散らかった部屋で何思ふ・第20回 “何かを失うこと≒何かを手に入れること”
先週は色々あり過ぎた。関東に居る友人がコロナに罹患したという報せの翌日に、祖母の訃報。金曜日は告別式。
本当に心身共に疲れ切っていたのかもしれない。
祖母の訃報を母から聞いた時、身体の震えと涙が止まらず、ただ呆然と抜け殻になったような感覚であった。
とにかく、突然のことで酷く動揺したため、信頼できる友人数人に「祖母が亡くなった。どうしよう…。」といった事情をLINEのメッセージで相談することにした。
しかし、そのうちの一人だけ、予想外の返信をしてきた人が居た。
その方は、過去に働いていた会社で同僚だった人で、退職してからも、文通をしている仲だった。ただ、その方はどうやら、大好きだった祖母の死に立ち会えず、葬儀も何もかも終わってから全てを知らされた、という辛い過去を持っていたらしく、長文メッセージでその内容がつらつらと書かれていた。
続けて、「分かります?私の気持ち。貴方の悲しみを私に押し付けないでください。」という言葉が飛んできて、正直ものすごく傷付いた。
地雷を踏んでしまったのかもしれないが、「今、このタイミングでそんなこと言う?」というのが率直な感想だった。
一応、「ごめんなさい」と謝って、その場は収めたのだが、内心では、「なぜ僕が謝らないといけないのだろうか…」という違和感でいっぱいであった。
何度も何度も、自分の中で何とかして、起きた事実をありのまま吞み込もうとした。
でも、あの友人の「悲しみを押し付けるな」という発言だけは、どうしても受け容れることができなかった。
そして、数日間しっかりと悩んで、しっかりと考えて、その友人とは縁を切るという決断をした。
最後のケジメとして、”最後のお便り”を送った。今までの感謝の気持ちと、前向きな意味合いでの「さようなら」を告げるお手紙を。
美しい想い出だけ、心の中に残しておきたい。そう思った故の決断であった。
悲しみや怒りの感情に縛られて生きていくのは嫌だ。だからこそ、”優しい噓”で、サヨナラを告げた。
心が折れそうな状況は、依然として変わらない。”つらい”という感情が無くなるまでには、時間が掛かると思う。
今はまだ、気持ちの整理中だ。これは長期戦になるな。
改めて、人間関係の難しさや、人間の持つ”脆さ”を痛感させられた一週間だった。
何かを失うということは、多分、何かを手に入れることなのかな、そう思った。