参加したりしたものである。
私がそうしたクラブ活動や地域のイベントに参加して触れた大人たちの7割ぐらいは、30代から50代のおじさん=中年男性だったように思う。男性が少年時代を振り返った場合、この割合は一般的なものだろう。
さて、クラブ活動や地域のイベントで私に接した男性たちを、3つの属性に分けて書き出し、共通項をくくり出してみよう。
属性① 少年野球のコーチ
20代後半から50代後半の男性(女性のコーチは皆無)。選手の父でありかつ野球経験者の男性が2割ほど含まれる。「子どもに野球の指導をしてほしい」と頼まれた人はいないか、ごく少ない。指導の仕方は自己流が多く、少年野球以外で物事を体系だって指導する経験は乏しいようである。少年たちのことを大好きで、愛情と叱咤激励をもって少年少女たちに接してくれる。
属性② 学習塾の先生・講師
30代から50代の男性が多い(私は見学に行った中学入試対策塾で1人だけ、女性講師に出会った記憶がある)。学校では経験できない分野・知識・指導方法で、子どもたちの人気を集める。指導の仕方は自己流が多く、子どもたちに弱みを見せることはまずない。子どもたちを志望校に合格させたり、成績を高めたりするために、あらゆる知識を注ぎ込もうと、熱心に指導をする。
属性③ 地域のイベントを盛り上げるおじさんたち
小学校の校区に住んでおり、既に会社での激務や子育てを終えた男性たち。「昔の遊びを体験しよう」という学校行事や、地域のブロックに分かれて競う市民運動会、さらには地域の神社を巡るお祭りで大活躍している。年に数回会うかどうかの子どもたちにも気さくに話しかけ、地域の歴史や文化、絆を引き継いでいこうと子どもたちに働きかける。
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共通点:熱心かつ権威的に、自己流の説明を少年少女たちに与える
私が少年時代に関わることがあった「おじさん」たちの属性を、以上の3つの属性に分けて書き出してみた。前提として、指導者たちでは中高年男性の割合がやや高い、ということを置いている。共通点は、大きく2点である。
熱心に、かつ権威をもっているが、指導や教育のプロではない
自己流の説明をする指導者を、少年少女たちは当然と受け止めやすい
まず、子どもたちの教育や統率に関して熱心である、ということだ。彼らは子どもたちが地域のなかで理想的に育ち、立派な大人(たいていは男)に育つように、献身的に働きかける。それも、たいていは無償である。少年野球のコーチも、地域のイベントも、特に子どもたちやその親が「あなたから子どもに指導してほしい・関わってほしい」と頼んだわけではない。多くはボランティアか薄給なのだが、子どもたちを教育し統率することに力を注いでいるのだ。
次に、知識や経験をもっているがゆえに権威をもって尊敬されている、ということだ。企業内の先輩・後輩関係、あるいは趣味活動の集団内の熟練者・初心者の関係にもあてはまるだろうが、知識や経験をもっていることが自明視されているメンバーには、(実態はともかく)「知識や経験に優れている。だから尊敬すべきだ」と考えやすい。少年時代のコミュニティではその考え方がいっそう強く、「おじさん」たちはたくさんの正しい知識や経験を身につけている、と無批判に考えやすい。例えば少年野球ならばより上等な道具、シートノックを打つ・サインを出すというチームでの役割のことになる。あるいは、地域のイベントであれば、地域の歴史や建築物について知識がある「おじさん」には、イベントの統括・統率の役割が託されやすい。
そうして、中高年男性が行動と言葉でコミュニティをリードしていくことが「当然」と考えられる環境は、地域ではしばしば見ることができる。すなわち少年少女たちは、熱心で権威のある中高年の男性たちが自己流で行う指導や説明や説教を、「当然のこと」であり、ときには「ありがたいこと」と見なすように育っていくことがありうるのである。
こうした共通点が妥当であると考えた上で、筆者自身の受け止め方と、中長期的にみたマンスプ対策について論を進めていく。
私の経験におけるマンスプの意味
それでは、現在25歳の私にとって、過去に経験した少年文化およびマンスプレイニングは、どのような意味をもっているだろうか。
端的に言えば、①マイナスの感情は残っておらず、②大人として目標・目的とはしない態度である、と考えている。
①について、私は自分が育った少年文化とマンスプ系の男性たちを、否定する気持ちがほとんどない。なぜなら、私に関わった大人たちの教育的な意図や愛情が十分に私に伝わっており、説明・説教をされたことで知的・精神的に力をつけることができたと考えているからだ。教育的な意図や愛情がなければ、マンスプレイニングのマイナスの影響だけが私に残り、大人一般に対する不信感を強めたことだろう。
②について、①のようにマンスプレイニングに対して否定的ではない経験をもつとしても、私自身はマンスプからできるだけ距離をとる者でありたい。なぜなら、望まれていない指導や教育を周囲の人々に対して行うことが、それらの人々が望むスタイルでの発達・成長を妨げてしまうかもしれないからだ。まとめの部分で後述するが、物事を教わる側が教わり方を指定しながら学んでいくのが、現代の学び方の理想だと私は考えている。マンスプ的な指導の仕方は、一部の人には馴染むかもしれないが、ニーズを満たさない説明・説教になってしまうリスクが大きい。
だからむしろ、マンスプレイニングを、大人としてあるべき態度とは考えず、
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歴史・文化として「マンスプレイニング」を見る
簡潔に述べると、特定の地域の歴史あるネットワーク、大袈裟に言えば文化のなかに、マンスプレイニングは根づいていると考えてよいのではないだろうか。このように考えるのが適切と言えそうなのは、マンスプレイニングが個々の男性に属人的な傾向ではなくて、地域コミュニティを中心にとした集団文化のなかで育っていく性質の振る舞いだと考えられるからである。
集団文化のなかで育っていく悪しき習慣だと捉えることができるメリットを、大きく2点、想定している。
個々のマンスプレイニングに接したとき、それを行う人のみを憎悪しなくて済む
マンスプレイニングを許容してきたコミュニティの望ましいあり方を、検討することができる
1点目について補足する。マンスプレイニングに遭ったとき、「なぜ私がこの人からハラスメントを受けているのか!?この人が憎い!」と感じてしまいがちである。しかし、歴史や文化の産物としてマンスプレイニングを考えることで、その人個別の責任ではなく、集団のこと・自分ごととして考える余地が広がることになる。また、相手を憎悪しているばかりでは、本当にためになる助言や叱咤激励を受け入れられなくなってしまうだろう。マンスプ系の人々からも享受できるはずのそれらを受けられない、というデメリットを小さくできることは、この考え方の長所と言えるだろう。
2点目についても補足する。私はここまでの主張で、マンスプレイニングを温存してきた地域コミュニティが存在することを示唆してきた。そのようなコミュニティが実際に存在するとすれば、そうした世代横断型のコミュニケーションが生まれるような教育の場を、望ましいものに変えてゆくことが問題解決への近道だろう。マンスプ系の人々が数多く生まれてしまうという問題の、いわば「元栓の」部分を閉めるために、何か手を打てるかもしれない。
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【提案】地域コミュニティも学習者中心の教育モデルへ
まず、ここまで書いてきたことをもとに、私の提案の概要を述べる。
マンスプレイニングの根源にあるのは、「熟達したオトコから少年少女への指導・説明を通じて、能力が習得されるのが当然だ」という、少年少女のあたりまえの感覚だ
提案したいのは、「学習者である少年少女が『△△を□□な感じで教えてほしい』と頼んでから、オトナがニーズに合わせて指導・説明をする」という教育モデルへの変更
これがゆっくり確実に浸透していくことで、マンスプレイニングは今よりずっと少なくなり、学習者すべてが望む方法で教育を受けることができる
1点目だが、これまでの記述をまとめて、マンスプレイニングを温存させてしまう価値観、 ー教育をめぐる価値観ー にふれた内容である。ある技術や経験において熟達したと考えられるオトナ(やや多いのは男性)が、少年少女に自己流の指導をすれば、少年少女たちは能力をつけられる。これが、従来の教育の価値観だろうし、地域のオトナたちが尊敬を集めてきた理由だと考えよう。学習者側の子どもたちがそんな学習モデルを内包したまま成長することで、「教育の方法は全て教える側が決めるのだ」という前提をもとに新たにオトナが増えることになってきた。その一部が、強制的で攻撃的な指導や説教を行うことで、「マンスプレイニング」という言葉がこんなにも世の中で共感を集めている。
その上で、2点目の提案だ。教育学では「学習者中心モデル」という教育のあり方のモデルが、提唱されて久しい。文脈は省くけれども、教育を受ける側(少年少女を含めて)を中心に据える教育のあり方が、現代に適合していると考えられている。その流れに棹さして、私は提案をしている。マンスプレイニングの連綿とした流れを断ち切るために、学ぶ側が依頼してはじめて教育する側が指導を施す、という学びの習慣を目指すことを、提案したい。100%実行できることではないかもしれない。しかし、地域コミュニティのなかで、あるいは習い事のなかで、教育者がマンスプ的な態度をとって「よし」と思うような教育モデルは、更なるマンスプのもとになる。少しずつでも割合を変えて、学ぶ側を中心にした学習モデルを目指すとよいだろう。
3点目が、中長期的・理想的な未来のマンスプ対策である。世の中で起こっているマンスプレイニングは、男/女や先輩/後輩といった関係性の問題だと捉えられることが多かっただろう。しかし、私のこの文章では繰り返し、教える/学ぶという二者の間での、教育の問題だと考える視点を増やした。こうすることで、たとえば「女性が望む方法で指導を受ける…!」「嫌な先輩のマンスプを撃退する…!」といった一面的な見方を回避できるのではないか。つまり、女性・後輩などが耐え忍んだり撃退したりするための「その場しのぎ」ではなく、学びたい人が気持ちよく自分に合った学び方で他人からの教育や指導や説教を受けるという「中長期的な理想」を考えてゆきたいのだ。
学習する側の希望を尊重した教育モデルが浸透したとき、マンスプレイニングが解消された、という「デメリットの縮減」が起きるだけではないだろう。つまり、教育学で言われる「学習者中心モデル」が浸透したとき、「個別最適化された学びのあり方」にも同時に近づき、技術や能力習得の理想的な獲得方法が見出されやすくなることだろう。
ただし、「学習者中心モデル」の理想が必ずしもプラスの面ばかりを持つわけではない、という主張もおそらくあるはずだ。現代の教育学の論題に詳しいわけではないため、この辺りでキーボードを叩くのをやめよう。
マンスプレイニングの問題から脱線しかかったが、読まれた方には、マンスプを見るときの新たな視点として参考にしていただき、ご自身の例を振り返って、理想的な説明・説教・教育のあり方について考えを整理する助けになればと思う。
以上。