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【小説】白いサザンカ

ロンさんと僕はその日、居酒屋に居た。
「ほんでなぁ、俺、そいつのこと好きやってん」
長い長い前置きののち、ロンさんが言った一言に僕は、その後の返事をどうすべきか悩んだ。

僕たちは安い大衆居酒屋に居る。
壁に雑に貼られたおすすめのメニューはヤニが付いて黄色くなっていたし、電気の傘には埃が積もっていたし、周りにいる人たちがどこか目が虚で何か探し求めているような、雑踏とした店だ。
比較的大学から近いこの居酒屋は、知り合いに会うかもしれないという緊張があるものの、貧乏学生には優しい値段の店だったせいで贔屓にしていた。
大学の先輩のロンさんも同じだ。
もう何時間居座っているかわからない。ロンさんは比較的酒に強いが、それでも酔いは回ってきているくらいだ。
グラスは交換制だから正しい杯数はわからないものの、もう10杯くらいは飲んでいるはずだ。
ほんのり赤くなった頬をニィと釣り上げながら彼はもう一度、言った。

「俺もなぁ、好きやったんや」
哀愁とも爽快とも言えない不思議な目で彼はそう言った。
僕は、「はぁ」としか返事できなかった。
ふわりと浮かんだロンさんの煙草の煙を目で追って、それが見えなくなると今度はロンさん自体を見た。
「俺はな、どーしようもない男や。女好きやし、バンドしか趣味はないし、借金してるし」
僕はまた、はぁ、と返事した。
「でもなぁ、そんな俺を貶さず突き放さず一緒にいてくれる友達もおったんや。そいつは男やったけど、俺のどんなクズ話聞いても笑ってくれて、お前の作る音楽は最高や言うてくれた。いいやつやった。自分も女にモテない訳じゃないんにな、バンド優先してくれて、俺と一緒にステージ立ってくれて、アンケート漁るんも楽しくて。俺にとってはあの時間が1番幸せやったんや。男としても、バンドマンとしても最高潮で。あいつはなぁ、俺が何言うても、お前は才能あるんやから諦めるな、言うてくれて。俺が死ぬ時見る走馬灯は確実にあの頃のことばっかや。そんくらい、最高な時間やった。そんでな」
そこで言葉を切ったロンさんは目の前の水滴だらけのジョッキを傾けた。
ごくごくと音を立ててビールが吸い込まれていく。
僕も釣られてグラスに口をつけた。
「そんでな、そいつに彼女できてん」
ドン、とテーブルに叩きつけるように置いたジョッキは、もう空っぽだった。
「はぁ」
「かまへんよ、だって、彼女なんか作るの当たり前やし。バンドやってればそれなりにモテるし。でもなぁ、なんか俺は、裏切られたような気がしてしまってなぁ」
ロンさんが少しだけ俯いた。
それに合わせて男にしては長めの前髪が彼の目にかかる。
「急にな、俺は一人になったような気がしてな。いきなりステージにぼっちで立たされるみたいな不安になってな。でもそんなん言えんやん?俺だって男のプライドあるし。彼女できたことへの嫉妬とか思われたくなかったし」
そこで言葉を切ると、煙草に火をつけた。
煙が細く昇っていく。
「何が嫌なんやろって思ってもわからんかった。俺に彼女おらんかったからそれで彼女作ってずるいとか、バンド疎かになるんやないかとかそう言う不安があったんだろうなって、自分を納得させてたんや」
ふぅ、と長く息を吐き、彼の煙が僕の顔にぶつかる。
僕は一瞬、息を止めた。
「そんでな、あいつ、その子と結婚することにしてん。結婚するよ、言うて。真っ先にバンドのメンバーにLINEきて。ほんでな、なんか複雑なまま俺はおめでとう言うて。そしたらあいつから電話かかってきてん。もしもしーーって出て」
ゆらゆらと昇っていく煙を目で追うと、少し背の高いカウンターの向こうで飲み物を入れているバイトの子の姿が見えた。すぐロンさんに目を戻す。
ロンさんは、比較的整った見た目をしている。80年代のロックをリスペクトしたオリジナルバンドをやっているせいか、どこか服装は昔を感じる。
今日もGジャンのセットアップに少し長めの髪をハーフオールバックにしている。
タイムスリップしてもあまり違和感がないような見た目だ。
「そんでな、結婚決まったよ、って言うんや。俺は知っとるよーさっき見たから、って返すんや。ありがとうーって返してきて。なーんか他人行儀でソワソワしとるなーと思って。なんの用やねんってふざけて言ったら、急にかしこまりやがって、僕は君が好きでした、って。そう言うんや。結婚決まった男が言うセリフちゃうやろ、と思ったけどそんな冷やかしていい雰囲気ちゃうかった」
ロンさんがため息を吐く。
「そんときはもう何言っていいか分からんくて俺は、おう、とか、ありがと、とか当たり障りないこと言うて、おめでとうとか言うて、ちょっと雑談して切った。切って一人になったらな、心臓ハクバクしてん」
その時を思い出すかのようにロンさんは胸に手を当てて目を瞑った。
今の彼にはその人の声が聞こえているのだろうか。
「そんでなぁ....俺は気づいたんや。俺もあいつのこと好きやったんやって」
くしゃりと音が立ちそうなくらい歪めた笑顔は、泣いているのに等しかった。
話半分で聞いていた僕はどんな言葉が相応しいのか、わからなかった。
ロンさんは耳の上の髪を軽くかきあげて、灰だらけになった灰皿に煙草を押し付ける。
「でもなぁ、そんなの後出しやん。気づけなかった俺の負けやん。本当は俺も好きやってん。俺も好きでした、なんて言うたら結婚ぶち壊してしまうやん。せっかくあいつが踏み出そうとした新しい生活、俺のエゴで壊せる訳ないやん。なんやねん、好きでしたって。俺は過去の人間なんか?なんで好きな時に言うてくれへんねん。そんとき言うてくれればもしかしたら、幸せになれたかも知れんやん。そんなことばっか思うてな。その日、お袋死んだ時以来、初めて泣いた」
ずいぶん酒が回ってきているようだ。ロンさんは耳まで赤い。
「あいつはもう未練なんかないねん。どうしようもないねん。あいつはもう1児のパパや。幸せ掴んで前に進んどる。だけど俺はな、あいつの言葉でずっと時が止まってるねん」
ロンさんが項垂れた。
「時々見かけるあいつの幸せそうな姿みて、俺は苦しくなるねん。怨みすら湧くねん。なんでわざわざ言うたん?言わずにいてくれれば俺もこんな苦しまなかったかもしれんのに、ってな。これもまあエゴなんやけど。あいつが前に進むために必要な犠牲だったんかもなとか思うけど、じゃあ俺の幸せは?って思ってまうねん。汚い大人よなぁ」
自嘲気味にケラケラ笑う。空元気とも言えるその態度に僕はますます何も言えなくなった。
「すまんなぁ、こんなこと言うて。後輩に聞かせる話しちゃうわ、ほんま、ごめんな」
苦しいほどにまっすぐな目で見つめられて僕は頷くしかなかった。
「いいですよ」
ロンさんはホッとしたような表情を浮かべた。
もう空なのに、もう一度ジョッキを傾ける。もちろん、彼の口には何も注がれていない。
「ほんま、聞いてくれてありがとなぁ、誰にも言えんくて。苦しかってん。ありがとうなぁ」
泣き笑いのような笑顔をまた彼は浮かべた。
笑うとロンさんは目尻に皺が寄る。人の良さそうな印象はその皺が与えているのだと気づいた。
「いえ」
気の利いた返事はできない。
それでもロンさんはきた時より少しだけスッキリした顔をしていた。
「ほんまになぁ、人生なんか何があるか分からんよ」
突然先輩だと言うことを思い出したのか、そう説教じみたセリフを言って彼は再び煙草に火をつけた。

居酒屋の喧騒がやけに遠く聞こえた。

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鬼堂廻
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