「踊ってしまう」音楽から生まれる文化
Takramの渡邉康太郎氏による『CONTEXT DESIGN』を読んだ。本書を紐解いていきながら、日々の実践の中で良いと思っているものはなぜ「良いのか」という問いについて考えてみた。
本の雰囲気を伝えたくて、なるべく引用を多めにしており長い文章になったが、全体を通じていまやっているアーティスト・マネジメントやギャラリーといった事業がどのような思想のもと行われ、最終的に社会においてどのような役割を担いたいと考えているかが整理されたと思う。
語り直すこと、解釈すること
『CONTEXT DESIGN』は、物語を語ること、語り直すことの意義を説明するところから始まる。これは本書でたびたび論じられるテーマだ。
読み始めてすぐ、僕たちがアーティストとともに制作活動やSNSでの発信について話し合うときに、よく挙げる例を思い出した。それは次の日に学校のクラスで語り直したくなるようなコンテンツ、パフォーマンス、音楽をやろうということだ。そうすれば、アーティストの活動をオーディエンスの生活や記憶に強い力でもって紐づけることができるからだ。
アーティストの作品や活動を語り直すことで、オーディエンスはそれを大切なものとして「所有」できるようになる。なにかを語り直すことは、それを自らのものにするプロセスでもあるのだ。
もちろん、語られるか否かとは別に、作品の卓越性や独自性は重要である。しかし作品が”売れる”ためには、思わず口ずさみ、それについて語りたくなるような”フック”が必要だ。それは作品を瞬間的に「消費」せず、一つの「体験」に昇華するための方法でもある。コンテンツの大海原で自分の作品を見てもらう、聴いてもらうためには、その感覚がアーティストにも、マネジメントチームにも不可欠だ。
第一章「コンテクストデザインの意味」では、この「語り直すこと」が、作品を「解釈すること」に結びつけられる。
ここで言われているのは、誰かがある作品について語り、解釈しようとするとき、その人のアイデンティティや美学が問われるということだろう。
僕はこの「解釈」という単位を、音楽やアートを作ったり、支えたりするうえで大切にしてきた。「解釈」において、人は自分が何者であるか、何を考えているか、その作品をどのように捉えているか、そうした「問い」に直面することになるからだ。それは筆者も言うように、作品に対して即時的な「消費」を越えた関わりをもつことにつながるだろう。
もっと言えば、僕自身は「解釈」という単位が「消費」に相対するものだとすら考えている。それは解釈を通じて読み手は書き手に、主体的で積極的な作品世界への参加者に変わるからだ。ビジネスとして音楽やアートを考えるのであれば、アーティストの文脈を受動的に受け入れ、それを積極的に消費していく「ファン」やそのコミュニティも非常に重要である。しかし、作品を通じて僕らが語りかけたいのは読み手に徹する受動的な存在、空っぽの容器のような存在ではなく、自らの主体性やアイデンティティを探り続け、その探究のたびに寄り添ってくれるような作品を探している読み手である。
弱い文脈の束、「ムーブメント」を作る
話を本書に戻そう。「コンテクストデザインの性質」という章では、「強い文脈」と「弱い文脈」という本書を貫く二項対立が示される。
ふたつのうち、筆者は特に「弱い文脈」の重要性を説いている。少し前後するが、本書の冒頭部を見るとそれがわかる。
さまざまな事業や表現は、個人の「内なる創作」から起こる。そして、それが「弱い文脈」を生む。この流れには強く共感する。僕らもまた「強い文脈」を志向しないし、どちらかというと「弱い文脈」が重要だと考えている。
たとえば、作品を広げていくうえで、できるだけ多くの人にリーチし、そこから一定のパーセンテージで離脱していくファネルの中から、ファンやコミュニティを作っていこうとするマスメディア的な、一方向の流通性は目指したいものではない。むしろ、作品によって発生する解釈や誤読すらもその作品の一部として扱うような、読み手をも含んだ双方向的な流通性を含んだ「ムーブメント」を作りたいと思っているからだ。これは「弱い文脈」的なものだろう。
しかし、これは「弱い文脈」そのものではない。言ってみれば「弱い文脈の束」のようなものだ。筆者が言うように、文脈の流通は貨幣のように一般性の高いものではなく、その場その場での身体性やそれぞれの解釈という個別性の高い単位によって成り立っている。そんな弱い文脈が次々と生み出される「ムーブメント」を作り出すことが重要だ。そう僕たちは信じている。
アンダーグラウンドよりオルタナティブ指向する
本書では、まさに作品の解釈についても語られている。印象的なのは、作品評価のための評価軸や言葉が不足する状況を指す「日照り」という表現だ。
言葉の日照りによって生み出される、他者を寄せ付けない排他的な文脈や、特定の強固な文脈。それは自分の体験からいえば、小さなサークルやコミュニティにおいて起こりやすい。文脈が濃厚に共有されすぎてしまい、さまざまな別様の解釈が生まれづらくなるからだ。
音楽でいえば、小さな集まりのなかで「売れなくてもいい」、「理解されなくてもいい」というようなアンダーグラウンド志向の態度が形成されてしまうことがある。大量の不安と、それを確かめ合い、安心し合うためのコミュニケーションによって、排他的な文脈が作られてしまう。みんなでひとつの考えを共有すれば、伝達も速く、確実だけれども、それがコミュニティの外にまで伝わることはほとんどないだろう。
それに対して、弱い文脈や、その束を作ろうとするオルタナティブ志向の試みは遅く、不確実性がつきまとう。作品を個々のオーディエンスが主体的に解釈し始めるまでは時間がかかるし、異なる作品の解釈が流通することはアーティストにとってリスクがある。しかし、そのリスクを適切にコントロールしながら、少しずつ歩みを進めていけば、コミュニティの外にまで作品を伝えることができるかもしれない。
これは良し悪しではない。アンダーグラウンドであることと、オルタナティブであること、どちらを重視するかは価値観の問題だと思う。ただ、僕は後者に賭けたいと思っている。作品にとって最も不幸なのは、小さなコミュニティで作品が「伝わりすぎて」しまい、解釈が一義的なものになること、やがて解釈そのものがなくなっていくこと。すなわち、筆者の言う「日照り」だと考えるからだ。
踊ってしまう音楽
では、そんな日照りに陥らず、むしろ次々と作品への新しい解釈が生まれるような状態はどうしたら作れるのだろうか。筆者はこう語っている。
いつのまにか弱い文脈をまとわせてしまだけの力。この言葉に触れたとき、自分の頭には「ダンス / 踊り」が浮かんだ。よい作品には弱い文脈=解釈を生む力があるのだとしたら、よい音楽には我々を踊らせる力がある。
ここで僕の考える「ダンス」は、作品に対する身体的な解釈であり、その人にしかできない主体的な解釈でもある。ステージの上でショーケースされるパフォーマンスに対して同じような反応をしたり、演者がそれを求めたりするものはまた別だ。たとえば、プチョヘンザと言ってみんなで手を挙げるような動作には、一義的な意味しかないだろう。それは「ダンス」ではない。
敷衍すると、つまらない現実や社会というものは、「ダンス」の少ない社会だろう。自分らしい解釈が許されず、自分は唯一のかけがえのない存在だと感じることができない社会。音楽やアートは、そんな現実の写し絵になるべきではないと僕は思う。
むしろ表現は、現実のなかにありながらも、自分のアイデンティティや主体性の発露をencourageしてくれるものであってほしい。音楽の現場でも、社会的な慣習や再帰的な恥ずかしさによって、ダンスしづらいことがある。僕はそんな現実を一変させるような「踊ってしまう」音楽が求められていると信じている。
弱い文脈と卓越性
では、よい作品によって生まれる解釈やダンスには、どのような価値があるのだろうか。筆者はヨーゼフ・ボイスやサン=テグジュペリを引きながら説明している。
著者はこのような考えがコンテクストデザインと共振しているといい、この前段で次のように書いている。
たしかにボイスの「社会構築」やテグジュペリの「世界の建設」とコンテクストデザインは「共振」しているかもしれない。しかし、僕は両者の違いのほうが気になる。僕は筆者の言う「弱い文脈を社会に根付かせること」には共感するが、「意図的な活動であれば、それが日常茶飯事であっても家事であっても芸術」なのだとはどうしても思えない。たしかに、創作活動は芸術家やデザイナー、アーティストに閉じられたものではない。しかし、すべてが作家であり、創作活動だというのはいきすぎた主張ではないか。
僕はむしろ、卓越性や独自性を備えた強い作品があったうえで、初めてそれぞれの創作活動が始まると考えている。こうした考えに近いものとして、友人の松本がレトリカの展示「彗星密室」に寄せた文章、松本友也「裏方日記」がある。
複雑なことが言われている文章だが、ここで僕が重要だと考えるのは、彼が「卓越性」の必要を前提としていることだ。自分のなかにあるイメージを社会的な文脈と接続させるために、それぞれが制約や困難を伴う制作をおこなう。そこにはたしかに生への癒やしがあり、どうしてもそれを必要とする人がいる。しかし、そんなそれぞれの制作──弱い文脈と言っても、解釈と言ってもいい──を作り出すためには、刺激的で、頭を殴られるような体験を生む「卓越性」のある作品が必要なのである。
わかりそうでわからないもの
そうはいっても、どのような作品であれば、実際にオーディエンスの主体性や多様性、知的好奇心を刺激するのだろうか。『CONTEXT DESIGN』に戻ると、それは「わかりそうでわからないもの」だ。
筆者はわからなさが設計された事例として、家具調の意匠が施されていた発売当時の家庭用テレビや、「馬なし馬車」として親しまれた自動車などを引き合いに出している。これらを紹介しながら、新しいものを社会に投じる際に、その理解を促すために既存の認知モデルを活用していると説明する。そして、「わかるとわからないのちょうど中間に位置するようなものが心地よい思考を促す」という。
音楽においても、個人的で、自分にしかできないオーセンティックな表現をしようとすると、その活動は必ず「わかりにくいもの」として出発することになる。僕たちと活動をともにするアーティストの多くも、そんなふうにスタートしている。ゆえに、そのアーティストにあったチームや方法を絶えず模索しながら活動を進める必要がある。
そうしたアーティストは、最初から広く消費されるような音楽やアートを作るタイプに比べて、「わかられる」ための努力が必要になる。かといって、その表現の本質を変えてしまって、「わかられすぎる」ようになっては本末転倒だ。そこで両者の中間に位置するような状態、筆者の言葉でいえば「わかりそうでわからない」状態を作る必要がある。
個人の創作活動や流通が容易になった反面、マスメディアが作品について適切に文脈を設定し、その共有を促すことが難しくなってしまった近年の音楽シーンでは、こうした努力がこれまで以上に重要になっている。
具体的に言えば、作品を聴いただけではわからないけれども、アートワークやミュージックビデオ、さらにはアーティスト自身のSNSでの発信といった補助線が幾重にも引かれることで、その音楽性の全体を少しずつ理解できるようになる。そんな活動展開が必要だろう。多重の補助線を理解する過程で、鑑賞者の主体性が引き出され、それぞれの身体性をもって作品を解釈し、「踊り始める」ことにつながるのである。
踊り始めるための仕掛け
もう少し僕自身の問題意識を展開したい。オーディエンスが踊り始める空間についてだ。音楽で踊る空間といえば、一般的にはクラブやライブハウスを浮かべるだろう。僕はそうした場を踊りやすいものにするためには、一種の「アフォーダンス」が必要だと考えている。
アフォーダンスは、アメリカの心理学者であるジェームズ・J・ギブソンによる造語で、環境が動物に対して与える「意味」のことである。ここではこの言葉をドナルド・ノーマンの用法に近い、よりラフなニュアンスで使って、「踊り始める」、「踊りやすくする」ために必要な仕掛けや仕組みとしてのアフォーダンスについて考えたい。
『CONTEXT DESIGN』には次のような図がある。中央左側をみると、鑑賞時の「欠如」の感覚が読み手の解釈や誤読を誘うということが示されている。筆者は欠如以外にも“余白、不完全、中空、不足、矛盾、分類不能、無目的”といった例を挙げ、それらが弱い文脈を発生させやすくするのだという。たしかに、ここに並べられた要素は解釈に広がりを与えるとは思う。
しかし、弱い文脈を発生させるうえでは、それだけでは足りないのではないか。もっと手前の段階で、人々が解釈を始める最初の一歩や、解釈しようという主体性を育てるきっかけが必要だと思う。音楽を例に取れば、人々が踊り始めるためには、ただ余白を演出するだけでは絶対に足りない。より積極的に「空間の自由な使い方を設計すること」や「行為の幅を増やすこと」が求められる。これらは踊りをはじめとして、音楽のイベントにかかわるさまざまな方法を提供するアフォーダンスだと言えるだろう。
実際、僕たちは音楽イベントでこうしたアフォーダンスをいろいろ設計してきた。いくつか具体的な例をあげてみよう。
イベント会場をいつもと違った見せ方で使う
安っぽいものでもいいからDIYする。たとえば、内装を文化祭風にしてみる。それだけで箱貸しのクラブが「自分たちの空間」に変わる。
イベント会場ではないところでイベントを開く
普段とは違うところでイベントをやってみる。既存のイベント会場やクラブはもちろん大切な場所だが、そこでのパフォーマンスや踊り方をオーディエンスがすでに知っており、その枠組みのなかで解釈してしまいがち。別の場所を選ぶと一気に雰囲気が変わり、パフォーマーにもオーディエンスにも自在さが生まれる。
笛やメガホン、バルーンを配る
いわゆるプチョヘンザ的な動きやいつものダンスではなく、声を出したり、叩いたり、音を鳴らしてみたり新しい身体運動が生まれる。またオーディエンスはより「作品」としてのイベントに介入している感覚を得られる。
ステージと客席の配置を変える
例えばお立ち台のようなものを作ったり、DJブースを真ん中に置くことで客が客を見ることのできる状態をつくる。オーディエンスの目線はステージ上だけではなく自分と同じ立場の客にも向くし、みられているという感覚は客を単なるファンではなく半分パフォーマーのような状態にする。レファレンスは海外のサッカーのフーリガンやストリートの集まり。ストリートボールのようなスタジアムではない場所で行われる試合では、有名な選手がやってくるとみんな興奮して柵によじ登って観戦する。
フリーマーケット
音楽以外のコンテンツを作る。ショッピングールのような独特の回遊性が生まれ、オーディエンスの動きが変わる。また、フリーマーケットの出品者は客でも演者でもある。このレイヤーに位置する存在がいることで、オーディエンスはステージと自分の日常との距離をぐっと近く感じることができる。
こうした工夫がなければ、オーディエンスが自由に踊ることは難しい。たとえば、有名なアーティストが武道館で公演している風景を思い浮かべてほしい。パフォーマンスに対して観客全員が同じ動きを棒立ちのまましている姿が想起されるのではないだろうか。あるいは、「プチョヘンザ」のような決まりきった煽り文句とオーディエンスの反応。どちらも楽しみ方や関わり方が決まっているライブパフォーマンスだ。
そこには作品への主体的な参加や、その解釈を通じたアイデンティティの発露は見られない。むしろ、自分を作品に預けてしまう、埋め込んでいくようなプロセスがある。それによって得られる一体感や安心感が必要なこともあるだろう。実際僕らもビジネスやマーケティング的な視点でそういったライブを行うこともあえる。しかし、そこには自分の目の前の現実を変えたり、主体的な解釈から新たな創作へ向かったりする意志を見出すことは難しい。
誤解のないように付け加えておけば、いわゆる普通のライブが悪いわけではない。コールアンドレスポンスやMCを適切に入れることによっても、オーディエンスは「踊り始める」ことができる。ただ、ライブパフォーマンスの技術だけでそうしたオーディエンスの動きを演出することはかなり難易度が高いと思う。
だから僕たちは、誰しも持ち合わせているアイデンティティや個性、オーセンティシティ、それぞれ固有の美学をみんながより表現しやすくするために、「空間の自由な使い方を設計すること」や「行為の幅を増やすこと」といったアフォーダンスを設計するのである。
身体を通じた一回性の獲得
──ロンドンでパーティーを共同主催したり、アメリカをツアーしたときに一緒にイベント制作をしたりしたSimon Whybrayというデザイナーがいる。PC Musicなどのアートワークを手掛ける彼とはロンドンで出会った親友のような存在で、いまでもよくDMでやりとりをしている。
2020年、コロナによるロックダウン直前にTohjiのライブでロンドンを訪れた際には、2人で3-4時間散歩しながらいろいろなことについて喋った。音楽のライブやその周辺のアートについて日頃から考えているため、その日もイベントやそこでの身体性の話になった。
どうすればパフォーマーやアーティストの周辺にコミュニティを作ることができるか。どのようなダンスフロアが理想的なものか。そこではどんな身体性が発露しているべきなのか──。
そうやって喋りながら歩いていると、Simonは自身が気ままに更新し続けているtumblrをiPhoneの画面越しに見せてきた。そこにはこんな引用文があった。
直訳すれば「オーディエンスにとってではなく、パフォーマーにとっての体験を構築する」だろうか。表面的に読めば、それは「オーディエンスよりアーティストが大切だから優先したほうがよい」とか、単純に「演者が喜ぶようにうまくイベントを回そう」といったニュアンスに受け取れるかもしれない。
しかし、僕はもっと違う解釈をした。Simonがこの文を引いて伝えたかったメッセージは、「オーディエンスをオーディエンスとして扱うのではなく、彼らをパフォーマーとして扱う、そのための体験をデザインすることが重要である」ということではないか。オーディエンスのことを、ステージで展開されるショーケースの見物客として扱うのではない。イベント全体を作品として捉え、作品の一部としてのオーディエンスの身体性がどのように発揮されるかをデザインする。いかにして全員をパフォーマーに変えることができるかが重要なのだと。
そのときSimonは、没入型演劇「イマーシブシアター」を考案したロンドンの劇団・Punchdrunkによる『Sleep No More』という演劇についても教えてくれた。じつはこの作品は、参加を求めるコンテクストデザインの事例として『CONTEXT DESIGN』でも紹介されている。本書の紹介文を引用しよう。
この後に続く本文でも書かれているが、イマーシブ・シアターという形式や、『Sleep No More』という作品の内容は、ここではさほど問題ではない。重要なのは、オーディエンスが自らの意志で自分のいる場所や観るものを選び取ることで、自身の身体性をともなった一回性の高い作品鑑賞ができる点、さらに言えば、それは鑑賞を超えた創造的行為にもなりうる点にある。本書ではこうした体験が、次のようにまとめられている。
僕はこうした体験こそが、音楽やアートを鑑賞することの本質的な意味に強くかかわっていると思う。オーディエンスが踊り始める音楽をつくりたい。自分の意志でさまざまな参加の可能性があるイベントやムーブメントを仕掛けたい。僕たちがそんなふうに考えている背景には、この身体を通じた一回性の獲得という思想がある。
これは最近よく観るマルチエンディングのコンテンツや、いくつか違うバージョンのCDのうち自分の推しが写っているジャケットを買うといった「選択」とは異なる。それは一義的な解釈が求められる消費のいちバリエーションであって、自分の身体を自らの意志で動かし、一回性を獲得することではないからだ。
──誤解を恐れずに言えば、そうした消費は、僕にとってアートとは関係がないものかもしれない。作品の鑑賞において、自分の身体性を伴った意志やアイデンティティが問われないなんて、ありえない。自分ではなくてもできる「鑑賞」にどんな意味があるだろうか。
《玄関と通りのあいだ》とソーシャリー・エンゲージド・アート
『CONTEXT DESIGN』では、アートについても雄弁に語られている。とりわけ、ソーシャリー・エンゲージド・アート(以下、SEA)とコンテクストデザインを比較した箇所は重要だ。
まず、筆者が引く「SEAリサーチラボ」の説明によれば、SEAとは次のようなものである。
筆者はこの理解のもとで、SEAとコンテクストデザインとをこのように対比している。
コンテクストデザインは、人々が思考や活動を始める「導き」や「ゆるし」を与え、「弱い文脈」を発生させる。それに対してSEAは、アーティストによる目的意識に沿った参加が想定されることで、「強い文脈」を発生させる──いくつかの共通点が示されながらも、そんなふうに対比されている。
しかし、本当にそうだろうか。本書で言及されているSEA系の作家として、スザンヌ・レイシーというアーティストがいる。僕は彼女の作品を「アナザーエナジー展:挑戦しつづける力―世界の女性アーティスト16人」(森美術館)で見た。そこに出展されていた作品《玄関と通りのあいだ》が強く印象に残ったので、これを通じて自分なりにSEAとコンテクストデザイン、そして自分たちの実践について考えてみたい。
まず、《玄関と通りのあいだ》は、先ほどの展示の公式サイトによれば、次のような作品である。
このように、本作は2013年にパフォーマンスされたものである。そのため、森美術館の展示ではアーカイブ映像と、それを観るために用意された展示空間があった。そこには当日使われた黄色いストールと同色の椅子やカッティングシートが置かれ、また、参加者の議論したトピックが質問形式で記されていた。
この作品が僕にとって重要だったのは、街の一角と美術館の入り口が、「黄色の縁取りされた歩道」や「ストール」「設置されたバナー」といった視覚的な美学へのこだわり(ビジュアリティ)によって作品化していることである。それは日々人が暮らし、行き交う公共空間そのものが作品化したとも言えるし、作品が公共空間を堂々と占拠したとも言えるだろう。
さらに、参加者たちはそんな作品=公共空間において、自身のストーリーを語ることが求められる。自分の物語を大切にされる経験は、参加者だけではなく、鑑賞者にとっても、自分たちの日常の延長線上にアートや美術館、公共空間を位置づけ直すきっかけになる。少なくとも、僕にとってはそうだった。作品を見ながら、僕たちがクラブやライブハウスにアフォーダンスを仕掛けていることは、レイシーの活動やソーシャリー・エンゲージド・アートと似ているかもしれないと思った。
フレイレからの影響=「教育的な」方法論
「アナザーエナジー展」のカタログには、アメリア・G・ジョーンズ「スザンヌ・レイシー──「ソーシャルプラクティス」の想像につながる、その教授法とパフォーマンス」という文章が掲載されている。これはレイシーの作品やその背景を解説したもので、なかでもレイシーの師事したジュディ・シカゴとアラン・カプローの実践について書かれた箇所が興味深かった。
フレイレは”Culture of silence”(沈黙の文化)を主体的に変革していく”Humanization”(人間化)の過程こそが必要だと説いたブラジルの教育者である。その影響下にあるシカゴとカプローの方法論を象徴する記述が以下の部分だ。
一方的な知識の伝達や美的体験の提供よりも、実践に基づいた関与を重要視し、学生自身が日常的な経験を表現する。これはアートと音楽という形式的な違いこそあれども、オーディエンスが自身の身体性や日常的な経験のなかで音楽を解釈し、新しい創造に向かうことを目指すという点で、僕たちの目指すところとよく似ていると思った。
Vlogを作ることでアーティストの日常を開く。ファンがプレイリストやリミックスを作ることを促す。そうしたエンパワメントの影響もあって、僕たちのアーティストが新曲を出すと、誰かしらのファンがアンオフィシャルなMVを制作してくれることもある。
──もし広告業界の人にこんな話をしたら、「クオリティの高いUGCが多いですね」なんて言われてしまうかもしれない。しかし、それとこれとは本質的にまったく異なる。僕たちがサポートしたいのは、作品の解釈を通じて日常的な経験を表現することそのものにあるからだ。フレイレのように教育者ではないけれども、「教育的な」方法論を採用しているのである。
弱い文脈と強い文脈を超えて
『CONTEXT DESIGN』において、筆者はSEAを「強い文脈」に、コンテクストデザインを「弱い文脈」に貢献するものだと割り振っていたのだった。しかし、ここまで紹介してきたレイシーの作品や、その背景にある考え方は、この二項対立を逸脱しているのではないだろうか。
《玄関と通りのあいだ》の参加者は、作品に関与し、自身の物語を語るなかで、能動的で自主的な身体性を獲得する(「弱い文脈」的な個人の物語の発露)。しかし、そのプロセスにおいては、黄色いストールのように視覚的・美学的な体験や、レイシー自身の卓越性が強く影響を与えている(「強い文脈」的な普遍性の流通)。レイシーの作品は、この二分法ではうまく説明できないように思える。
これはレイシー作品の僕なりの解釈であると同時に、自分たちのスタイルの言語化でもある。僕たちが考える音楽やアート、クリエイティブもまた、強い・弱いという二分法から離れたものだからだ。普遍的な作品を作り、それを個々人がユニークな方法で解釈すること。いい音楽と適切なアフォーダンスによって、「自然と踊り出してしまう身体」を作り出すこと。これらは強さと弱さの入り混じった方法論である。
本記事の冒頭で、本書が「語り直すこと」や「解釈すること」を重視していると記した。筆者とは意見を異にする部分はあれども、やはりこの点については強く共感する。「次の日に学校のクラスで語り直したくなるようなコンテンツ、パフォーマンス、音楽をやろう」。そう考えると、作品をどうやって聞いてもらうか、どうやって作るかではなく、作品には何ができるかという想像力がかき立てられる──。
小さな実践から大きな文化へ
僕らがCANTEENという会社において日常的に実践できることは本当に少ない。それはライブにおいて小さなアフォーダンスを用意したり、リリースする楽曲やそのプロモーションの解釈をほんの少し開かれたものにする程度だ。どれだけの卓越性を持ったアーティストや作品であっても、何か1つで誰かの人生や社会を変えることはできない。
しかしそれらが身体性をともなった一回性の高い解釈を生み、それが新たな創造に繋がるとき。その解釈や創造が束になりムーブメントとして社会に刻まれるとき。その動きが数ヶ月や数年のトレンドとして消費されることなくエコシステムとして機能し始めるとき、自分たちの作っている音楽やアートが東京という都市や一つの時代の文化へと昇華するのではないか。
普段の業務の中で僕らが扱うドメインは音楽やアートが主だ。しかし本稿で書かれた身体性を伴った文化が社会に広まった時、音楽やアートが単なる「クリエイティブ」な「かっこいい」ものとして消費されるのではなく、そうした文化を通じて経済も、政治も、ふたたび自分たちの手に取り戻せるのではないか。
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