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【能動的に本を読め!そして閃け!】『乱読のセレンディピティ』外山滋比古/著(扶桑社)

本を読んでもイマイチ得たものがないな、と思っている人へ。
読書は得るだけではなく、そこからの能動的な閃きも必要なのです。

無駄な読書が嫌いな人、それがゆえに読書に抵抗がある人へおすすめの本です。

おすすめ度・読者対象・要点

おすすめ度:★★★☆☆
読みやすさ:★★★★★
・高校生~
・主に悩める大学人や社会人にオススメ

この本はいくつかの要点でできている。
乱読する、つまりは丁寧に読み過ぎないことで、全体を俯瞰し、適切な要点をつかむ、ということ。
読者は受け身ではなく、能動的であれ、ということ。
知識はただ詰め込むのではなく、得た知識をかけ合わせて化学反応を起こし、新たな知見を得ることが大切ということ。

的確な指摘はないが、読んで読書の捉え方が変わることは、間違いなく保証する。


好きなポイントと注意点

積極的な乱読は、従来の読書ではまれにしか見られなかったセレンディピティがかなり多くおこるのではないか。それが、この本の考えである。

読書、大いに結構だが、生きる力に結びつかなくてはいけない。新しい文化を創り出す志を失った教養では、不毛である。
『乱読のセレンディピティ』外山滋比古/著(扶桑社)

セレンディピティとは偶然の発見・閃きのことである。
この本では、本を崇めるように、じっくり読むだけの読書を非とし、読者はもっと本に能動的に向き合うべきだと提案する。
そして距離を取って、時には忘れてしまったときに、突然セレンディピティはやってくる。

私もそれは大賛成だ。読書は読むことが目的なのではなく、読んで何かを得ることが目的だ。
そうするには数多く読まなければならない。つまりは速読である。

速読というと「10分で読める!」など流行りの本も思い付くが、たぶんここで取り上げる速読はそういうことではない。
意味わからないけどとりあえずどんどん読もう!というのがポイントなのだ。

一般に、乱読は速読である。それを粗雑な読みのように考えるのは偏見である。ゆっくり読んだのではとり逃すものを、風のように速く読むものが、案外、得るところが大きいということもあろう。乱読の効用である。
『乱読のセレンディピティ』外山滋比古/著(扶桑社)

それから、本は徹頭徹尾、必ず読まなくてはならないものではない。
本選びに失敗することはもちろんあることだから、これは自分に適していないと思ったらやめる勇気も大事だ。
置いといて、他の本を読んでいるうちにセレンディピティが起こるかもしれない。そうでなくても、いつか読めるようになるかもしれない。
それが読書の面白いところだと思う。
ちなみに、そうでない本だったら読み捨ててOKだ。

読んでみて、これはいけない、と思ったら、読みかけでもさっさと放り出す。いかにも乱暴のようだが、いやな本を読んでも得るところは少ない。放り出してから、どうして読み終えられなかったのかということを反省する。
『乱読のセレンディピティ』外山滋比古/著(扶桑社)

読書を単に勧める本ではない、というのがなんとも可笑しい。
それと、端々に外山さんの様々な苦言が入る。
あいや、先生厳しいですね、と私は舌を巻いた。

知識は得るばかりだけではだめなのだ。

知識はすべて借りものである。頭のはたらきによる思考は自力による。知識は借金でも、知識の借金は、返済の必要がないから気が楽であり、自力で稼いだように錯覚することもできる。

知識だけはたっぷり身につけるが、難しい問題を自力で考える力は失ってしまうことが多いのではないか。
自分でものを考える力をつけるには、近くに、強力な人や本があるとかえってよろしくないようである。むしろ遠くにありて読み、遠くにあって考えるものにセレンディピティはおこる。
『乱読のセレンディピティ』外山滋比古/著(扶桑社)

そのような外山さんが提案されている読書方法は、まさに今から取り掛かれることばかり。
ただ、読書法だけが書いているというわけではないから、読書法じゃないじゃん!といって放り投げないようにしてほしい。

特に中盤あたりから、外山さんの経験談が増えてくるのだけれど、自身が持ち出した受容論がなかなか評価されなかった!という恨みがましいお話が端々にある。
面白がれる人は読んだらいいが、集中がそがれる人は読み飛ばして問題ない。
他の文学論もさわりは出てくるが、概要もないので、もうちと紹介があればなあとは思う。ないからこそ、風のように読める、ともいえる。

最後に取り上げるのは、いろんな知識を取り込んだあとにすべきことのひとつ。
それはおしゃべりである。
それは1対1ではなく、なるべく多くの人とするのがいい
そうすることで、考えもしなかったところから、セレンディピティが生まれる。

コンピューターが当分できそうにないのはおしゃべりだろう。ひとりごとはダメ、相手と話すだけでも充分でない、数人の人とおしゃべりをする。といって、ゴシップなど喜んでいては話にはならない。新しい価値を求めて談論風発するのである。
『乱読のセレンディピティ』外山滋比古/著(扶桑社)


余談

「いや、くよくよすることはない、あすの朝になれば、自然に名案があらわれるさ……」
口ぐせのように、そう言っていたそうで、それがよくその通りになって、まわりを感心させた、というのである。
夜いくら考えても、うまくいかないことも、朝になれば、おのずと名案が浮かぶものだということを信じていたのであろう。
『乱読のセレンディピティ』外山滋比古/著(扶桑社)

私は外山さんが好き。
昨年お亡くなりになったのは、とても悲しかった。

なぜ好きなのか。それは高校の時の出会いがきっかけだ。
その時は目についた本をしこたま読んでみるブームが来ていて、ふと外山さんの『思考の整理学』が目についた。

読みやすい後癖のない文章なのに、グサグサくる指摘がたまらない。
外山さんの独特な目線にも目を見張った。

『思考の整理学』には日本語の捉え方というのがいくつか出てくる。
私はそれがたまらなく面白く、それで日本語の研究をするために大学に行きたいと思った。
それまで社会心理学でも先行するかとふにゃふにゃ考えていたのに、突然雷に打たれてしまった。それが、私の外山さんとの出会いである。

この本に書いてあったことも、早速物は試しとやってみる。
お財布が痛むから、ひたすら借りた本でやってみる。

現在読んでいるほかの本でも、アイデアというのは知識の蓄積から生まれるものだと言っている。
その蓄積は何から得るかといえば、やはり本でもなんでも数をこなすことが大切なのだという。

動画やネット記事もあるが、より深く、短い時間で得られるのはやはり本ではないか。それも、これはマンガよりはやはり活字がいい。
初めて得る知識はマンガや動画が分かりやすい。しかし、数をこなす必要があるときに、入門編ばかり読んでいては意味がない。
入門をかじったら、その類の本を風のようにどんどん読んでみる。わけがわからなくても、そのうち訳が分かってくる。分かったら、もう一度読んだって言い。

そういう読書は能動的読書といっていいのだろう。
時間は有限だから、何をするかは自分次第だ。
その時間でなにをし、何を得て、何を閃くか。
知的自由人となって、面白おかしい人生にしたい。私はそう思うのである。

心ある読者が求められている。つまり、自己責任をもって本を読む人である。
自分で価値判断のできる人。
知的自由人。
『乱読のセレンディピティ』外山滋比古/著(扶桑社)

みなさんはどうだろう?
ともに知的自由人を目指してはみないだろうか。

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